第3話 三十間堀の幽霊 【前編】

 浅草の芝居小屋では、ある芝居が人気だという。

試衛館食客・原田左之助は、珍しく芝居見物に出かけたらしい。

 酒と女、槍の腕と腹の一文字傷が自慢の男が珍しいこともあるもんだと思えば、どうやら芝居には左之助好みの女が出るという。

 呆れつつも暫く静かになると思い、自室で句集を開いた歳三は両腕を組むと句作を始めた。幸い総司は出稽古に行っており留守、覗かれる心配はないのだが、いざとなるといい句は浮かばない。

 なにしろうだるような暑さに加えて、庭の松に止まったのか蝉の鳴き声がかなり近い。

 しかし、この芝居話にはまった男がもう一人いた。

 勇に呼ばれ茶を勧められるまま飲んでいると、勇が語り出したのがその芝居話だったのだ。おかげで歳三は、芝居を見ずとも内容がわかるまでになった。

 ゆえに歳三としては一度聞けば十分なのだが、左之助も黙っていられない質のようで、帰って来るなり他の食客二人を呼んで話し始めたようだ。

 さて、その内容だが――。

 

 ある晩、あずまへいろうは堀沿いの料亭から、家がある日吉町まで向かう途中であった。料亭を出たのは亥ノ刻(午後十時)、人通りはもうない。

 天を見上げれば青白い月が雲から顔を覗かせ、道はたいして暗くはない。

――もう一杯呑んでいくか。

 平九郎はそう思った。

 家へ帰るといっても、今にも傾きそうなボロ長屋である。だがそれも終わりだ。これからは多少のことは慎まねばならないだろうが、金の心配をしながら暮らすよりはいい。

 この前日、平九郎は剣術指南役として丸亀藩江戸上屋敷に仕官が決まり、さらに妻を迎えることになった。妻となる女・ひさは平九郎が通う剣術道場の道場主の息女で、実をいえば彼女が父親に平九郎の仕官を頼んだことによる。

 ただ平九郎という男、女癖が悪い。懐具合は乏しいが、顔と剣の腕には自信がある。さすがに久恵と親しくなってからは控えていたが、平九郎のなかでは道場主の娘への熱はもう冷めていた。これまでの女たちと同じように関係を結んでいれば少しは違ったかもしれないが、相手は道場主の娘。さらにいえば、久恵は平九郎の好みではなかった。それでも、仕官が叶うのだから文句は言えないが。

 もうすぐ真福寺橋まんぶくばしまでというときである。橋のそばにある柳の木の下に、女が立っていることに気づいた。

「もし」

 声は女の方からかけてきた。よく見れば、平九郎の好みの女だ。

 丸髷の髪は艶があり、平九郎を見上げる目はどきりとさせるほど妖艶である。

「某に何かご用か?」

「どうか、わたくしの頼みを聞いてくださいませ」

「頼み……?」

「わたくしのような女ではお嫌でございますか?」

 平九郎は視線は女から離せないでいる。

 ――俺は本当についている。

 平九郎はそう思った。女は明らかにこちらを誘っている。大胆な女である。だが悪くはない。平九郎はごくりと生唾を呑んだ。そして――。


「なんだよ。そこで終わりか? 左之助さん」

 話を途中で終わらせた左之助に、平助が文句を言う。

「最後まで話したら、芝居は面白くねぇじゃねぇか。ま、子供ガキ平助おまえにはこの手のつやばなしは早すぎるかもな。なぁ? 永倉」

「そうだな」

「それ、どういう意味だよ」

 確かにこれから芝居を見に行くかも知れない相手に最後まで語るのはどうかと思うが、問題は三人の声が大きいことだ。

 もうだめだと思った歳三は部屋を出ると、彼らがいる部屋の前に立った。

「やかましいっ! 喧嘩するなら外でやれ。気が散るんだよ!」

 男三人が、同時に歳三を振り返った。

「こんな時分に外へ出たら干からびちまうぜ。土方さん」

 原田左之助がいう。

「試してみなきゃ、わからねぇだろうが」

 歳三がそういうと、永倉新八が「鬼だなぁ、あんた」と言った。

「ふんっ。なんとでもいいやがれ」

 歳三は両腕を組むと、ぷいっと横を向いたのだった。

 この日の夕刻、多摩の橋本家へ出稽古に行っていた総司が帰ってきた。

井戸端で顔を洗っていた総司に歳三が近づくと、彼の方から芝居話を振ってきた。

「お前までか?」

 歳三は両腕を組むと、眉を寄せた。もう三度目は聞きたくない歳三である。

「けっこう面白いそうじゃありませんか」

「――らしいな」

「土方さんでも、芝居をご覧に?」

「土方さんでも、は余計だ。怪談話など興味はねぇよ。話を聞きてぇなら、うちの野郎どもに聞くんだな。茶が冷めるまで話してくれるぜ」

 芝居小屋の演目は怪談で、東平九郎という男が女の幽霊に呪い殺されるという話が結末らしい。芝居自体はそんなに長いものではないそうだが、興味が一切ない者にとっては退屈極まりない。それも六畳の座敷で一人で聞かされるとなると、退屈を通り越してかなりきつい。総司は歳三が誰から芝居のことを聞いたのかわかったらしく、「若先生ですね」とクスクス笑い出した。

「そもそも、祟られる奴が悪い」

「土方さんも、気をつけた方がいいですよ」

「ふんっ、俺には化けて出るような女はいねぇよ」

「でも……」

「でも、なんだ」

「出たそうですよ。幽霊」

 総司曰く、真福橋で幽霊を実際に見たという噂があるという。

「くだらねぇ」

 歳三はつきあっていられんと踵を返したが、総司は三カ月前に起きた人斬り事件の話を振ってきた。場所は三十三間堀の真福橋。

 芝居の舞台となった場所であり、実際に幽霊が出たと言われる場所、そして人が無残にも斬られた場所、その三つが同じ三十三間堀の真福橋だったのである。

「ほら、もうくだらないとは言っていられないでしょう?」

 幽霊は時として人を祟るが、人斬りはしない。むしろ怖いのは幽霊より、生きている人間のほうではないだろうか。


☆☆☆


 江戸には京橋川、三十間堀、八丁堀、それに楓川の四つの堀川が交差している所があり、そこに三つの橋が架かっていた。

 京橋川には、通称・牛の草橋と呼ばれる白魚橋、三十間堀には真福寺橋、楓川には弾正橋の三橋である。

 白魚橋の名の由来は、京橋川の南側にあった白魚屋敷に向かってこの橋が架けられていたからであり、真福寺橋は、近くに真福寺という寺院があったため、弾正橋はその東詰の松屋町に島田弾正の屋敷があったから付いたという。

 夜――夕餉を終えた歳三と総司、食客の三人は同じ部屋にいた。

 三日前より近藤勇は用事で留守にしており、帰ってくるのは明日の夕方だという。

「けっ。これじゃあ酒も買いにいけねぇ」

 貧乏徳利片手に、原田左之助が天井を仰いだ。

「酒など、ほかでもいいだろう」

「あそこのは安い割にはうまいんでね。幽霊野郎のせいでしばらく店を閉めるって話だぜ。永倉」

 左之助お気に入りの店は、三十三間堀にあるという。

 すかさず藤堂平助が、昼間の仕返しとばかり左之助を刺激する。

「その幽霊、左之助さん好みのいい女かも知れないぜ」

「ばかやろう。俺はな生きている女がいいんだ。お相手を願われてもまっぴらごめんだぜ」

 そんな食客たちの前で、歳三は両腕を組んで黙って座っていた。いつもなら食客たちが騒げば怒鳴る歳三が黙っていることを不審に思ったのか、永倉新八が声をかけてきた。

「なにか、考えごとか? 土方さん」

「その幽霊――見てやろうっと思ってな」

「物好きだな、あんた」

「面白そうですね」

 側にいた総司はニコニコと笑っていたが、歳三は二人だけで行こうとは思っていなかった。睨んでいた畳から視線を外し、食客たちを見た。

 視線が合った左之助と平助がたじろぐ。

「まさかと思うが――俺たちも一緒っていうんじゃねぇだろうな……?」

「お前ら、かなり力が有り余っているようだからな」

「相手は幽霊だぞ。刀など通じる相手じゃねぇ。なぁ? 永倉、平助」

「この状況で、逃げられると思うか?」

 まさに蛇に睨まれた蛙――食客三人は腰を上げざるを得なかった。

 歳三の中では、幽霊よりも人斬りと遭遇することを期待していた。

 ――今度こそ。てめぇのしつ、つかんでやるぜ!

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