第四話 三十三間堀の幽霊 【後編】
夜ともなれば昼間よりは幾分暑さは引くが、この日の夜は少し風もあった。
時は四つ半、白魚屋敷から南八丁堀へ抜けると三十三間堀である。
果たして、鬼が出るか蛇が出るか。
「出てくると思います?」
総司は歳三に聞いたが、彼は黙っていた。すると背後にいた食客三人のうち、原田左之助が口を開いた。
「ゆ、幽霊なんぞいるわけがねぇ、なぁ? 永倉」
「まだそんなことを言っているのか? お前の言葉には説得力が欠ける。声が裏返っているぞ」
永倉新八の言葉に、藤堂平助が笑う。
「だってさ。左之助さん」
「う、うるせぇ。第一、幽霊が出るのは丑三つ時だぜ」
「わたしは見てみたいですねぇ。まだ一度もお目にかかってないし」
「お前も物好きだなぁ。総司」
左之助は眉尻を下げて呆れていたが、総司はこれから起きようとしていることがなんであれ、楽しいことのように思えるのである。
なにしろ、今回の幽霊話を一笑に付した男が総司の前にいた。
「幽霊を見たってやつには、見間違いってことが多いんだ」
食客三人が部屋を去って暫くして、歳三が言った。
「見間違いですか」
「物の影やら物音、いかにも出そうな場所に行くと腰を抜かすやつが多いのさ」
「幽霊を信じないんですか?」
「実際見たわけじゃねぇからな。だがな、総司。この世には幽霊より生きている人間のほうが怖いと思うぜ。欲を満たすために人を襲うやつがいる。俺が許せねぇのは、刀をそんなことで穢すことさ。一度血の味を覚えたらやつはまたやる。現に何回もやつは人を斬っていやがる。こうなるとやつはもう人間じゃねぇ」
そういって歳三は、吐き捨てるように言った。
総司が歳三に惹かれるのは、荒ぶる一部の武士たちとは違い、己の志を今も堅く貫いていることだ。近藤勇のようにお人好しでなく口は悪いが、根はまっすぐ。その目は、試衛館に現れた道場破りとは違って濁ってはいない。
「土方さんは、真福橋に現れるのはその人間のなれの果てだと?」
総司がそういうと、歳三はふっと笑った。
夜道をさまよい歩く〝なれの果て〟は、幽霊より始末が悪い。
「どうやら、あいつを抜くときがきたかも知れねぇな」
歳三がいう〝あいつ〟は、刀掛けで歳三がいうその時を待っていた。
三十三間堀・真福橋――。
五人は橋が見える商家の陰に隠れ、〝それ〟が現れるのを待った。
そんな橋を、渡ってくる商人風の男がいた。
「あの人、松屋町の在郷商人ですよ」
総司がそう言うと、歳三が聞き返して来た。
「お前の知り合いか? 総司」
「以前、団子屋の前で浪人に絡まれていたのを助けたことがあるんです」
在郷商人は元々は農村を生活基盤としていたが、江戸でも見かけることが多くなった。彼らが商う品は主に絹糸で、異人相手にかなり稼いでいるという。
「異人相手ねぇ……。この間まで、町の連中はその異人に震えていやがっていたんじゃなかったか?」
左之助の言葉に、新八が答えた。
「人は変わる者もいれば、変わらぬ者もいるということだ。原田」
「そういうモンかねぇ」
「そういえば例の人斬り、襲っているのは異人相手の商人や幕府関係者だそうですよ」
商人たちが襲われる理由は品物を江戸ではなく、江戸よりも高く買ってくれる異人がいる横浜で売っていることが発端らしい。これにより江戸は品不足となり、物の値はさらに上がった。さらにはそうした在郷商人に混じって江戸の商人の中にも異国との取り引きをする者も出始め、密かな足の引っ張り合いが起きているという。
すると左之助が「なるほどね」と言った。
「俺が用心棒で入った店を思い出したのさ。命を狙われているとか言っていたが、その相手、商売敵だぜ。きっと」
左之助がそういうと「だが、商人が自ら手は出すまい」と新八が言った。
「だから、俺たちのような人間を雇うのさ。ま、そいつの場合は雇ったやつが盗っ人だったけどな。俺はきな臭さを感じてとんずらしたが、どうなったかねぇ」
左之助の言葉のあと、歳三の肩が動いた。
「――どうやら来たようだぜ」
左手を右腰に差した刀の柄に添えて、そう歳三は言った。
☆☆☆
在郷商人の男は橋を渡り終えて、松屋町の方へ向かおうとしていた所だった。
そんな背後に、浪人風の男が立っていた。おそらくどこかに潜んでいたのだろう。
商人の男はさぞ驚いたに違いない。振り向いて驚き、後ろに倒れて尻餅をついた。確かに、こんな夜中にいきなり背後に立たれれば、誰でも驚く。
「ひ……っ、き、狐……」
商人の発する言葉に、左之助と平助が言う。
「狐……? 幽霊の次は、狐狸妖怪のお出ましか?」
「まさか」
五人が潜む商家の陰からは、背を向けているその浪人の男の顔は見えない。
総司は「どうします?」と歳三に聞くと「ここで黙っていられると思うか?」と聞き返された。
浪人の背後に出て行けば、浪人が振り返った。
「ほんとに狐でいやがる」
「よく見ろ原田。やつは狐面を被っている」
新八さんの指摘通り、男は狐面をつけていた。
「――何者だ?」
狐面の男が、ゆっくりと刀の柄に手をかける。
「そっちこそ、何者だ。まさか、稲荷大権現の使いってんじゃねぇだろ。まさかまた会えるとは思ってなかったぜ」
「まただと?」
「お前は覚えちゃいねぇようだが、俺はお前と一回会ってるのさ」
神田で人斬りがあったと聞いた歳三と総司は、その神田で一人の浪人とすれ違った。
一瞬香った匂いに嫌なものを感じたが、その時は男を逃がしてしまった。
「覚えておらんな」
男が鯉口を切る。
「俺たちも斬ろうというのか?
歳三は総司と食客三人の先頭に立ち、狐面の男との対峙を開始した。
「邪魔をするな。この者は異人相手に阿漕な金儲けをしている。いやこの者だけではない。開国によってこの国の一部は、異国に尻尾を振っている。幕府までもだ」
「だから斬ると?」
「そうだ。幕府は我々浪人の困窮などより、異国の機嫌取りに必死だ。貴様も同じ身ならばわかるであろう。金がなければ武士とて腐る」
「偉そうなことを言っているが要するに、――金のためか」
「しょうせんは武士も、金欲しさに尻尾を振る。浪人が上に行くためにはな!」
そんな狐面の男の言葉を聞いて、総司は刀に手をかけた。
「総司!」
「今度は刀を抜くなとは言わないでくださいね。土方さん」
「言わねぇよ。この狐男、思った以上のくそ野郎だ」
「貴様……、某を……」
「俺たちをお前と一緒にすんじゃねぇ! あいにく俺は農村育ちで世がどうのと難しいことはわからねぇ。今だって貧乏神が居座る道場でひいひい言っているが、金のために刀は抜いたりはしないぜ。お前のやっていることはただの憂さ晴らしじゃねぇか。そんなお前に――武士を語る資格などねぇ!!」
「黙れっ!!」
歳三の怒号に刺激されたのか、物陰から四人出てきた。どうやら仲間がいたようだ。
「原田、永倉、藤堂! 今は許す。好きなだけ暴れろ!」
「好きなだけといってもなぁ、土方さんよ。こんな場所で斬り合いとなりゃあ、ただじゃすまないぜ? ま、久しぶりに
左之助は軽口を言いつつ、長槍で敵の剣をかわす。
「左之助さん、俺まで突き刺さないでくれよな」
「お前こそ、刀が折れねぇように頑張るこった。平助」
「お前ら、今が修羅場だとわかっているのか?」
「やつらを刺激したのは土方さんだぜ? 永倉。なぁ? 総司」
「でもおかげで、楽しくなっていいじゃありませんか」
「これのどこが楽しいんだよ」
刀と刀がぶつかり、火花が散る。
狐面の男の仲間たちは肩を押さえてうずくまる者、腹を押さえて跪く者と勝敗は総司たちについていたが、歳三と狐面の男との攻防は続いていた。
「……貴様にもいずれわかる。人は一度堕ちたら、その暗闇にいる方がいいと思ってしまうことを」
「そんなのは逃げさ」
「何とでも言うがいい。だが某ひとりを捕らえたところでこの国の政は変わらん。なぜかわかるか? 上も腐っているのだ。そうでなければ、ここまで混乱はせぬ」
「そんなことを言っていると、まともな死に方はしないぜ」
「某に待っているのは、三尺高い獄門台であろう。だがこれでも武士、屈辱的な戒めは受けぬ!」
狐面の男はそう言って、歳三の刀を払った。
「土方さん!!」
総司たちが駆けつけると、狐面の男は逃走した。
「……ざまぁねぇぜ。もう少し稽古を積んでおくべきだったな」
人斬りが何者か掴もうとしていた歳三は悔しそうであった。歳三が自身の押さえた右手からは血が滴り、地面でちいさな血だまりを作っていた。
「かなりの手練れでしたね。また逃げられましたが」
「あの野郎、散々人を斬っておいて裁かれるのは嫌だとほざいた」
「切腹でもするんでしょうか?」
「悔い改める気があるなら、とっくにしてるさ。仮面を剥いでやろうと思ったが、野郎のほうが上手だった」
逃げられたことが悔やまれるのか、歳三が唇を噛む。
思えばこれが、総司が初めてみた歳三の姿だった。
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