第9話 近藤ツネという女
季節は初夏――、試衛館は相変わらずのボロ道場という有様で、いつもは大声で怒鳴るこの御仁もさすがに呆れて呟いた。
「あの馬鹿息子、試衛館を潰す気ではなかろうな?」
試衛館開設者にして三代目・近藤周介は、茶を啜りながら眉間に深い皺を刻む。
既に齢六十八、門弟への指南は次期四代目に任せていたが、今でも怒鳴れば大の男もたじろぐ元気さで、木刀を振ることもある。
「あの人に、算盤は無理です。
「あんたに、苦労をかけさせてすまんな」
否定もせず肯定もせず、その女人は空になった周介の湯飲みに茶を注ぐ。
女人の名を、近藤ツネという。周介が馬鹿息子と呼ぶ四代目、近藤勇の妻にと迎えた女人である。
周介曰く、ツネは徳川将軍家の分家・御三卿の一つ、清水徳川家の家臣・松井家のうまれだという。嫁いできてまだ
歳三は、この二人が苦手だった。年をとっても剣術にはうるさい周介一人だけなら説教にも耐えられるが、常に顔色を変えず、目が合えば歳三も後退る視線が飛んでくる。
本当なら勇がこの場に呼ばれる筈だったが、総司を伴い出稽古で留守だった。
(俺も嘆きてぇよ……、大先生)
稽古を終えた歳三が「大先生が勇を探している」と聞いて代わりに行ってみれば、茶飲み相手にされた挙げ句、淡々と周介の愚痴を聞かされる羽目になったのだから無理はない。しかも、出された茶は渋すぎた。
「ご馳走様でした」
「……いえ」
歳三が茶托に湯飲みを置くと、ツネが軽く会釈する。
何しろ試衛館と近藤家の
れっきとした武家生まれ武家育ちの彼女にとって、内心は穏やかではないだろう。
周介からようやく解放された歳三は、部屋の中で腕を組んだ。試衛館の今後も心配だったが、歳三にはもう一つ気になることがあった。
数日前も、人が斬られて大川(隅田川)に浮かんでいたと瓦版に載り、下手人はその傷口から侍らしい。といって、役人でもない歳三が気をもんでも、どうかなるわけではないが。
歳三が天井に視線を運ぶと、障子の外でドタドタと廊下を駆ける音とともに、男数人の声がした。
「俺の褌、返せ!平助」
「軒下に吊しておく方が悪いのさ。なぁ?新八っつぁん」
「俺まで巻き込むな!」
「寝てる左之助さんの鼻をつまんだのは、あんたじゃねぇか」
我慢の限界を越えた歳三は障子を勢いよく開けると、怒りを爆発させた。
「やかましいっ!!野郎ども!!」
そこには、試衛館の居候たちが、ぴたりと動きを止めてこちらを見ていた。
※
夜――、夕餉を終えた数刻ののち、歳三は勇たちの留守中に起きたことの顛末を勇の前で語ると、一緒にいた総司が吹き出した。
「笑うんじゃねぇ」
「だって……、その時の土方さん、どんな顔をしていたか想像すると……、ねぇ? 若先生」
「そ、そうだな」
話を振られた勇は、歳三をちらっと見るときまずそうに杯を口に運んだ。
「そもそも悪いのはあんただぜ、近藤さん。原田だけならまだしも、門弟じゃねぇ永倉と藤堂までも置いたんだからな。あんたのお人好しは今に始まったことじゃねぇが、顔を合わせればツネどのに睨まれる俺の身にもなってくれ」
勇の妻・ツネは、勇にも近藤家の台所事情が厳しいと話しているようだが、何故か歳三にまで妙な圧力をかけてくる。おそらく歳三と勇が一つ違いの歳で付き合いが長いとあって「あなたさまからも旦那様に、よく言ってください」と視線を寄越してくるのだろうが、たぶん勇の人の良さはこれからも直らないだろうと歳三は思った。
おまけに向かい入れた原田左之助、永倉新八、藤堂平助は、障子に穴を開ける、酒盛りを始めるわで鬱憤もたまろうというものだ。
総司は総司で、膳の煮魚を箸でつつきつつ「鰹の時期ですねぇ」という。
「そいつは鰹じゃねぇぞ」
膳には酒の肴にと、棒手振りの煮売屋から買った煮魚・煮豆・煮染などが乗っていた。
「わかってますよ。でも一度は食べてみたいですよねぇ?」
「そ、そうだな……」
総司の言葉に、勇の眉が寄っていく。
昔から、初物を食べると寿命がのびるといわれている。
初鰹もそんな初物の一つだが、いまの懐具合を考えれば初鰹は無理なのだが。
今急ぐべきは裕福な門弟を増やすか、月謝を上げるかだろう。その間は、朝晩の膳に乗るおかずは期待しない方が賢明かもしれない。
勇の部屋から自分の部屋に戻る途中、歳三は中庭に面した廊下で足を止めた。
熱を孕んだ風はこれから訪れる厳しい夏を告げ、軒下に吊された風鈴を僅かに揺らす。
真の武士になるという夢は、まだ遙か先――。真の武士とはなにか、それさえどんなものかはっきりとはわかってはいない。だが、道は見えている。あとはその道をまっすぐ進べはいい。
先は見えなくとも、きっとその先に目指すものがある。歳三は、そう信じるのだった。
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