第二話 九段坂俎橋
文久元年、二月――万延という年は僅か一年で終わりを告げた。
理由はこの年が、
古くより六十年に一度の辛酉の年は、天命が
(いい天気だなぁ)
本来ならその日のうちに帰る予定であったが、腰を上げた途端に土砂降りとなり、出稽古先である小野路村名主・小島鹿之助の好意で宿泊させてもらったのだ。
その雨も朝には嘘のようにやみ、見上げる空は鱗雲を撒き散らしたままからりと晴れている。
(道場――水浸しになっていないといいんだけど……)
これから帰る試衛館が水に浸かっている――すこし大袈裟な想像かも知れないが、これまで雨漏りが何度かあっただけに、心配になる。
試衛館に来たときは雨漏りが珍しくてはしゃいでいたが、門弟もそれなりに増えた現在は稽古場がなくなる事態は避けたい。だが、そんな心配もすぐに失せた。
小腹が空いたのと、眺めていた雲が団子に見えてきたからだ。
団子と言えば少し大きい団子を串に刺し、醤油と砂糖のトロッとしたタレが特徴的なみたらし団子は安価で買えて美味い。あとは
粟を蒸して餡をのせた、粟ぜんざいや、台形に切られた餅にコクのある黒蜜と香ばしいきな粉が絡んだくず餅も捨てがたい。
こうなると、寄り道をするなと言うのは無理な話である。
江戸へ入り
「やっぱり、これこれ」
運ばれてきた団子に
もう
その男が足を止めると、連れの男が「桂センセ」と声をかけた。どうやらその男も、総司に気づいたらしい。
「――先に行ってくれないか?」
その「桂センセ」と呼ばれた男は総司と視線を合わせ、そう言った。男の名は桂というようで二人からすれば地位は上らしい。
「ですが――」
「彼は、君たちの心配するような人間じゃないよ。久坂くん」
久坂と呼ばれた男は、すぐには納得しかねるという顔で総司を睨んできたが、足早にもう一人と去って行く。
連れを見送って桂は、総司のいる茶店にやってくると口を開いた。
「君――一人かい? 確か……試衛館道場の――」
「沖田総司です。今は出稽古帰りでして……」
総司が名乗ると桂は総司と同じ団子を注文し、刀を腰から抜いて床几に腰を下ろした。
「彼らの非礼、許してほしい。悪気はないんだが、血気盛んな連中が多くてね」
桂は本当の名は桂小五郎といい、神道無念流の道場で学んでいるらしい。
桂と出会ったことで、総司は不機嫌そうな歳三の顔が頭に浮かんだ。
「うちにもいますよ。怒ると鬼みたいな人」
「この間一緒にいた男……かい?」
総司の言葉に、桂はクスクスと笑う。
総司が桂と初めて出会ったのは、今から半月前のことになる。その時も出稽古帰りだったが、歳三が一緒だった。
――お前と歩くとろくなことが起きねぇ。
出稽古に一緒に行くとなったとき、歳三はそう言って眉を寄せた。出稽古に行くことは総司は楽しいのだが歳三は頑として「一人で行け」と動かず、勇の後押しで重い腰を上げたのだった。その道中、数人の浪人に絡まれ、そのとき助けに入ったのが桂だったのである。出会った場所は俎橋より先だったが、時刻が昼飯前とあって腹の虫が鳴り、ならばと桂に勧められたのが俎橋の団子屋だったのである。
「あのとき、せっかくの団子が一串しか食べられなかったんです。酷いと思いませんか?」
何が気に食わなかったのか、歳三が立ち上がって帰ると言い出した。確かに団子屋に寄ってから眉間に皺を刻んでいたが、桂が話し始めると不穏な空気が歳三から伝わるのを総司は感じていた。それは桂も感じていたようで「わたしは、〝彼〟には好まざる人間らしい」と言った。
「わたしはね、沖田くん。この国は今、とても危機な状態にある」
「わたしには、難しい話ですね」
「あの男もそう言っていたな。だが、世は確実に変わりつつある。開国してこの国はよくなったと思うかい? これまでどれだけの血が流れたことか。このままだと、これから先も血は流れるだろう。国を憂う民の血が」
そして桂は最後に「余計な話をしてしまったようだ」と軽く笑って去って行った。
(世が変わる……かぁ)
総司は食べかけの団子から目を離し、再び空を見た。
総司には時勢はよくわからないが、人斬りが増えたことには心が痛む。だがそれを行っている者の多くは、己の欲に走った不逞浪人たちである。彼らを擁護する余地などないのだが、桂はいったい誰によって誰の血が流れると言いたかったのか。
それにしても――。
(土方さん、怒っているだろうなぁ……)
出稽古に一日半も費やし、さらに寄り道までしたのである。怒鳴られるのは覚悟しなければならないだろう。
☆☆☆
未の刻、市ヶ谷甲羅屋敷・試衛館――。
「よしっ、そこまで!!」
それまで打ち合いを続けていた音が、勇の声によりピタリとやむ。すると糸の切れた
門弟たちは今日は総司がいないと知ると、稽古は厳しいものにはならないと思っていたようだ。だが試衛館にはもう一人、鬼がいた。
(総司の野郎……っ)
稽古を終えて面を外した歳三は、稽古相手の門弟と目が合った。
睨むつもりはなかったが、歳三と目が合ったその門弟は軽い悲鳴をあげて飛び退いた。
はっきりいって、この日の歳三の機嫌は朝から下がる一方なのである。原因は、出稽古に行ったまま帰ってこない総司にある。
門弟の稽古は勇や総司がしていたがこの年、歳三は総司と同じ師範代となった。
歳三は中極位目録までの取得だが、総司はまだ若く補佐がいるという。
「荒れてるなぁ。トシ」
勇が座る横に腰を下ろすと、勇が笑いながら声をかけてきた。
「あいつ――またどこかに引っかかっているぜ」
「総司なら心配あるまい。昨晩の雨だ。小島どのにお世話になったのだろうよ」
「あいつの身の危険なんぞ気にしてねぇよ。そのうち口の周りに餡子つけて帰ってくるぜ」
「総司の寄り道癖は、治らんよ」
相変わらず呑気な男だと歳三は思ったが、勇の性格も治らないだろう。ただ勇の性格で強いて気になるといえば、人の意見に流されやすく、人を簡単に信じてしまうことだ。
道場から自室へ戻る途中、歳三は庭で素振りをしている永倉新八を見かけた。
「お前、一人か? 永倉」
「原田が桶町で、旨いねぎま鍋の店を見つけたと言ってな。平助と出かけて行ったよ」
「お前は行かなかったのか?」
「どうも脂身の魚は苦手でね」
ねぎま鍋は、 醤油や酒などで味付けした出汁でぶつ切りにした葱を煮て、上に適当に切ったマグロを乗せ、好みの煮え加減で食べる鍋料理である。
「左之助に、よくそんな金があったな」
「いい稼ぎ口があったんだろうよ。こんな時勢だ。後ろからバッサリはされたくはないからな」
思えば食客三人は用心棒などしなくとも、道場が開ける腕である。
永倉新八は神道無念流、原田左之助は種田宝蔵院槍術、藤堂平助は北辰一刀流の有段者である。だが、彼らに言わせればここは他にない居心地の良さがあるという。
それは歳三も否定はしない。みな、近藤勇という男に惹かれてここにいる。
それにしても年号が変わった途端、江戸では再び人斬りが出始めた。特に異人が多い公使館周辺には侍の姿が何度か目撃されているという。
異人襲撃は安政と万延と続いたが、万延元年十二月四日、米国公使タウンゼント・ハリスの秘書兼通訳・ヘンリー・ヒュースケンがプロイセン王国使節宿舎であった
――不満分子を押さえつけてもこの世はよくはならない。
以前に出会った男の言葉を思い出し、歳三は舌打ちをした。難しいことを並べていたが、結局は世が乱れたのは幕府のせいと言わんばかりに聞こえたからだ。男の身なりからして、どこぞの藩士だろう。
総司が帰ってきたのは、それからまもなくのことだった。
☆☆☆
「あの野郎と会ったぁ!?」
日暮れ前、庭で素振りをする総司に対し、歳三は声を上げた。
せっかく忘れようとしていた男の顔が、再び歳三の脳裏に蘇る。
「ええ。誰かさんのせいで変なのに襲われたかけたときに助っ人に入った人ですよ」
「……もっと他に言い方はねぇのか?」
半月前の出稽古帰り、歳三たちは数人の男たちに襲われた。過去――歳三がまだ薬売りを生業にしていた頃、立ち寄った甲源一刀流の道場で門弟の何人かを倒したことがあった。それからまもなく江戸に行くことになり、そんなことがあったなど歳三はすっかり忘れていた。むしろ多すぎて覚えてないというのが正しい。
しかしやられていたほうは違ったようで、仕返しの機会を待っていたらしい。
総司曰く、助っ人に入った男の名は長州藩士・桂小五郎だという。
「やはりな。どこぞの上士かと思っていたが――」
「面白そうな人でしたよ。また会ってみたいなぁ」
「俺は二度と会いたくねぇな。どうも偉そうに御託を並べる奴は虫が好かねぇ」
歳三はそう言って、首筋をかいた。すると総司が「やっぱりだ」と笑う。
「なにがやっぱりだ」
「桂さんがね、自分は土方さんに嫌われていると言っていたんですよ」
「で、お前はその野郎と仲良く団子を食っていた……というわけか? 総司」
「たまたま再会したんですよ。俎橋近くに桂さんが通う道場があるそうで」
小野路村から試衛館まで、俎橋は通らない。歳三は思わず拳を握り力を入れた。
「あのとき、誰かさんのせいでお団子食べ損ないましたから」
「文句なら俺じゃなく、奴にいえ」
ただでさえ気に食わない相手といるだけで苛立つというのに、世の中がどうのなど話し始め、歳三は我慢の限界だったのである。
開国によって、世が混乱しているのは確かだろう。物の値は上がり、人斬りが増えた。攘夷だと言って異人を襲撃する者もいる。
だがそんな話をされても、どうしろというのか。吠えたところで取り合う者などなく、武力行使などすれば不逞浪人として囚われの身だ。
歳三には、異国とも幕府とも喧嘩をするつもりはなかった。
――ならば、君は誰と戦うんだい?
去りかけた歳三に、桂が問いかけてきた。
その答えは、今も出てはいない。
「剣の腕は確かなようですよ」
桂が助っ人に入ったとき、歳三にもそれはわかった。
「奴の流派は?」
「神道無念流だそうです」
神道無念流と聞くだけなら聞き流す歳三だったが、俎橋近くの神道無念流道場と聞いて、もたれていた柱から体を直した。
「ちょっと待て……! まさかあそこか?」
「俎橋近くの神道無念流道場といえば、あそこでしょうね」
江戸には大きな剣術道場が三つある。
神田お玉ヶ池にある北辰一刀流の玄武館、南八丁堀大富町にある鏡新明智流の士学館、そして九段坂上に神道無念流の練兵館。
俎橋は靖国神社を頂上にいただく九段坂を下りきった場所にある橋だが、練兵館とは九段坂をはさんで目と鼻の先である。
聞くところによると、練兵館は江戸にいる長州藩士が多く通っているという。
練兵館などの大道場と比べると、試衛館は蚊のような存在なのだろう。桂と出会ったとき、天然理心流・試衛館と聞いた桂の反応は、全く思い当たらないといったものだった。これまでにもそういった反応は他の者からもあったが、出会った瞬間から気に食わなかった歳三には、馬鹿にされたとしか見えなかった。
すると庭の枝折り戸から、出かけていた原田左之助と藤堂平助が帰ってきた。
「よぉ、総司。精が出るなぁ」
「ねぎま鍋は美味しかったですか? 原田さん」
「そりゃあ旨いのなんのって。いままで脂身を捨てていたなんてよぉ」
この国でマグロが食されるようになったのは、歳三が生まれた天保年間以降からだという。赤身は主に醤油づけにされるが、赤身以外の脂身は肥料にされるか廃棄されたらしい。
「いいなぁ」
「総司、甘党で子供のお前には早いぜ」
「平助くん。それが年上に対する言葉?」
「二つしか違わねぇじゃねぇか」
「やめろ! くだらねぇ」
目の前でちいさな火花を散らし始めた総司と平助に、歳三は一喝した。すると今気づいたとばかり、左之助が口を開ける。
「おや、いたのかい? 土方さん」
「いたよ。さっきからっ」
何故か、今日はやたら疲れた気がする歳三であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます