第6話 犬も歩けば棒に当たる
江戸の朝は早い。まずやってくるのが納豆売りで、これがまた売り声が大きい。歳三が試衛館に来た当初はこの声に飛び起きたものだが、最も騒がしい人間が身近にいたため、早朝の物売りの声では飛び起きることはなくなった。
あれから――、人斬りの話はいっさい聞かなくなった。どこぞに逃げたか、それともまだこの江戸で、何食わぬ顔で暮らしているのか。
「そういえば、この間面白い人たちを見かけまして――」
「茶店で団子を食べた帰り、ちょっとした騒動に出くわしたんです」
総司という男は、なぜこうも厄介事にぶつかるのか。歳三は膳の上で、やけに黒く焦げためざしを箸で突きながら思った。
総司の話によれば、何でも浪人が昼間から、一人の町人を斬ろうとしていたという。総司が野次馬の一人から事情を聞いてみると、理由は肩がぶつかったというものらしい。浪人は「おのれ、武士の魂に触れるとは!」と激昂したという。
「そいつは――、嘘だな」
それまで黙っていた歳三は、膳に椀を置くと口を開いた。
「嘘?」
口元に飯粒をつけた勇が、いつもより少し高い声を出す。
「そのあとその町人、浪人に対してこれでお許しをとか言って、金子を出したんじゃねぇか? しかもその町人は豪商だろう?」
どうやら当たっていたようで、総司がにっと笑った。
「おいおい、それじゃあ、たかりじゃないか!?」
「落ち着けよ。近藤さん」
この世には、士官したくともできない浪人がまだ大勢いた。一部のものは道を外れ、昼間に堂々と人を脅すものもいる。だがこの場合、言いがかりをつけてきたその浪人は、本当に無礼討ちはしないだろうと歳三は確信していた。
いくら無礼討ちが許されている武士であれ、野次馬の中である。正当な理由があるかどうかは調べればすぐにわかる。刀で脅せば、怯えた相手はたとえ相手に非があると思っても、殺されるよりはと金を出す。あとは役人が来る前にその場から去ればいい。その浪人は、そう考えたのだろう。
「まったくけしからん!」
先ほどまで笑っていた勇が憤慨する。笑ったり怒ったりと、朝餉時に忙しい男である。
だが総司の話にはまだ続きがあった。豪商の男が巾着を出そうとした時、二人の浪人が現れたという。これから大金を得ようとしていた男にとっては、邪魔者でしかなかっただろう。案の定、一対二の睨み合いになったらしい。
二人相手に勝てるわけもなく男は逃げたそうだが、豪商を救った二人の腕は確かだったらしい。
「ぜひ、うちの門弟に迎えたいものだ」
「門弟は難しいと思いますよ? 若先生」
「何故だ?」
「彼らは、一人が神道無念流。もう一人は北辰一刀流だそうです」
「総司。お前もう、そいつらと知り合いになったのか?」
歳三は呆れたが、総司は嬉しそうである。この青年、剣のことに関しては夢中になるため無理はないが。
勇は残念そうだが、総司が思わぬことを言い出した。
「その二人、今はどこにも行く所はないそうで」
「総司お前まさか、猫の次は野郎二人もここに住まわせようっていうんじゃねぇだろうな?」
「だって行くところがないんですよ? 可哀想じゃないですかぁ」
「この江戸に何人そんな浪人がいると思ってやがる!? 可哀想なんぞと言って呼び寄せていたら、ここの床下、完全に抜けるぜ」
「トシ、いくらうちが貧乏でもだ。そう簡単に……」
勇が言い終わらないうちに、何かが落ちる音が障子越しに聞こえてきた。総司が開けてみれば、山田屋権兵衛宅とを隔てる土塀に大きな穴が空いていた。
「あ~あ、また直さないといけませんねぇ? 若先生」
言われた勇の眉が寄る。困ったときの、彼の癖だ。
「……とりあえず、大工と左官を呼ぶとするよ……」
「それがいい」
歳三はそう答えて、茶を啜った。
そしてこの日、歳三は谷保天満宮近くの道場に出稽古に向かうという総司に連れ出され、久しぶりに多摩の地を踏んだのであった。
※
甲州街道を日野宿から江戸方面に向かう一里程の所に、谷保天満宮がある。その天満宮より江戸方面、街道を挟んで反対側に石壁が延々と続く道を進むと、こんもりとした森の中に立つ一件の屋敷がある。
屋敷の主は本田覚庵といい、歳三の少年時代を知る人物でもあった。
「今の世は農民の出でも、字の読み書きができないといけねぇ」
そう言ってまだ子供の歳三が兄たちから行かされたのが、 この本田覚庵が住む本田家である。何しろ歳三の亡き父、隼人の姉が本田家に嫁いでおり、歳三にとっては親戚である。
なんだかんだと話が覚庵と総司の間で進み、早く帰るはずが既に時は七つ半(午後五時)。お陰で内藤新宿を超える頃にはとっぷりと日が暮れた。
「まったく、お前と一緒だと碌なことが起きねぇ。芋鍋を三杯も食いやがって。いったいお前の腹ン中はどうなっている」
「嫌ですねぇ。土方さんだって、黙々と沢庵ばかり食べていたじゃありませんか。塩っけのあるものは控えたほうがいいですよ。もうそんなに若くないんですし」
「うるせっ! 俺はまだ二十六だ。馬鹿野郎っ!」
「そんなに怒鳴ったら、周りのお宅に迷惑ですよ。それに、難にぶつかるのは仕方ないと思います。ほら、猫も歩けばなんとやらというじゃありませんか」
「それをいうなら、犬も歩けば棒に当たる、だ」
歳三はふんっと鼻を鳴らし、前に向いて歩き出した。
日本橋を渡れば、江戸市中である。やれやれと市ヶ谷を目指せば、商家脇の火消し桶が転がってきた。それだけなら良かったのだが。
「ほら見ろ。やっぱり碌でもねぇ事が起きたじゃねぇか」
歳三たちの前には、覆面姿の浪人二人がまさに刀を抜こうとしていた。
「狙いは我々――、でしょうねぇ」
「そのようだな。総司、お前なにやらかした?」
「わたしは土方さんの方だと思いますけど? わたしは命を狙われるような恨みをかうほど、心当たりはないので」
「どちらにしろ、大人しく帰してくれそうには見えねぇな」
彼らがなぜ商家に潜んでいたのか、わかっているのは人に見られては困ることでもしていたのだろう。
緊迫感がまったくない会話だが、総司の顔は笑っていない。歳三は担いでいた稽古道具から木刀を引き抜き、総司も習って木刀を握った。
「まさか道の真ん中で木刀を振るとは思っていませんでしたよ」
「俺もだ。総司」
そしてついに、覆面姿の浪人二人は刀を抜いたのだった。
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