第19話 夫婦の会話

19-1 夫の帰宅

 午後7時30分頃、アレクセイは帰宅した。自宅の中に誰かがいる気配である。妻のヨシエが無事に任地から戻って来たのかもしれない。妻との再会を期待して、アレクセイは玄関の呼び鈴を鳴らした。

 玄関の呼び鈴が鳴ったのを聞いたヨシエは思わず、玄関に小走りに向かい、戸を開いた。そこには、アレクセイの姿があった。

 「おかえりなさい」

 「ただいま」

 何等、とりとめのない夫婦の会話である。しかし、約1か月以上も、こうした挨拶を交わしていない。やっと、

 「普通の会話」

 が戻って来た。ヨシエの眼には思わず、涙がにじんだ。これまで、場合によっては生きるか死ぬかがかかっているとも言えた作戦の現場にいたことも、ヨシエにかえって、

 「平和」

 あるいは

 「普通」

 を強く、感じさせたのかもしれない。

 アレクセイも、漸く、普通の生活が戻ったことを、ヨシエの表情から感じ取ったのであろう、少し、泣き顔のようになったものの、そうだからこそか、敢えて

 「ただいま」

 とわざとらしく、元気を出して、挨拶した。アレクセイも一方の当事者として、寂しい思い、というより、彼女の安全を半ば、常に思わざるを得なかったのである。

 アレクセイは、立ったまま、半ば涙ぐんでいるヨシエに問うた。

 「入ってよいのかい?」

 アレクセイは、自身の家でありながら、久し振りに妻という別人格がいるという形での突然の生活の変化といったことに違和感を覚えたのかもしれない。

 ヨシエは語気を荒げた。

 「何、言っているの、当たり前じゃないの!」

 あるいは、アレクセイは、当たり前のことを問うことによって、妻・ヨシエの気持ちを確かめたかったのかもしれない。

 つまり、月単位で物理的に離れていても、互いの信頼関係は変わることなく続いている、ということをである。

 ヨシエの言葉によって、また、彼女の表情によって、夫婦としての信頼に基本的に問題はないことを確認したアレクセイは、改めて、自宅に入った。

 アレクセイは、自室にて軍服から、私服に着替えると、リビングに出て来て、テーブル脇の椅子に座った。そこに、ヨシエが

 「どうぞ」

 と言って、カップに入れたコーヒーをテーブル上に置いた。

 「どうも」

 アレクセイは簡単に礼を言うと、コーヒーに口をつけた。砂糖は入っていないようであったものの、ミルクがコーヒーの苦さを中和し、何かしら、甘みを出しているようであった。アレクセイにとっては、久し振りの

 「家庭の味」

 というべきものであった。こうしたものは、職場を含め、外の世界での緊張をほどいてくれるものである。そして、それは職業等の如何を問わず、どの家庭でも多かれ少なかれ、あるものであろう。それが、本来の

 「社会」

 の姿であろう。そして、ヨシエとアレクセイのクツーゾネフ夫妻にとっては、1か月以上の時間が経過し、その間、こうした感覚が味わえないものだったことから、格別のものであった。

 しかし、日本においては、物資不足の窮乏化によって、こうした

 「夫婦水入らず」

 も味わえないのが現実となっていた。本来の

 「社会」

 は消滅してしまっていると思われる状況なのである。

 ヨシエの淹れてくれたコーヒーの入ったカップを手にしつつ、アレクセイは、

 「お疲れさんでした」

 と言った。今日一日、お疲れさまでした、という自身へのねぎらいもあるのだろうが、同時に、1か月以上の任務から解放されたヨシエへのねぎらいでもあろう。

 ヨシエは

 「アレクセイ、あなたこそ、どうだったの?大変なことはなかったの?」

 「まあ、いつも通りだよ、あまり、生活そのものには大きな変化はなかった。ただね」

 「だだね?」

 ヨシエは、疑問に思い、アレクセイに先を続けるように促した。

 「ちょっと、待って」

 そう言うと、アレクセイは自室に戻った。


19-2 小冊子

 アレクセイは1冊の小冊子を持って、戻って来た。

 「最近、党や軍の組織では、こんなものが配られ始めた。一通り、読んだら、各組織ごとに返却せねばならないけどね」

 既に、ヨシエはロシア語にもだいぶ慣れて来ていた。彼女はその冊子を手にとり、内容を大まかに確認し始めた。

 内容を確認したヨシエは驚いた。

 「スターリン批判」

 の内容であった。ソ連の衛星国、同盟国とはいえ、外国であるハンガリーにおいてさえ、神聖な存在のように扱われてたスターリンへの批判であった。

 ヨシエには、日本時代に「御真影」を神聖なものとして扱わされて来た時から、既定の存在は変化のないものであるかのような感覚に慣らされて来たところがあった。その感覚のまま、ある種、スターリンを眺めつつ、暮らしてきたのが彼女の生活実態であった。

 驚きつつ、内容を読んでいるヨシエに、アレクセイが

 「ほら、この前、20回党大会があったろう。党大会最終日に、第一書記で首相でもある同志フルシチョフが、『秘密報告』という形で、同志スターリンへの批判を行ったんだ。それは基本的に、その内容についてさ」

 と冊子の内容についての解説を加えた。更に彼は、

 「外国、特に、日本とかアメリカとかには影響しないようにしたい、ということらしいが、スターリン以来の締め付けのままでは、かえって、東欧の離反といった形で、体制の正統性が揺らぐだろうよ。勿論、党は東欧の同盟諸国のソ連からの離反は許さないだろうけど」

 「なるほど、東欧を締め付ける一方では、正統性がおかしくなるけど、かといって、ソ連からの離反は止めなければならない、という微妙なバランスの上にソ連-東欧の関係はあるようね」

 ヨシエは、自身の頭の中で問題を整理し、またしても、

 「頭上演習」

 を行なった。

 「任務」

 から解放されたはずなのに、またまた、自身で「任務」の世界に入り込むヨシエであった。

 「まあ、今後、国際情勢がどのように展開するかは、極東の日本だろう。この点は、君が、一番良く理解しているんじゃないか?」

 その通りだった。だからこそ、ハンガリーでの対日謀略工作に動員されたのである。家庭に戻っても、結局は、こうした話題になるところに、改めて、

 「見えない歯車」

 から離れられない自分を認識させられるようであった。

 アレクセイが言った。

 「これから、生活がどうなるか。良くなれば、良いけど」

 これはアレクセイのみならず、ヨシエをも含め、多くのソ連の市民、すなわち

 「社会」

 が生活者として持つ当然の一般的な感覚であろう。 

 アレクセイの言葉を聞いていたヨシエが、決心したように言った。

 「さ、夕食にしよう。とりあえず、私達自身が元気でなきゃ、何も始まらない。何か作るから待ってて」

 まさに生活者としての言葉であった。

 そして、ヨシエの「任務」とは別に、

 「家庭」

 という私的空間が欲しいという願望が現れた台詞でもあった。

 ヨシエは台所に入り、料理を始めた。


19-3 夕食

 その日の夕食は、ヨシエが作ったシチューとパンであった。簡単な料理ではあるものの、1か月ぶりの家庭料理は、2人をあたためてくれた。

 食事をとりながら、ウオッカを酌み交わす2人であった。

 「じゃ、もう一杯、乾杯!」

 ヨシエは、積極的にウオッカを口にした。ウオッカは大連の時に料理店で少女と共に飲んだビール(拙作「満州の芳江」第6話参照)よりもはるかに度数が強い。それでも、彼女自身でも予想できなかったほど、杯が進んだ。

 「強いんだな」

 アレクセイは妻の飲みっぷりに苦笑した。

 「そうよ、私は酒に強いの」

 先程も、ある種の

 「任務」

 に自身で入り込んでいたヨシエである。

 そうした状態を忘れたかった、というよりも、酒の力を借りてでも、

 「家庭」

という「私的空間」を取り戻したいのである。

 ヨシエにとっては、アレクセイは、

 「党」

 「軍」

 といった体制上の組織としての

 「同志」(ある種の同僚)

 ではなく、自身の私生活上の

 「同志」

 である。何の遠慮が必要だろうか。

 アレクセイは、ヨシエの豪快というより、豪快すぎる飲みっぷりに少々、心配になったのか

 「おい、おい、大丈夫か?」

 と苦笑しつつも、妻に苦言を呈し、心配を表明した。

 しかし、ヨシエは一向にかまわず、

 「大丈夫、大丈夫」

 と言いつつ、ヨシエは、冷蔵庫からチーズを取り出し、つまみにし出した。

 しかし、そうこうしているうちにヨシエはリビングで酔いつぶれてしまった。流石にビールよりもはるかに度の強いウオッカである。しかも、大連の時のように、自分の寝室迄、街を通って行かなければならないということでもない。ヨシエは、酒の力に勝てなかった。

 「ああ、予想通りだ、やっちまった」

 アレクセイは、妻・ヨシエを抱き上げて寝室に入れ、ベッドに寝かせると、既に酔いつぶれて、寝息をしている妻に布団をかけた。念のため、嘔吐した時のため、彼女の口を少し下に向ける形にした。

 「お疲れ様、同志ヨシエ」

 と一言かけ、

 「戦士の休息だな、おやすみ」

 と声をかけた。彼自身は後片付けのため、そのままリビングに戻った。

 先程、

 「同志ヨシエ」

 と声をかけた後、

 「少佐」

 という階級を口にしなかったアレクセイであった。彼にとっても、ヨシエは妻として自身の私生活の

 「同志」

 なのである。こうした関係は、様々な形があるとはいえ、世界各地に存在するもののはずであろう。

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