第2話 市ヶ谷御門の人斬り
市ヶ谷三番町に住む豪商・古屋佐久右衛門の家に出向いていた勇が試衛館に帰ってきたのは、申の刻(午後四時)。試衛館に通う門弟で、佐久右衛門の次男・真之介の求めに応じての外出であった。
試衛館の門前で帰ってきた勇を出迎えた門弟によれば、勇の表情は険しかったという。
「出先で食べ過ぎたかな」
総司はそういうと、
「お前じゃあるまいし」
歳三は小刀で足の爪を削りながら答えたが、気にはなっていた。ちいさな宴席にはちょくちょく呼ばれる勇だが、険しい表情で帰ってきたという話は聞いたことがなかったからである。
(なんかあったな……)
勇の姿を左横斜めの視界に捉え、歳三はこのあと勇の部屋を訪ねてみようと思った。
この日の夜は月に霞がかかり、湿った風が吹いていた。
障子の隙間から忍び込んできた風によって、行灯の明かりが揺らぐ。
歳三が勇の部屋に入って暫くして、勇が話を始めた。
「また、人斬りが出たそうだ」
昨今のこの江戸では、人が斬られたという話は珍しくはない。勇は宴席に行くと最近の流行り物や食い物の話を拾ってくる男だが、今回は人斬りの話を拾ってきたようである。
「今度はだれがやられたんだ?」
「佐久右衛門どのだ」
「古屋の隠居――か?」
勇は「そうだ」と答えた。
古屋佐久右衛門の店は市ヶ谷三番町で幕府・諸藩の公金出納を扱う
「
今回の人斬りが襲った場所を聞いて、さすがの歳三も驚いた。
「
勇はそういって憤慨する。
市ヶ谷御門は寛永十三年に、
☆☆☆
尾張徳川家は徳川将軍家の分家である御三家の一つで、御三家の筆頭であるとともに、諸大名の中で随一の格式を有しているという。
そんな尾張徳川家上屋敷の目と鼻の先で人が斬られた――、幕府にとっては面目を潰された形になるだろう。
古屋佐久右衛門が襲われた市ヶ谷橋は、夜でも人の往来がある場所である。これまでの人斬りは人気の少ない場所に現れていたが、今回は人目がつく場所で凶行に及んだ。
「ずいぶんと大胆不敵な人斬りですね」
勇の部屋から戻ってきた歳三の元に、総司がやってきて言った。
「クズ野郎に感心するんじゃねぇ」
「感心はしていませんよ。
「無理だな。やつにそんな気はねぇだろうよ。悪行を悔いて名乗り出りゃあまだいいが、やつは何度も人を斬っては逃げてやがる。そして今度は幕府を挑発してきやがった。捕まえてみろって、な」
この世に何人、食うに困るほど困窮する浪人や下士(下級武士)がいることか。だがそれでも必死に生きている者はいる。世のせい、幕府のせいになどせずに。
生きていれば楽しいことだけでなく、辛いこともある。人によっては、辛いことが多いこともあるかもしれない。だからといってその憂さで、人を斬っていいことにはならない。
「捕まりますかねぇ」
総司がいう。
「さぁな。近藤さんは怒っていたが、役人でもねぇ俺たちにはそのクズ野郎を捕まえることはできねぇよ。それより総司」
歳三は組んでいた腕をほどくと、部屋に戻った時に拾った竹串を総司の前に突き出した。
「おや?」
「おやじゃねぇ。なんで俺の部屋に団子の串が落ちていやがる? 俺の部屋をみたらし餡だらけにしたら承知しねぇからな! 自分の部屋で食えっ」
「
総司が言い終わらないうちに、歳三は木刀を振り上げた。
「総司っ!!」
だが総司は、そんな歳三の攻撃をひらりとかわした。
「いつからそんなものを用意していたんです? 危ないじゃないですかぁ」
「鼠退治のためだ。こうも早く役に立つとは思っていなかったぜ」
「わたしは鼠じゃありませんってば!」
歳三の攻撃を巧みにかわしながら、総司が逃げ回る。
はたして、さまよえる人斬りはどこで何を想うのか。
それがまもなく厳しい暑さがこの江戸に訪れようとしている、七月の出来事であった。
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