第三話 侵入者は南風とともに

 この日の江戸は、雲一つない五月晴れである。

 朝稽古を終えた門弟たちはさんさん、祭り見物に向かっていく。この日は観音祭とも呼ばれる浅草祭があるのだ。

 祭りは片町、茅町、天王町、黒船町、三好町などの各町がおのおのの趣向をこらした山車行列から始まるらしい。その祭礼行列は当日の早朝、浅草見附のもんがいに集合し、御蔵前から諏訪町、並木町と進んで仲見世から境内に入り、観音堂に安置された神輿の前に参詣の上、随身門を出て自分の町へ帰るのだという。

その話を嬉々として語ったのが総司である。いつのように何の前触れなく歳三の部屋にやってきた総司は、歳三の都合などお構いなしに語りだした。

「お前の目的は、食い物のほうだろう」

「それはもちろん。浅草と言えば『駒形どぜう』のどじょう鍋でしょうね。どじょうを甘味噌仕立ての味噌汁で煮こんだあの味は絶品だそうです。そうそう、天丼もいいですねぇ。

器からはみ出すほど大ぶりの海老の天ぷらに小海老とイカと小柱がまとめられたかき揚げ、白身魚の天ぷら。香ばしいごま油の香りと甘辛い天つゆとの相性も抜群です」

 総司が食べ物の話を始めると長くなるため、歳三は片手を上げて話を制した。

「お前の食い物講義はもういい」

「土方さんは、浅草祭に行かないんですか?」

「またどこかの馬鹿どもと鉢合わせしたくはねぇからな」

「まるで、私が厄を運んでいるように聞こえますけど? 言っておきますが、浪人たちに絡まれるのは、土方さんが悪いんですよ。私としては穏やかに場を納めたつもりが、グサグサと相手を罵倒しましたからねぇ。むしろ、私は巻き込まれたほうです」

 いちいち嫌みな野郎だと歳三は軽く舌打ちをして、首の後ろを掻いた。

 最近は一段と、不穏な者たちと遭遇することがある。昼間から酒屋で暴れる者、ぶつかったと因縁をつける者など様々だ。

「俺は間違ったことは言っちゃいねぇよ。世のせい人のせいにして暴れるやつの腐った根性、あの世の閻魔にしか裁けねぇだろうよ」

「最近は、水戸や薩摩などの藩士が異人を襲撃しているそうです」

「一般民衆に手を出してないだけマシだが、そんなことで異人が出て行くとは思えねぇな」

「私は異人を見たことはありませんが、どんな人間なのでしょうね」

「お前も、攘夷斬りとやらをするつもりか? 総司」

「まさか。みかどがおわすこの国に土足で踏み込んできた異人は許せない――という彼らの気持ちはわからない訳ではありませんが、刀を振るうのは今ではない気がします」

 歳三には道を外し腐っていく武士の気持ちも異国が許せぬと襲撃を企てる武士の気持ちもわからなかったが、歳三も総司と同じで自分のほうから刀を抜いて向かっていくのは〝今〟ではない気がした。

 はっきり言えるのは、勝つ見込みのない戦いはしないこと。これは逃げではなく、無謀な戦いで犬死にするよりも、刀を抜くだけの正しい理由があってこその戦い。歳三は自分から挑んでいくときはその時だと思っている。

 

 ――その時、君はどうする?


 問うてきた桂小五郎の言葉を思い出し、歳三は再び舌打ちをした。

 戦うときがきたらどうするのかと問われ、そのとき歳三は答えられなかった。腰に刀を差して身なりを変えたところで、自分は武士だと歳三はまだ胸は張れない。

 桂のように学があり弁が立つわけでもなく、剣の腕が格段いいわけでもない。小さな剣術道場で毎日汗を流し、稽古のない日は畳に寝転がっているか、文机に向かっているかの日々。自分たちはそれでいいのかという思いは確かにあるが、焦ったところでなにもならない。

 だが、今なら桂の問いに答えられる。〝時〟は向こうからやってくる、歳三にはそんな気がするのだ。 

すると「そういえば」と総司が再び話しかけてくる。

「また食い物の話か?」

「違いますよ。馬喰町で一騒ぎがあっそうですよ」

 馬喰町は奥州街道の裏通りの町として、馬場や郡代屋敷が存在した比較的穏やかな場所である。聞けばどこぞの藩士らしき数名と、下士一人が睨み合っていたという。斬り合いには発展しなかったそうだが、その下士の男は総司や食客の藤堂平助と年は変わらぬ若さだという。

「お前以外に、数人の野郎と睨み合える奴がいるとはな」

「珍しいですねぇ。土方さんが褒めてくれるなんて」

「褒めてねぇよ。呆れているんだ」

 その人物は命知らずの無鉄砲ものか、それか腕に自信があるのか。一人で堂々と数人とは渡り合うにはよほどの自信がなければできない。

さすがに浅草の祭り囃子は市ヶ谷の試衛館までは聞こえてこず、総司が出かけていくとたちまち静寂に包まれる。

 久しぶりに句でも拈ってみようか――腕枕で畳に仰向けに寝転んだ歳三は、天井の染みを見つめそう思ったのだった。


☆☆☆

 

馬喰町・旅篭『久兵衛』――二階にある座敷で長州藩士・さかげんずいは格子越しに通りを眺めていた。

 馬喰町は本町通りに面し、平行して町屋の北側に初音の馬場、初音稲荷がある。日光・奥州街道への入り口である浅草橋御門も近いとあって、見下ろす通りは旅人など様々である。だが久坂は、のんびりと通りを眺めていられる心境ではなかった。

 そんな久坂の心境を見抜いたのか、近くにいたもう一人が口を開いた。

「焦っては事をし損じるぞ。久坂」

「俺はお前と違って気は長いほうではないんでな。水戸や薩摩が動いた以上、我らも動かねばならん。まさか、手を引けというのではないだろうな? 高杉」

「そんなことは言っとらんよ。だがここは江戸で長州ではない。下手に動いて幕府に目をつけられるようなことがあっては、せっかくの計画も台無しになる。松陰先生も、きっとそう仰せになる」


 遡ること安政五年――開国に転じた幕府は、帝の勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印するなり決定した。これらの諸策に反対する者たちを、幕府は徹底的に弾圧した。世に言う安政の大獄である。この政策は大老・井伊の死去により終止符を打ったが、この政策の犠牲者の中に、久坂と高杉晋作の師、吉田松陰がいた。

 二人は長州において、松陰が開く松下村塾で学ぶ仲であった。その松陰はこの江戸で亡くなっている。、安政六年十月二十七日のことである。

 

 久坂としては、幕府に一矢報いたい気持ちが満々であった。幕府はことが異国側で起きれば相手のいいなりである。異国の力など借りずとも、この国はこれまでやってこられたのだ。聞けば異国に対し帝は納得していないという。

 攘夷は帝の御意志――なにを咎められよう。

「桂センセに似てきたな?」

「桂さんは、やめろと言うぞ」

「あの人は慎重派だからな。計画は我らだけでやる。もちろん、時を待つ。お前の言うとおりこの江戸でことを起こすには慎重に進めねばならん」

 すると二階に上がってくる足音が聞こえて来た。障子が開いて、二人の男たちが入ってくる。同じ長州藩士の井上馨と伊藤俊輔で、彼らも松下村塾の出身である。

「遅かったな」

「例の男を調べていてな」

 井上がそう言って腰から刀を抜いて座る。

「俺たちが出くわしたあのときの男か?」

 高杉がそう聞くと、伊藤が、

「幕府の間者ではないかと思ったが違ったようだ。麹町の無外流道場むがいりゆうどうじように入っていくまでは確認できたが」と言って眉を寄せた。どうやら名前まではわからなかったらしい。

 無外流は、居合いなど主軸においた流派である。

 以前とある公使館を見に行った際、久坂たちは謎の男と出くわした。てっきり幕府の密偵かと刀を抜きかけたが、高杉に制され事なきを得た。

「ならば心配することはあるまい。ではさっそくだが――」

 久坂は高杉に目配せすると、高杉が地図を広げる。

「俺たちが狙うのはここ。まずは外と中に何人いるか調べる。決行の日時は追って知らせる。それまで動くな」

 高杉が扇子の先でトンとついた目的地に、一同が無言で頷く。

「いい風だ」

 宿の近くには神田の川がある。吹き込んでくる風に、久坂はふっと笑う。

脳裏に描かれるのは、紅蓮の炎。

 かつて江戸の町を舐めるように燃やした明暦の大火、それがどんなものだったかはわからないが、炎の力に風の力も加わればどうなるか見なくともわかる。

 幕府の目を覚ますには、荒療治も必要。

 地図にある目的の地を見つめ、久坂はその時が来るのが楽しみなのであった。

 

☆☆☆


 浅草祭が終わると、江戸の空は曇天に覆われるようになる。

 湿った風が吹いたかと思えば、さぁ……と雨が降り始め、それが何日も続く。

「来ませんねぇ」

 総司がうぐいす餅を囓りながら呟く。

 試衛館の門弟は募りはしているものの、一向に増えない。

 この日、勇の部屋には歳三だけが呼ばれ、茶請けにと出されたのがうぐいす餅である。すると甘いものがあると察してか、総司がやってきて三人になった。

「そ、そのうち来るさ。なぁ? トシ」

 部屋の主である勇は刀掛けが設けられた床の間を背に、苦笑する。

「俺に振るなよ」

「裏のお稲荷さんに、今年は大きめの油げをお供えしたんですけどねぇ」

 試衛館裏には小さな稲荷の祠がある。三代目・周介の話では、試衛館を建てる前から既にあったという。

「あの稲荷、俺はとっくにここを見限って他に行ったと思うぜ。貧乏神の利益なら散々受けているだろ」

 稲荷神は五穀豊穣の神だが、商売繁盛の利益ももつとされている。だが、試衛館の現状では貧乏神の力のほうが上のようだ。

「それは否定しませんけど」

「ふたりとも、そこまで言われると俺でも傷つくぞ」

 すると障子が勢いよく開いた。立っていたのは原田左之助で、必死の形相である。

「どうした? 左之助」

 勇が言う。

「平助の饅頭を俺が食ったと疑われてるんだ」

 なんでも昨夜、食客三人で饅頭を買ってきたらしい。藤堂平助はあとで食べようと懐紙に包み書棚にしまって置いたが、絵草屋に出かけていた平助が今日の午に帰ると、饅頭は消えていたという。そもそもそんな場所にしまった平助も平助なのだが。

「左之助さんっ」

「ま、待て、平助。濡れ衣だって……っ」

 木刀を持って現れた平助に、左之助が歳三の背に立つ。

「俺を的避けにするんじゃねぇ」

 歳三の文句などお構いなしに、頭の上で繰り広げられる諍いは歳三の苛立ちをぐいっと押し上げていく。

「だったら他に誰がいるのさ」

「だから俺じゃねぇって」

「いい加減にしろ! ここをどこだと思っていやがる!!」

 歳三の一喝に、二人の諍いがぴたりと止まる。すると総司が話し始めた。

「そういえば井上さんが言っていたんですが、稽古を終えて台所に行ったら水瓶の蓋が開いていたそうです」

「誰かが閉め忘れたのではないか?」

 勇の発言に、これ幸いと左之助が話に乗る。

「盗っ人かも知れねぇ。うん、きっとそうだ」

「饅頭を盗んで水まで飲んでいった盗っ人か?」

 こうなると、歳三の怒気は呆れに変わった。

「くだらねぇ……。どこの世界にそんな盗っ人がいやがる。第一、試衛館うちに盗みに入る理由がわからん。金目の物があるのなら別だが」

「ということは……」

 歳三を含む四人の目が、左之助に注がれる。

「だから、俺じゃねぇって!」

 結局、饅頭は誰が食べたのかわからず、夜になった。いつもは閂をかけない門はこの日の夜はきっちりと施錠されたが、いざ侵入者が現れた時のためにと歳三がその役目を負うことになった。試衛館の住人の中で食客三人をのぞいて三代目の近藤周介、次期四代目の勇、勇の内儀ツネ、内弟子では総司と井上源三郎、そして歳三の三人。内弟子で警備しようと話になり、最終的にくじ引きとなった。

(総司の野郎……)

 当たりくじを引いた歳三に「おめでとうございます」とニコニコと笑った総司の顔を思い出し、歳三の中にふつふつと怒りがこみ上げる。

 一日くらい寝なくても歳三は平気だが、さすがに生理現象だけには逆らえない。時刻はの刻、夕方近くまで降っていた雨はやみ、月が出ていた。

 試衛館の厠は蔵の近くにあるのだが、歳三が用足しを終えて厠を出ると、妙な物音がした。門は閉じられているため外からの侵入は不可、ならば蔵の中にいるのは試衛館にいる誰かだろう。

 寝ぼけた食客の誰かが入り込んだのだろうと、歳三は思っていた。

 何しろ盗るものがないと門に閂もかけない試衛館である。蔵も鍵はされていなかった。

「いい加減にしろ! こんな時刻にふざけんじゃねぇ」

 蔵の引き戸を勢いよく開き、歳三は怒鳴った。するとむくりと人影が動いた。

(やつらじゃねぇ……)

 気配から、歳三は試衛館以外の人間だと悟った。

 立てかけてあった手頃な棒を掴み、歳三は相手との間合いを計った。

「誰だ? てめぇ……」

 出てきたのは、自分たちと容姿が変わらない男だった。


 ☆☆☆


 試衛館稽古場――その日はいつもと違った緊張感があった。

 道場の中央には、蔵に潜んでいた男が座っていた。明らかに迷惑そうな顔をしていたが、迷惑を被ったのはこっちだと、歳三は両腕を組んで男を睨んだ。

 名を斉藤一――、昨日、道を歩いていると雨に降られ、雨宿りをしようとしていたらしい。かなりの方向音痴らしく、一としては神田辺りを歩いていたつもりだったようだ。寝泊まりをしている知人の家だと思って入り込んだのが、試衛館だったようだ。

 つまり彼は、早くとも昨日の午前から試衛館の蔵にいたことになる。

「しかし、蔵の中とは――」

「落ち着くんですよ。やっかい先でも蔵の中でしたので」

 一は総司より年下らしい。名前と一刀流を取得していること以外は多くは語らず、一人でいるのが好きなのだという。

「ほう」

 勇は、どうも変わり者が好きらしい。問い詰めてやろうと歳三はここに引っ張ってきたが、総司まで楽しそうな顔をしている。

「近藤さん、関心している場合じゃねぇよ」

「盗っ人に入ったわけではないのだ。許してもいいだろう」

 例によって人の良さが出た勇の決断に「それじゃ」と総司が立ち上がる。

 歳三は「何をするつもりだ」と問うと、総司が竹刀を握った。

「このまま帰すなんて惜しいじゃありませんか」

 そう言った総司の顔は、本気だった。木刀であれ竹刀であれ、彼がそれらを手にするときは、子供のような笑顔は掻き消えて、剣士の顔になる。

 一は腰を浮かせたが、総司はやる気満々である。

 弟子も弟子ならここの四代目も「さぁて、どっちが勝つか」と目前の光景が楽しみなようだ。

 世は荒れる一方だが、試衛館は平和だ。

 歳三は外に出て、空を見上げた。

 はたして、いつまでこんな平穏な日が続くのだろうか。続いてほしい気もするし、剣の力で己の道を切り開いてみたいという思いは捨てられない。

この国はいずれ乱れると、桂は言った。そうなれば、穏やかな日常が終わるのだろうか。

 見上げる空は、いつも無言で、問いかけても返事はない。

 背後からは、総司と一が打ち合う音が聞こえてくる。

(今年の夏は、一段と賑やかになりそうだぜ)

 勇のことだ。試衛館にまた新たな住人を増やすつもりなのだろう。

 誰に言うわけではなく、歳三は空を見上げながら風に吹かれていた。 

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