第一話:公園での出会い
「……よっと」
ソフトケースに入ったシンセサイザーを背負う。
私のシンセサイザーは
それに鍵盤数が少ないということはそのままシンセサイザーの本体が小さくなるということだ。つまり鍵盤数が多いシンセサーザーよりも重くない。それが私には大事。
背負った後に、ケースの隣に立てかけてあった杖、ロフストランドクラッチを掴む。
――私は生まれながらに足が悪い。
生まれた時から先天性股関節脱臼を患い、小学生では変形性股関節症にもなってしまった。大人でも激痛に耐えかねるというキアリ手術を受け、散々、何年も何年も苦しいリハビリもしてきたけれど、結局左右の足の長さが違うままで、外出時にはロフストランドクラッチを手放せない身体になってしまった。
流石にゲームの中のように自由に走り回ったり、全力で動いて戦ったり、というのは出来な……いや戦うことは何があってもないけれど、装具があれば歩くのに不自由は殆どない。ロフストランドクラッチは補助的なものであって、なくても歩くことはできるし、軽くならば小走りだってできる。私生活だってまったく不自由も支障もない。手放せないと言うには少し大袈裟だけれど、転ばぬ先の杖という意味ではやはり手放せないものだ。
それでも、こんな境遇だったせいであまり友達ができなかった私に、母はピアノを勧めてピアノ教室にも通わせてくれた。
それが長じて今はシンセサイザーを弾いている。
今ではもうピアノ教室には通ってはいないけれど、シンセサイザーを購入してから、暫くはプロの曲のコピーをしたり、思いついた鼻歌に伴奏を付けてみたり、と色々楽しみながらやっていた。それも僅かな期間で、すぐに自分で作曲を始めたりもしていたのだけれど、自作の曲が増えてきた頃からピアノ教室の先生の勧めで時折公園でストリートライブをしている。
ピアノの先生は今でも時々会ってゴハンを食べたりもする、私にとっては学校の先生よりも余程恩師と呼べる存在。
「……」
我が
腕時計を見て時間を確認する。一八時三十分。
今日は父も母も出かけているので、晩御飯は自分で何とかしないといけない。お気に入りの喫茶店でご飯を食べてから行くとしようかな。
お気に入りの喫茶店、
「いらっしゃい。あら
「こんばんは、
涼しげな声とともに店主の
晶子さんは私のピアノの先生、
「何にする?」
そんな可愛い晶子さんが経営しているこのお店、TRANQUILは珈琲も紅茶も食べ物もとても美味しい。ちなみに涼子先生も本業は喫茶店の経営で、ピアノの先生はごく限定的に行っている副業らしい。
「BLTとチーズケーキで。コーヒーはモカ下さい」
シンセサイザーを肩から降ろして、お店の隅、いつも置かせてもらっている楽器置場に置かせてもらう。このお店はバンド者が利用することも多いので、楽器置場がある。
「はぁい、かしこまり。シンセ持ってるってことは今日はストリートするの?」
「あ、はい。一応八時くらいから少し空いてれば」
私はシンセサイザーとロフストランドクラッチを置いてカウンター席に戻る。ロフストランドクラッチがないせいで多少跛行しているようにも見えてしまう歩き方だけれど、ここ数年、特に危なげな痛みはないし、無理をしなければ長時間立ちっぱなしでも大丈夫だ。
「市立公園?」
「はい」
市立公園は野外音楽堂もあるし、菖蒲畑や緑の中を歩ける長い遊歩道、大きなドッグランやバスケットボールのゴール、スケートボード用のバンクやランプもある、この街で一番大きな公園だ。そしてこの街にある一番大きな楽器店が公園の使用許可、占有許可まで取得して、なんだったら発電機やアンプといった機材まで貸してくれて、私たちのようなアマチュアのストリートミュージシャンがいつ行っても自由にライブ出来るようにしてくれている。
何でも、『ともかくミュージシャンの活性化』が目的らしくて、それは隣町の
ともかく私の耳には良く判らない理由しか入ってこなかったのだけれど、私たちにとってはとてもありがたい催しだ。
「その時間くらいにお客さんいなかったらお店閉めて見に行くわね」
「ありがとうございます、晶子さん」
有り難いことに、涼子先生と晶子さんは時折こうして私の演奏を聴きに来てくれる。私のことを心配して来てくれているのもあるのかもしれないけれど、私はそれを考えないことにしている。でないと涼子先生や晶子さんに見抜かれて叱られてしまうのだ。
「それはこっちの台詞よ」
「今のところそうでした」
確かにまだ今はTRANQUILのお客さんだ。そうそう、晶子さんのBLTはめちゃくちゃ美味しいんだ。はぁ楽しみ。コンビニエンスストアでもお腹が空いている時にBLTを見かけると良く買うくらい私はBLTが好き。コンビニエンスストアの物も実はなかなか美味しいのだけれど、それでも晶子さんのBLTの足元にも及ばない。
そんなことを考えつつ、晶子さんのBLTに思いを馳せていたらぶるる、っとスマートフォンが震えた。アプリケーションの
『羽奈、今日やるんだよね?』
メッセージを送ってくれたのは中学時代からの大親友、
『やるよー。多分八時くらいから』
顔文字もイラストハンコもふんだんに使う。
『おしゃ、んじゃ友達連れてく!』
『お、ありがとー』
流石は我が大親友。別にライブハウスでやる訳ではないので、聞いてもらえる人が減ろうが増えようが赤字にも黒字にもならないけれど、聞いてくれる人が増えれば単純に私が嬉しいし、モチベーションも上がる。
『なんもだー』
超変な熊のハンコを返してくる。相変わらず面白い奴だ。私のような女と関わったって何の得もないし迷惑がかかるだけだというのに、そんな私の悩みなどどこ吹く風だ。仄曰く『自意識過剰のメンヘラなら相手にしないけど、羽奈は結局ただのかまってちゃんだから』だそうだ。図星なのかもしれないけれど言い方というものがある。
だけれどそれでずけずけと近付いてきた仄にどれほど救われたか判らない。仄がいなければきっと今の私はない。
『なんだそれ』
語尾に『w』を三つ付けて返信すると、私はスマートフォンをテーブルに置いた。
「――羽奈でした」
遊歩道が広く、休日の昼間ならばバーベキューもできるスペースに私たちのステージはある。ステージといっても野外音楽堂とは別の、ただの広場だ。聴きに来てくれている人と私たち演者の目線は同じ。周囲は木々に囲まれていて、多少は防音の役目もあるのかもしれない。公園の周囲には多少住宅もあるけれど、この演奏場からは結構離れているので、騒音にはならない程度なのだろう。
私はその自然の中のステージで名乗った。
一応音楽活動をするときには羽奈で通している。苗字は名乗らない。フライヤーを創ることもないので、音で『はな』と判るけれど、音で文字までは判らない。本名はばれないだろうし、ま、ばれたところで恐らくどうということもないだろうけれど。
僅かに二〇分。今日は私以外にも弾き語りのアーティストが多かったので早めに引き上げることにした。特に時間は定められてはいないけれど、ライブハウスと同じく、粗方三〇分で転換というのはここでの暗黙のルールだ。たまに破った人が次の出番の人と喧嘩になることもある。大体は口喧嘩で終わるけれど、取っ組み合いの喧嘩もあるらしい。そんなものに巻き込まれたら大変だ。
私は見たことはないのだけれど、どこからともなく『ファイヤーマスク』という覆面男が現れて、たった一人で喧嘩両成敗とばかりに、両方ともとっちめて帰って行く怪人もいるという噂もあって更に恐ろしい。
私は女一人だから、喧嘩になればまず勝てない。口喧嘩なら勝てることもあるかもしれないけれど、喧嘩そのものが煩わしいし、勝ったところで得るものは何もない。そもそもここで何度も顔を合わせることになる人と揉めるのは全く好ましくない。ルールは守るに限るのだ。
「あぁーっ!ちょっと待って!あと一曲!あと一曲だけやって!お願いぃっ!」
「……?」
後片付けをしようとした私にそんな声がかかった。声の主は見たことがない、背の低い女の人だった。結った髪色は明るく、襟足で折り返して後頭部のバレッタで留めている。大きな身振り手振りで私にアピールしてくるけれど、はいわかりました、という訳にはいかない。
マイクは次の人が使うからまだ生きているので、私は口を近付け、言った。
「や、あの、次の方の出番ありますから……」
私はそう、女性に言った。私よりは確実に年上だろうけれど、何歳くらいだろう。二十代中ごろかな。
「そ、そっか……。そうだよね……」
背後にガビーンと擬音が出てもおかしくないくらいの表情でその女性は力なくうなだれた。この状況がアニメか漫画で再現されれば絶対にガビーンと入っているはずだ。
「……まだ二十分だしさ、別にいいよ」
私の次に弾き語るであろう男性というか、同い年くらいかな。男の子が言った。目が小さいのか細いのか、いわゆる糸目っぽくて何となく笑い顔のせいか、ゆるい印象を受けてしまう。
「え、でも」
待っているのはこの人だけではない。この人の後にもまだ演奏したくて待っている人たちがいる。
「聴きたいって言ってくれる人がいるんだから、聞かせてあげなよ」
うらやましいかぎりだねぇ、なんて呑気に言いながらその人は笑った。
「貴方が良くてもその後……」
「僕がちょっと巻きでやればいいし、後の誰かが文句言ってきたら一緒に謝ってあげるからさ」
「そこまでは……」
流石に赤の他人にそこまでさせる訳にはいかない。確かに私の演奏を聴きたいと言ってくれるのは本当にありがたいけれど、この場にはこの場のルールがある。それに、何と言うか「ベツにオレァ悪くねぇけど?一緒に謝ってやんよ」的な、ちょっと上から目線なのも気に入らない。いやそこまで悪辣に言ってはいないし、聞こえてもいないし、恐らく彼的には上からでも何でもないのだろうことは判っているのだけれど。
「それに後々変な噂流されてもつまんないし、こうやって喋ってる時間も勿体ないよ。ささ」
その人はそう言って私をまたマイクの前に押し出そうとする。
「ちょ、あぶなっ」
私は足が悪い。普通の人みたいにトトン、と踏ん張れる時と踏ん張れない時がある。股関節につきん、とした軽い痛みを感じたのと同時に、ぐらり、とバランスを崩してしまった。シンセの上に手をついてしまうかもしれない、と思ったらそこで彼に抱き止められた。す、とお腹に腕を回されて支えられた形だ。
「っととぉ」
その彼がすぐに気付いてくれたみたいで良かった。このままシンセに手をついていたらスタンドがずれて横倒しになって、私もシンセも無事ではなかったかもしれない。
「ご、ごめんね、気付いてはいたんだけど……」
急に驚いた顔になってその彼は言った。確かに普通の人ならばよろけもしないくらいの押し方だったのだろうから、驚くのも無理はない。それに準備をする時からロフストランドクラッチも使っていたので、足が悪いんだろうな、くらいの予測はしていたのかもしれない。
「だ、大丈夫。私こそすみません、お時間頂いちゃって」
そう。だからこの彼を恨む気はない。機材も無事だし私は転んでもいないのだから。幾らロフストランドクラッチを使っていたのを見ていたとしても、私の足の具合がどんなものかまでは判らないのが当たり前だ。こうして歩いてここまで来て、立って弾き語りをしていたのだから。
「いえいえ。さ、じゃあどうぞ」
少しおどけながらその彼は私を促すようなポーズを取った。気付けば彼は私を止める時に、私のお腹に手を回していた。抱き止められた形だ。男の人にそんな触られ方をしたのが初めてだった、と今になって気付いた。
「じゃ、じゃあお言葉に甘えて一曲だけ……」
急にどぎまぎしてしまう。彼はにやにやしている気もするけれど、元々が笑い顔の人だからもしかしたら真面目な顔なのかもしれない。でも、それでもなんだか少し腹が立つ。
「わぁっ!ありがとう!ごめんね、ホントにっ!」
私にもう一曲、と言ってくれた背の低い女性は一頻りはしゃぐと私を拝むかのように手を合わせて頭を下げた。
「いえ、こちらこそ態々ありがとうございます。じゃ最後……」
ここまで言われると流石に何と言うか、私も愛想を振り撒かざるを得ない。私は基本的に仏頂面で無愛想な女だけれど、できる限り柔和な笑顔をイメージしてみる。
(だめだこりゃ)
多分失敗だ。
私は佇まいを正し、一度深呼吸をすると前を向いた。
来てくれた晶子さんや仄たちも残ってくれている。そして私にリクエストをしてきた女性は目をキラキラと輝かせている。
(まぁ……)
噂くらいにはなるのかもしれない。足の悪い女が弾き語りをしている、程度の。
(どうでもいいか……)
そんなくだらない被害妄想よりも、目の前に私の歌を聞きに来てくれた人がいる、という現実の方が大切だ。
(集中!)
第一話:公園での出会い 終り
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