第20話 ヨシエ対龍
20-1 背後からの声
「ヨシエさん」
ヨシエは自身の背後から声がしたことに気づき、後ろを振り返った。
「ご主人とのお夕食はどうだったかしら?あなたにとっては作戦成功後の祝勝会のようなものよね」
そこには、軽侮の表情というべき表情を浮かべた藤田龍、すなわち、駐ハンガリー日本大使・藤田正志夫人の姿があった。
「・・・・・」
ヨシエは、どのように答えてよいか、一瞬わからず、無言のまま、龍の顔を見つめていた。それになぜ、朴と名乗っていたヨシエの本名が龍に知れたのか?
「何とか言ったら?」
「何を言って欲しいの?」
ヨシエは聞き返した。
「大使館で、御馳走になった挙句、私の主人を殺すなんて!あなたには恥の心がないのかしら!?皇国と大和撫子の恥さらしよ!」
「あらあら、あなた、大使館の時に見せた上品なお顔はどこへ行ったのかしら?表情そのものが御化粧だったのかしら?」
ヨシエは、怒鳴った龍を逆に挑発した。
「御化粧?誰だって、人前では少しは上品にふるまうものよ。あなただって、大使館内ではそうだったじゃない!」
「そうよ。当たり前じゃない!私だって一人前の女だし、任務があったのですもの」
ヨシエも声を張り上げた。売り言葉に買い言葉になったようである。
「任務?あんた、一体、どこの国の事、言っているのよ!」
「ソビエト社会主義共和国連邦」
「恥ずかしくないの?まさに非国民そのものね!」
「いよいよ、上品な御化粧はどこへ行ったのかしら?ご自身の本性が丸出しだわね」
「何ですって?」
「あなたの余裕の表情って、一体、何が支えているのかしら?」
「皇国日本に決まってるじゃない!」
「それを支えているものは?」
「祖国のために頑張っている臣民よ」
ヨシエも少しく、龍への軽侮の表情になり、口元が少しく、龍へのせせら笑いになった。
「よくそんなこと言えたわね。あなた達のそんな体制のために、みんな苦しんでいるのよ」
これは、自身の実家、零戦製造工場、山村、篠原両家と一貫したヨシエの実体験である以上、ヨシエには自信のある主張であった。
「みんなが頑張っている時、あなただけがそうやって逃げるのね!非国民の本性丸出しだわ!」
「あなたこそ、臣民なんて言って、自分のために、人々を囲い込んで、はずかしくないかしら?」
龍は、自分で犯したこともないことについて言われたことに対し、一瞬、戸惑いの表情を見せたものの、犯した覚えのないことについて、言われたことに対し、
「何のことかしら?」
と、語気を強めた。冤罪を被るのはごめん被ることだろう。
「あなた、華族よね?地主よね?お百姓さんたちを囲い込んで、自分は良い目をしている。そのことについて言ったのよ」
「私達は華族。皇国に仕える身として、文字通り華やかたるべきなの」
「他人の労働の結果でそうしているくせに。華族なんて、他人の収穫を奪う泥棒だわよ」
龍はいよいよ、逆上の表情を見せた。
「私の主人を殺した人殺しのくせに!あんたなんかに、泥棒呼ばわりされるいわれなんかないわよ!」
ヨシエは更に挑発した。
「社会の人々はあんたらのような特権階級を除けば、みんな飢えている。皇国日本とやらの大東亜戦争では、若い子が大勢い死んだ。あんたたちの体制は戦争で既に数えきれないくらい、人を殺したし、飢えは生活を崩壊させ、最後は死にい至らせるゆっくりの殺人よ。あんたこそ、立派な殺人者じゃない」
ヨシエの言い返しは龍の「華族」としての誇りを傷つけるのに十分だった。まさに、龍の現在の立ち位置を的確に言い表した言葉だったからである。
ヨシエの言葉通り、龍は
「上品な御化粧」
をはがされる格好となった。
「皇国の婦女子として、あなたに天誅を加えてやる!」
龍は、和服の懐から、刃物を取り出した。
10-2
龍はヨシエから、10メートル程、離れたところにいた。眉と目を吊り上げ、怒りの表情そのものである。
「あらあら、龍さん、膝が笑っているんじゃないかしら?そんなことで、私と勝負する気?」
ヨシエは龍を挑発した。
龍は和服姿なので、膝が笑っているかどうかは確認し難い。しかし、ヨシエはそのように挑発した。敵を感情的にさせることによって、冷静な判断力を失わせることも、1つの戦術である。
先程から、怒りの表情そのものだった龍は
刃を正面に構えると、ヨシエに向かって、突進した。
「おのれ!皇国への裏切り者!天誅で成敗してやる!」
しかし、同じ瞬間、ズボンの大型ポケットから取り出されたヨシエのトカレフ拳銃の銃口が火を噴き、銃声が鳴った。数発の銃弾が突進してくる龍に向かった。
銃弾と人間では速度において、勝負にならない。次の瞬間、龍の頭蓋骨が砕け散り、脳漿と血が飛び散った。銃弾は胸にもあたり、龍は仰向けに転がり、龍の手を離れた刃物が地面に落ちて、鋭い金属音が鳴った。即死である。
銃口から紫煙がいまだにゆっくりと出ているトカレフを右手に持つヨシエは、未だ、興奮冷めやらない表情で、龍の仰向けの死体を見つめた。
「あなたたち、華族やら特権階級のために多くの人が無残に命を落としてたのよ。せめて、苦しまずに即死できたことに感謝しなさい」
ヨシエとて、アレクセイという夫を持つ家庭人でもある。その点は龍と同じである。今時点で、龍の幸せであろう夫・正志との家庭生活を奪ったヨシエは、龍その人をも殺してしまった。しかし、
「大日本帝国」
という体制のために、多くの家庭が諍いを起こし、
「家族水入らず」
は崩壊していこうとしているのであろうことは、想像に難くないことであった。家庭が崩壊し、親が子供達を養えなくなったら、子供たちはどうなるのであろう。これらも立派な
「死」
であり、体制が原因となった広義の
「殺人」
ではないか。そのように考えれば、悪いのは龍等の方ではないか?
そんなことを考えつつも、ここはどこなのだろうか。それに、ここには、生きているヨシエと殺害された龍の死体しか存在していない。
「なんで、こんな不思議な世界にいるのだろうか?」
当然の如く、不思議に思わざるを得ないヨシエであった。
10-3 目覚め
しかし、次の瞬間、ヨシエは眼を見開いて、眠りから目覚めた。上半身が汗でびっしょりである。昨晩、ウオッカを飲酒して、酔いつぶれていた後の記憶がない。昨晩、自宅にいたのはヨシエ自身と夫・アレクセイの2人だけだったので、酔いつぶれた後、アレクセイが自身をベッドの中まで、連れて来てくれたのだろう。
酒に酔いつぶれると、容易に眠ることがある。しかし、眠った後、その睡眠は浅いものであることが多い。ヨシエが龍と夢中にて対決していたのもそんな事情故なのかもしれない。
ここは夫婦の寝室である。ベッド内にて、身体を回転させて仰向けに逆方向を見てみると、アレクセイが寝息をたてて寝ていた。
「ありがとうね、アレクセイ。それに迷惑かけてごめんね」
汗をかいたヨシエは、汗を落とすため、寝間着を脱いで、シャワー室に入った。
シャワーを浴びつつ、ヨシエは思った。
「龍さん、今頃どうしているのだろうか?自己防衛戦とは言え、龍さんまで殺さなくてよかったのは幸いだったね」
夢から目覚めたばかりで、ヨシエはまだ、意識が何かしら、うすぼんやりとしていた。
夢の世界と現実の世界の区別が着かないような気がした。ヨシエはシャワーの水温を少し下げた。
冷たい水を浴びると、少しずつ、夢の政界から、現実へと引き戻されるヨシエではあった。しかし、夢の世界での龍の再会、そして、対決は、あまりにも現実味を帯びた鮮明な映像となって現れたのである。
「自己防衛戦」
ある意味、どんな人間とて、こうした戦いを戦っているのであろう。そして、ある意味、それが人生であろう。しかし、そこに
「国家」
「体制」
が関係づけられると、場合によっては、国家そのものが犯罪として禁じているはずの
「殺人」
が絡むこともある。今回のヨシエの任務はまさにそうであった。駐在武官の佐竹勇雄も大東亜戦争当時は、戦場で敵とはいえ、相手を殺す殺人を犯していたはずである。藤田正志も、外交官とはいえ、謀略活動に参加等しているならば、その作戦を通して、間接的に殺人等を犯していたであろう。
今回の作戦遂行という現実のなかで、殺人に加担していないのは、龍だけかもしれない。しかし、それでも、
「社会の人々はあんたらのような特権階級を覗いてみんな飢えている。皇国日本とやらの大東亜戦争では、若い子が大勢い死んだ。あんたたちの体制は戦争で既に数えきれないくらい、人を殺したし、飢えは生活を崩壊させ、最後は死にい至らせるゆっくりの殺人よ。あんたこそ、立派な殺人者じゃない」
というヨシエの先の罵声の通り、彼女もまた、間接的に殺人を犯したと言えるのかもしれなかった。
現実の問題として、龍は自分の立場をどのように思っていただろうか。龍は、同じく夢中にて、
「私の主人を殺した人殺しのくせに!あんたなんかに、泥棒呼ばわりされるいわれなんかないわよ!」
とヨシエを激しく罵倒していた。彼女にも家庭人としての立場がある。それはヨシエと同じことであり、その心情については、ヨシエとしても、改めて理解できないではなかった。
しかし、ヨシエに
「あなた、華族よね?地主よね?お百姓さんたちを囲い込んで、自分は良い目をしている。そのことについて言ったのよ」
と非難された時、龍は、
「私達は華族。皇国に仕える身として、文字通り華やかたるべきなの」
と、ある種の開き直りを見せた。自身の立場について、何か、後ろめたいものがあったのかもしれない故に、台詞だったのかもしれない。実際、ブダペストの日本大使館での夕食の席で、龍は
「しかし、私達、華族も、内地での生活は苦しいんです。だけど、飲まず食わずで戦っている皇軍兵士の皆さんに比べたら、愚痴なんか言えたものではありませんわ」
と言っていた。
「皇軍兵士」
の多くは、それこそ、徴兵前から貧困にあえいでいるという意味で、生活を
「飲まず食わずで戦っている」
という形で、具体的に
「生活防衛戦」
を戦っている、或いは戦わざるを得ない庶民であった。華族と雖も、日本という
「社会」
の紛れもない一員であり、そのことは間違いのない事実であった。いくら、
「皇国に仕える身として、文字通り華やかたるべきなの」
と言ってみたところで、それこそ、龍自身の台詞の合ったように、
「内地での生活は苦しいんです」
というのが生活者としての本音であろう。あるいは、苦しくなっていく日本という
「社会」
の中で、周囲の同じく
「社会」
の担い手から、ヨシエが罵倒したように、
「他人の労働の結果でそうしているくせに。華族なんて、他人の収穫を奪う泥棒だわよ」
という意味の影口を叩かれていたのかもしれない。
ヨシエは龍について、詳しく知っているわけではない。しかし、龍とて、自分の意志で華族の家庭に生まれたわけではなかろう。その意味では、彼女もまた、目に見えない
「巨大な歯車」
の下にいたことは、間違いなかった。龍の一家等は、華族ということで、地主でもあったのであろう。食料も配給でしのぐことが基本となっている一般庶民と華族のような特権階級。
・一般庶民(労働者、農民等)-華族等(特権階級)
と言った階級対立はいよいよ、明らかになっているのが昨今の日本なのであろう。
「華族」
といった特権階級をいただく現行の体制への批判は、特高、憲兵等によって、抑圧されている。批判を表立って口にできないのが日本「社会」の現実である。しかし、同じ生活者である彼女のような存在にであれば、非難を口にすることができるであろう。彼女は何等の
「暴力装置」
等をも有さない1人の女性という弱い立場の存在であるから。
そして、実際に、町内等を歩いている時には、電柱の陰でこそこそ、横目で見られながら、悪口を言われたり、場合によっては、罵声を浴びせられるという彼女への具体的な攻撃といったこともあったのかもしれない。
そうした事実があったとすれば、精神的な意味でも、龍にとっては、
「内地での生活は苦しんです」
と言わざるを得ない状況であったのであろう。故に、龍もまた、ヨシエと形は違えでも、外国に暮らすことによって、ある種の新たな生活、安寧を得たのかもしれない。そして、周囲に私怨を持つ感情となり、それも、
「皇国に仕える身として、文字通り華やかたるべきなの」
という開き直りになった原因なのかもしれない
そして、
「外国に暮らすことによって、ある種の新たな生活、安寧を得たのかもしれない」 のだとすれば、それを奪ったのは、間違いなくヨシエであった。
「国家」
のために、
「社会(ある種の無名、無力な個々人)」
が苦しむという構図がそこにはあった。
そんなことを考えていると、ヨシエにも
「自己防衛戦」
の必要性があるとはいえ、心中にて、苦しい物が湧きあがるものがあった。
と、またまた、ある種の
「頭上演習」
というべき、自身の感情に耽溺していたヨシエであった。
「自己防衛戦」
の必要性というところで、
「頭上演習」
は一旦、終わった。そして、自身で温度を下げていたシャワーの水が、その冷たさで以て、改めて、彼女を現実の世界に引き戻した。
「あ~、冷たい、冷たい!夏だけど、風邪、引いちゃうわよ!早く出ましょう!」
そう、台詞をはくと、ヨシエはシャワールームを出た。そして、その日は、再びベッドに戻り、眠りの世界へ戻った。龍がなぜ、ヨシエの本名を知ったのかは分からないままだったが。
翌日以降、数日の休息の後、ヨシエは少佐として、KGB本部に改めて出勤した。
元の職場に戻ると、やはり、お目付け役で中尉のタチアーナがいた。
「おはようございます、そして、おかえりなさい、同志少佐」
「おはようございます、そして、ただいま戻りました、同志中尉」
階級をつけて挨拶した。改めて、
「党」(体制)
の位置であることを思わせる言葉であった。
ヨシエは自身のデスクにつき、ハンガリーへの出張前同様、事務書類の整理にとりかかり始めた。
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