第5話 槍は種田宝蔵院流槍術、免許皆伝

「腹が減ったなぁ……」

 橋の高欄こうらんに体を預け、彼は空を仰ぐ。

 考えてみれば、国元・伊予松山藩いよまつやまはんを離れてから碌なものを食べていない。いやはや、人は堕ちるとこうも情けないことになるのかと、彼は髪を掻き上げた。さて、これからどこにいこうか。旅籠に泊まるとしても、そのままずっとというわけにもいかない。

(どこかただで、置いてくれるところはねぇかなぁ)

 空を飛んでいくからすを見ながら、彼はそんなことを思った。といって、そんな所はまずないだろう。三食昼寝付きで住まわせてくれる家などは。

 これでも、彼は元は藩の中間であった。彼に言わせれば、ちょっとした手違いで浪人に堕ちた。どうも短気なのがいけなかったらしい。知人の家に厄介になったこともあったが、三日で放り出された。

(世間は、冷てぇよなぁ。浪人のなにがいけねぇっていうんだ?)

 先日などは、召し抱えてもらおうとある旗本屋敷に行けば、門番が彼を一目見るなり、棒で突き返してきた。これでも一応は真面目に働こうと思ったのに、である。

「腕はいいんだぜ? 俺」

 鴉に自慢したところでどうにかなるわけではないが、そろそろ懐具合が怪しくなってきた。蕎麦一杯食べれば、宿賃はもうない。

 まさか将軍家のお膝元で、野宿というわけにもいかない。さて、どうするか。

彼は「よっこらしょ」と身体を直し、立てかけておいたものに手を伸ばした。長さは二尺半、先に保護用の布が巻かれた長槍である。とりあえず口入れ屋に行ってみるかと、店の暖簾を潜った。

「ご浪人様、ご用向きは?」

 左之助が上がり框に腰を下ろすと、人の良さそうな店主が出てきた。

「いい稼ぎ口を探してるんだが」

「たとえばどのような?」

「そうだなぁ。こいつを活かせる所、とか?」

そう言って槍を手にすると、店主の肩が跳ね上がった。

「ご、ご士官をなさりたい、と?」

「金はねぇが、槍は種田宝蔵院流槍術たねだほうぞういんりゆうそうじゆつ、免許皆伝の腕なんだぜ? 俺。どうだ? 主」

 最初は仏のような店主の顔が、次第に強張っていく。

「どうだといわれましても……」

「こっちの腕では俺は結構名が知れているんだが。槍の使い手、原田左之助ってな?」

槍術には種田流と宝蔵院があるが、左之助は種田宝蔵院流槍術と流派を名乗ってきた。

「さぁ……、存じ上げませんが?」

 がっくりと項垂れる、左之助である。すると店主が「ご士官口はお世話致しかねますが……」と言ってきた。

「あるのかい!? いいところ」

 至近距離で迫ったのがいけなかったのか、店主の口から軽い悲鳴が漏れた。

「……い、いいところかどうかはわかりませぬが、腕のいい浪人を探しているという方がお一人……」

「その話、貰った!!」

「は、原田さまっ、く、苦し……」

 喜びから我にかえれば、左之助は店主の胸ぐらを掴んでいた。

「あ、わりぃ。わりぃ」

 興奮するとつい、手が出てしまうのがこの男の癖である。

 口入れ屋の紹介先は、蔵前の廻船問屋『大野屋』で、そこの主らしい。なんでも、誰かに命を狙われているという。つまり、左之助の仕事は用心棒ということになる。

 この際、酒を呑ませてくれて飯も食わせてくれるならと、左之助はその紹介先に向かったのであった。

 

「腕の方は本当に確かなんでしょうね?」

 夜――、板の間の広間で大徳利を片手に酒を呑んでいた左之助の前で、大野屋主人・大野屋喜平が上目遣いで話してきた。

「これでも一応武士なんでね。嘘は言っていないさ。そもそも、なんで命を狙われている?」

「そのようなこと、貴方さまにどうでもいいこと。しっかり働いてもらわねばこちらは、またも金を無駄にすることになるのでございます。相手に遺恨残さず、お願いしますよ。原田さま」

 ――要するに始末しろって、か?

左之助は散々悪党の顔を見てきたが、大野屋主も相当な悪党と感じた。命を狙われるからには向こうにもそれなりの理由があるに違いない。大野屋を邪魔だと思う商売敵、或いは殺してやろうとまで恨みをもった人物。そのどちらかか、その両方か。

 大野屋が雇った用心棒は、他に三人いた。同居のよしみと徳利を持って酒を勧めれば、睨み返された。

 少し前の左之助ならまた喧嘩腰になっていたが、せっかく美味い酒を呑めるようになったのに一日で追い出されては敵わない。

そんな用心棒二人が、夜中起き出して出ていった。

(こんな時分、どこへ行くんだ?)

 厠から戻る途中だった左之助は不審に思ったが、眠気が勝って床についたのだった。



 翌朝――、昨夜出ていった男たちは大野屋に戻ってきていた。

 左之助は昨夜知り合ったばかりだが、まだ一度も彼らの声を聞いていない。二人とも終始無言で、二人で話すこともしない。酒を呑んでいるときなどは、眉間に深いしわを寄せている。

(美味いのかねぇ……)

 左之助の場合は仲間と和気あいあいと呑むのが好きで、酔った際に披露するのが今や十八番の裸踊り。これが仲間たちにはうけるのだが、果たして左之助の同居人となった男二人は笑うだろうか。

 酒がなくなり、新しい酒を求めて釜場へ行く途中、大野屋喜平の「番頭さん」という声が聞こえた。

「旦那さま昨夜、近くに押し込みが入ったそうでございます」

「うちの金蔵かねぐらは、心配いらないよ。腕利きの先生方が今度は三人もいる。それよりも増田屋さんには悪いが運はうちに味方した。ま、それなりの大金はあの方に払ったんだ。しばらくは大人しくほとぼりを冷ましていてもらわないとねぇ」

「押し込みはあの方ではないと? 旦那さま」

「あの方は金は欲しいが盗みはしないと断言なさった。侍の名が廃るとか言っていたようだけどねぇ」

 そこで話は、ぴたりと止んだ。

(やっぱり、悪党でいやがる)

 物陰に咄嗟に隠れた左之助は、人斬りまでさせられると思うとゾッとした。なるほど、大野屋が命が狙われるはずである。これまでも、阿漕な稼ぎをしてきたのだろう。

 悪党といえばあと、二人。

 左之助の勘ではおそらく、同居人だ。

 ここ最近の盗人の中には、浪人もいるらしい。もちろん彼らが加担しているか否かはわからないが。

 左之助はまだ人を斬ったことはないが、悪行の加担はごめんと槍を取りに部屋に戻った。

(また新しい住み処を探さねぇと……)

 裏木戸を開けて空を見上げれば、満月がそこにあった。

 左之助が抜け出したことを、大野屋の誰も気づいてはいないようである。たとえ逃げ出したとわかっても、自身に害となる人間でないならば大野屋喜平は追わせることはしないだろう。だがお陰でたった一日で、左之助はまた食べるところと住む場を失った。

「ま、なんとかなるさ」

 二尺半もある槍をひょいと肩に担ぎ、左之助は月が照らす夜道を進んだ。

 それからまもなくして金を盗られたと、奉行所に大野屋番頭が訴えに来たという。だがすぐに大野屋喜平が勘違いだと訴えを取り下げたそうで、左之助がその話を聞いたのは、大野屋を出た数日後のことだった。

 果たして金は盗まれたのか、それとも盗まれていないのか。

 だがその騒動があってからの大野屋喜平は、店を番頭に任せて奥から出てこなくなったという。

(悪いことはするもんじゃねぇな)

 掘割の飯屋で酒を呑みながら、左之助は苦笑した。

 おそらく大野屋喜平は、奥の部屋で震えていることだろう。そんな気がする左之助だった。

 

 

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