第7話 刀の声を忘れるな
庭にある桜の木が、残り僅かな花を散らす。一枚、また一枚と。蕾から花が咲くまでは長いのに、咲いてしまえばすぐに若葉の新芽が花を急く。ゆえに花は、名残惜しげにゆっくりと散る。
いつもより遅く起きた歳三は、廊下に出ると草履に足を入れて庭に降りた。
ふと足元に桜の花弁が落ちた。ここで一句とひねりたい所の歳三だったが、肩に手をかけ首を左右に傾ければ、軽い痛みが肩に走った。試衛館にきて二年、稽古以外では激しく動いたことはなく、いきなりの実戦だったのだから肩が痛むのも無理はない。
懐に手を入れると、懐紙に包んだ一本の組み紐が出てきた。歳三の髪を束ねていた元結で、初めは明るい紺色だったが今や色褪せ、少しほつれてもいた。
自分の元結など鏡でも見なければ見えないし、当然気にすることはなかった。それが今は歳三の手の中。無惨にも、真二つに切られてその役目を終えていた。
昨晩、総司と出稽古先から帰る途中で不審な浪人二人と立ち回り、その浪人の刀が、歳三の頭を掠めた。元結は、その時に切れたのである。
――あともう少しずれていたら。
切れたのが組み紐ではなく、己の首の方だったらと思うと歳三はぞっとした。
着替えて朝餉に向かう途中、障子が開け放たれた座敷の前で足を止めた。畳にはわら紐がついた酒徳利が転がり、長身の男が大の字になって寝ているのである。
「よぉ、トシ」
呼ばれた方を見ると、近藤勇が両腕を組んで笑っていた。
「近藤さん、こいつ誰だ?」
「誰って……、昨夜お前たちが連れてきたんじゃないか」
「は?」
昨夜といえばと記憶を辿れば、確かに男とは会っていた。名前は原田左之助、歳三たちが浪人二人と立ち回っていた時に加勢に入ってきたのが、座敷で寝ている原田左之助である。
「泊まる宿がねぇっていうから連れてきたと、総司が言っていたぞ? いやぁ、良かった。良かった。はっはっは」
今朝の勇は、やけに機嫌が良い。
「……近藤さん。なにか、いい事でもあったか?」
歳三がそう聞くと、勇がにやっと笑う。
「トシ! 暫くはうちは潰れんぞ!!」
勇に壁際まで追われ、歳三は焦った。
「そ、それはよかったな……」
朝餉をすませて道場に向かうと、門弟たちが床板を踏み鳴らす音と、木刀で打ち合う音が同時に歳三の耳に飛び込んできた。
「筋肉痛は治ったんですか? 土方さん」
門弟たちに稽古をつけていた総司が腰を下ろした歳三に気づき、にっと笑う。
「俺が前、何をしていたか忘れたか?」
「そういえば、ボコボコにした相手に薬を売りつける薬売り、でしたねぇ」
「お前なぁ……」
「そもそも、真剣を手にした相手に、木刀でやれっていうのがむちゃくちゃなんですよ。ま、木刀だろうと倒す自信はありましたけどね」
いったい総司の本当の顔はどちらなのだろう。冗談をいって笑ってる子供のような顔と、刀を手にした時に見せるぞっとするような冷たい顔。
歳三がそんな事を考えていると、総司が稽古に誘ってきた。
「お前は化けものかっ」
昨夜の乱闘でまだ疲れていると断ると「おじさん」とからかってくる。
(この……、クソガキ……っ)
腹はたつが、歳三は何故か総司のことは憎めなかった。
――腰抜けめ。
木刀を握ると、歳三の脳裏にある侍の言葉が浮かんだ。まだ郷里にいた頃、少年だった歳三がある侍から言われた言葉である。まだ剣術を覚え立てで、高幡不動の境内で木刀を振っていた帰り道、村人の一人をいたぶっていた浪人を見かけた。理由は村人と一緒にいた女に、浪人が手を出そうとしたのを制されたかららしい。
周りには数人の村人がいたが、相手が侍とあって何もできない。役人を呼びに行ったそうだが、その役人がくるまで待っていたら、蹴られている村人は死んでしまうかもしれない。少年・歳三は、木刀を握りしめ、その場に飛び込んでいったのである。
結局、歳三の木刀は真二つに折られて負けた。
あの時――、浪人の刀が歳三の急所を正確に捉えていたら、歳三はここにはいなかったであろう。折れた木刀は、お前もそうなっていたのだという意味だ。
あの時の侍は、子供を斬ってもつまらぬとわざと斬らなかったのか、それともなんの罪もない人を斬ることに躊躇いがあったのか、誰にもわからない。
だが、今はもう子供ではない。同じ士分となったからには、向こうは本気でかかってくるだろう。
(まさか十年以上も経って、同じ言葉を聞くとは思ってなかったぜ)
懐にしまった懐紙に包んだ組み紐を再び取り出して、歳三は苦笑する。
昨夜出会った浪人たちも、刀を抜いた。総司は抜く気でいたらしいが、歳三は抜かなかった。怖いからではない。刀の声が聞こえたのだ。
――刀を抜くからには、正しい理由はあるのか? と。
「総司っ、斬るんじゃねぇ!!」
歳三の声に、刀を抜こうとしていた総司は「え?」とよろけた。
昔から売られた喧嘩は買ってきた歳三だが、今はあの頃とは違う。
「ふん、お前たちの腰のものは
「いや、我々が怖いんだろうよ。腰抜けどもめ」
浪人二人は、言いたい放題である。こちらが刀を抜かなかったことで勝てると思ったようである。だが、総司が気がついた。
「土方さん、この人たち、隙だらけですよ? 構えもだめだなぁ」
「だったら、稽古をつけてやればいい。刀の声を忘れたらどうなるかをな」
「面白いことをいいますねぇ」
幸いにして、刀以外も戦う武器はあった。何しろ出稽古帰りである。歳三は木刀を背から抜くと正眼に構えた。
「なにをごちゃごちゃと言っている?」
「外道相手は、これで十分だぜ」
「き、貴様っ! 我らを外道呼ばわりするか!?」
浪人たちは地を蹴ると、切っ先を振り下ろしてきたのだった。
――カン!
真剣を受けとめる木刀の音が、夜陰に響く。
総司を見れば、息一つ乱さず相手と立ち回っている。
(
そんなことを思うも、手にする木刀には限界がきている。
「死ねぇっ!!」
賊の刀が、歳三の頭上で振り下される。
「土方さん!」
総司の叫ぶ声が聞こえ、歳三は木刀で相手の銅を払った。
今にして思えば、あのとき賊の刀が歳三の頭上で振り下ろされる前に、歳三の木刀が折れていたら、歳三はここにはいなかっただろう。
※
「あの二人、役人に捕まったそうですよ。今朝、若先生のところに奉行所の役人がきていましたから」
井戸端で、諸肌になって汗を拭っていた歳三は振り返った。
側では、しゃがんだ姿勢で三毛猫の頭を撫でている総司がいる。
「やっぱり、訳ありの連中だったのか?」
「これから商家に盗みに入ろうという所だったみたいで」
彼らは用心棒と称して商家に入り、どこに大金があるか確認したあとに盗むという手口を何度か繰り返していたらしい。
「よくもまぁ、これまで捕まらずにいたもんだな」
「盗られた方も訳ありかも知れませんよ。最近はこの江戸でも、異人と商いをするものが多いそうですから」
「その話なら聞いたことがある。さらにその商人を侍が襲っていることもな」
「詳しいですねぇ」
「ある風来坊から聞いたのさ。袈裟懸けでばっさり、だそうだぜ」
「昨夜の彼ら、ではありませんね」
以外だったのは、男たちと助太刀に入った左之助が顔見知りだったことだ。
左之助曰く、ある商家に用心棒で雇われ、そこで彼らとであったという。
「侍が盗みをするようじゃあ、外道だ」
「外道ですか……。面白いことをいいますね」
乱闘の最中、通りかかった夜鳴き蕎麦やに悲鳴をあげられ、浪人たちは逃げ出した。しかし、乱闘の痛手はかなりだったらしく、追いついた取り方に捕まってしまったようだ。
そのあと、試衛館に奉行所から礼金が出たらしい。どおりで、勇の機嫌が妙にいいはずである。
「刀で人を脅すなんざ、外道だ。そんな奴ら相手に、剣を汚すことはねぇ。道を外れたらもう刀の声は聞こえねぇのさ」
「やっぱり、土方さんは面白い」
「武士になったからには、いつかは真剣を抜いて人を斬る事があるかも知れねぇ。だとしても俺は、つまらねぇ理由で人を斬りたくねぇ」
総司はどんな表情で、歳三の話を聞いていたのだろう。背を向けた姿からでは、それを知ることはできない。
道場から歳三が戻ると、勇と左之助が酒盛りをしていた。
「よぉ。土方さん」
左之助は歳三より少し背が高く、腕を回してきた。
「よぉじゃねぇ。早く出て行け」
「冷てぇなぁ。昨夜の恩人を」
「お前が勝手に割り込んできたんだろうが!」
「トシ、お前も呑め。原田くんの歓迎会だ」
「は?」
「ということで、これからよろしくな?」
どうやら道場に行っている間に、左之助を試衛館に置くことになったらしい。礼金が出て嬉しいのは歳三にもわかるが、いつまで保つことか。
庭では、桜が舞う。はらり、またはらりと。
(春はもう終わりだな……)
来年の春、俺たちはどうなっているだろうか。歳三はそんな事を思いながら、舞い散る花弁を見つめていた。
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