第16話 作戦結果

16-1 出発

 龍が握ってくれたのであろう握り飯を食べた後、藤田、佐竹、そして、ヨシエの3人は、大使館付公用車に乗り込んだ。ヨシエは、途中、大使館内にて、龍に会わなかったのは幸いと思った。これから、

 「作戦成功」

 となれば、藤田は死ぬ。ヨシエが殺すのである。しかし、龍に会えば、日本の出先機関というべき男たちを殺す、というヨシエは揺らぐかもしれなかった。

 「だけど、私がいただいたおにぎりは、農民からの収奪だったのよ」

 ヨシエは、改めて、自身の心中でつぶやいた。殺すべき敵に対する怒りを、自身で維持しようとしたのであろう。 

 ヨシエとて、元の祖国・日本と縁を切り、ソ連に移ったとはいえ、母・初子に対して、親子の情のような人間的感覚は、そのまま残っていた。彼女が棄てたのは、日本という体制であって、親子の情ではない。

 今回のヨシエの任務を精神的に支えているものは、自身の人生の中で得た初めて得た豊かな生活であることは常々、ヨシエの中にて認識されていることである。しかし、そこに至るまでの過程として、というより前提として、

 「大日本帝国」

 という体制に苦しめられている、かつての自身も含めて、庶民があった。勿論、そこには、母・初子もいたことは言うまでもない。

 度々、押し黙っていた表情の初子のことをヨシエが思う、というのは、ある種の

 「肉親の情」

 あるいは、彼女なりの

 「家族」

 への思いでもあったはずである。その思いも、大日本帝国という体制をヨシエが見放す一因となったともいえた。

 現在、この現場で、ヨシエが見る限り、龍とその夫・正志の夫婦仲は悪いものとも思えなかった。この2人にも

 「夫婦の情愛」

 のようなものは当然あるであろう。そんな龍の姿、例えば、笑顔で夫の正志を見送る姿を見たとすれば、その

 「夫婦の情愛」

 が、ヨシエの任務遂行への思いを動揺させるかもしれなかった。

 しかし、既に元の祖国・日本と縁を切り、ソ連と一体化しているヨシエであった。ヨシエ自身にとっても、この戦いは、自身の生活のための

 「自己防衛戦」

であり、勝たねばならない戦いであった。

 同時にヨシエは思うものがあった。

 「龍奥さんは、なかなか、上品な方だったね。何か、私の母さんとは雰囲気が違っていたみたい」

 初子は、父と同じく小作人として苦労していたので、半ば、いつも不安、あるいは、行き場のない苛立ちに苦しめられていた、というか、それらと心中で彼女なりに戦わねばならなかったのであろう。自身の生活を何とか、ギリギリで守る、という意味での初子なりの

 「自己防衛戦」

 だったのであろう。とはいうものの、この

 「自己防衛戦」

 は地主に収奪され、常に苦しんでいる中での、これ以上は後退出来ないという立ち位置での戦いだったのであろう。厳しい表情は、その具体的な姿だった。

 「女学校中退」

 を当時のヨシエ(芳江)が恐る恐る、意思表示したのもそのためであった。

 かつて、日本を脱出するため、神戸から、日満連絡船「黒龍丸」に乗らんと、東京から神戸に向かう列車の中で、思っていたことを繰り返し思うヨシエであった。

 日本では、一般庶民の生活が苦しくなる一方であったものの、資本家・華族等はそれでもなお、良い生活をしていた。龍も、ヨシエが観察したように、それなりに上品な気品を漂わせている女性ではある。

 しかし、それは、

 「良い生活」

 という物質的裏付けがあってのことであろう。物質的裏付けがなければ、その表情は、初子のように厳しいものにならざるを得ないのではないか?

 「作られた上品さよ。しかも、一般市民の汗水たらした収穫に胡坐なんかかいてるのがあなた方の姿よ」

 いつの間にか、自身の

 「自己防衛戦」

 のために心中にてなしていたつぶやきに、半ば本真剣に耽溺していたヨシエであった。

 廊下をヨシエの前を、誘導するように歩く格好となっていた藤田と佐竹の背をにらみつつ、半ば怒りのこもったつぶやきをしていたのであった。

 この時のヨシエは、藤田と佐竹から表情が見えない以上、その怒りが表情に出ていたかもしれない。

 歩いているうちに、ヨシエを含む3人は、大使館の裏口に着いた。佐竹が裏口の鉄扉を開けた。

 「朴」

 佐竹が振り返った。

 「運転手として、運転してくれよ。おまえの運転技術はまずまずだ」

 佐竹はヨシエに、運転席に乗るように促した。

 「はい」

 ヨシエは、佐竹から昼間と同じ公用車のキーを受け取ると、運転手として最初に公用車に乗り込んだ。

 「『千里眼』とやらに、私の心中がばれていないかしら」

 裏口の鉄扉に来るまでに、佐竹等は、ヨシエの表情を確認はしていないはずである。しかし、それでも、何かしら、少しく不安になった。しかし、最早、決行あるのみである。

 ヨシエは、フロントガラスの上のミラーを調整する等、運転手としての準備を始めた。そこに、後部座席へ藤田と佐竹が乗り込んで来た。

 「朴さん、準備は良いかね?」

 今度は、藤田からの声である。

 「はい、出しましょうか」

 「うむ」

 藤田と佐竹のほぼ同時の声に押される形で、ヨシエはエンジンをかけた。ヨシエの運転する公用車は順調に滑り出し、深夜のブタペスト市内へと走り出して行った。


16-2 車内会話

 大日本帝国大使館付公用車は、50~60キロの速度で、目的地の

 「貿易会社」

 へと向かっていた。所謂「夜中」であり、車道の両脇の歩道にも通行人らしき影はほとんどない。後部座席の佐竹が藤田に話しかけた。

 「今度の作戦はぜひともうまくいってほしいのだが」

 「うむ、上手くいってほしい」

 藤田が佐竹に質問を返した。

 「陸軍は、対ソ戦というか、ソ連の脅威に対して、何とか、実戦の場合、対抗できそうなのかね」

 佐竹は、暫く厳しい表情で押し黙っていたものの、答えた。

 「どうだか。朴が持って来た図面に載っていたソ連の新鋭戦車に対抗するのは難しい。敵は100ミリ砲を装備しているのでね。それに、装甲もこれまでにも増して、厚いだろうし」

 藤田が言った。

 「日ソ中立条約も既に期限切れだ。ソ連は条約を更新してくれなかった。状況はソ連に有利に傾きつつあるので、当然と言えば、当然のことだ。そこに、兵器の装備でも差があるとなると厳しいものがあるな」

 「そこを何とかするのが、外交の仕事だろう」

 「実力による裏付けがなきゃ、どうにもならんよ」

 つまり、

 「実力による裏付け」

とは、先にヨシエが心中にてつぶやいた。

 「物質的裏付け」

 とも言えた。

 ヨシエは2人の会話を運転席で聞きつつ、

 「いよいよ、大日本帝国と大東亜共栄圏もおしまいの時が近づきつつあるようね」

 そう思いつつ、さらに、

 「でも、こういったことは、一般庶民からすれば、半ば、肌感覚で分かっていたこと。あなたたちは何時、そんなことを知ったのかしら?特に『千里眼』さん、あなたは大日本帝国を支える大黒柱的存在として、いつ頃、そのことを認識したのかしら?」

 と心中にて、つぶやいた。

 そんな中、藤田が口を開いた。

 「この前の繰り返しになるがね」

 「うむ」

 「あんた、貧しい農家の出身だったよな」

 そう返答した上で、佐竹は改めて答えた。

 「俺にとっては、軍しか自分の人生をどうにかする道はなかった。実家には金はなかったし」

 過去を振り返りつつ、佐竹は続けた。

 「その後は、今までの経歴がある。しかし、今後、どうなるか」

 自身の今後に、一抹の不安を抱いているかのような態度である。ヨシエは思った。

 「意外ね。彼も、小さかった頃、貧しかったんだ」

 しかし、ヨシエは思い直した。自分の故郷でも、貧しさゆえに、一般の学校に進学できない小学校時代の男子同級生が、軍関係の学校に入学していた例があった。佐竹は、その貧しさゆえに、大日本帝国陸軍に入隊し、自分の人生を何とかしようとしたのであろう。

 しかし、

 「千里眼」

 だけあって、一定程度、今後の未来を見通す力もあるらしい。そこはかの橋田よりはまともなようだ。

 大東亜戦争の勝利は被差別の立場にあると言える女性をかえって不幸にしたと言えるかもしれない。しかし、男性陣にもヨシエが見て来た小作農民のように、不幸に苦しむ者は少なくない。

 「男性陣」

 といえば、外郭要塞で橋田の体罰を受け、そして、ソ連軍の侵攻によって戦死したであろう少年戦車兵も男性である。

 そうした男女を問わず諸々の庶民の上に乗っているのが軍将校のようなエリート層とも言えた。

 しかし、そのエリート層をももろとも崩す足音が近づいているようであった。

 「何の為の大東亜共栄圏なのか?」

 ヨシエは改めて、疑問に思わざるを得ない。これまで、何度、心中でこの疑問を繰り返して来ただろうか。その答えは勿論、後部座席の2人が教えてくれるとは思われない。

 しかし、

 「回答」

 は、藤田の口から出た。

 「陛下のための戦いだ、負けるわけにはいかない」

 「確かに」

 佐竹も同意した。そこには、ハンドルを握っているヨシエからは無論、確認できないものの、何か、力がこもっているものがあるようにも思えた。

 殊に、大日本帝国陸海軍は、

 「皇軍」

 である。佐竹にとっては、自身が

 「天皇(制)」

 と一体化した存在なのだろうし、藤田も、

 「天皇の官吏」

 として、同じ立場なのだろう。それに対し、ヨシエは既にソ連の一員となり、逆の立場になっている。逆ベクトルの両者が逆方向の

 「作戦成功」

 を望んで、1つの狭い空間の中に同乗しているのであった。小さな車内にて、既に日ソ戦が始まっていた。

 佐竹が口を開いて、わざとらしく言った。

 「わが大日本帝国にも、スターリンのような強い指導者がいればな」

 既に、

 「大日本帝国」

 「大東亜共栄圏」

 といったスローガンに日本の

 「社会」

 をまとめる力はなく、また、大東亜共栄圏成立によって、多民族の社会と化した日本の勢力圏といった現実があった。故に、同じく多民族国家であるソ連のように、それらをまとめ得る

 「強い指導者」

 を欲しているのかもしれない。換言すれば、やはり、

 「大日本帝国」

 「大東亜共栄圏」

が既に日本による被占領諸地域の

 「社会」

 でも支持をなくしていることの証左ではないか。しかし、それでも、藤田と佐竹の2人には、これまで積み上げて来たキャリアをなくすのが怖く、現行の体制を維持したいところであろう。

 それが、先程の

 「陛下のため」

 という発言になったのではないか。勿論、それは、幼い頃からの教育にも影響された1つの思想でもあったであろう。

 そうこうしている間に、ヨシエの運転する大使館付公用車は、例の

 「一本道」

 に差し掛かった。


16-3 突進!

 ヨシエは、ハンドルを右に回し、自身の運転する公用車を

 「一本道」

 へと進入させた。ここからは文字通り、

 「貿易会社」

 まで、一直線である。

 ヨシエは少しずつ、アクセルを踏み、ある時点から、一気にアクセルペダルに半ば全力を入れる形で力を入れた。

 「!?」

 後部座席の2人は急な変化に驚き、佐竹は、

 「おい、朴、何をしているんだ!」

 と叫んだ。

 ヨシエはあらかじめ、脱出地点として、見計らっていた幅の広い道と交わる十字路に近づきつつある地点で、バスガールのように叫んだ。

 「ご乗車、お疲れ様でした!作戦成功です!間もなく、終点『貿易会社』でございます!」

 すぐさま、ヨシエは運転席を飛び出し、空中で頭を抱え、体を丸めて、脱出した。

 運転手を失った公用車、後部座席の藤田と佐竹を乗せたまま、目的地たる

 「貿易会社」

 に向かって猛スピードで突進した。藤田と佐竹になす術はない。2人は何らかの形で罠にかかったことを認識しつつも、後の祭りであった。運転手をなくした車のフロントガラス越しに、

 「終点」

 の石造りの建物は容赦なく迫って来る。それは同時に、彼等の人生の 

 「終点」

 でもあった。2人の恐怖の感情など、お構いなしに石造りの建物に突進した大日本帝国大使館付公用車はその瞬間、大爆発を起こした。建物の煉瓦が崩れ落ち、車の天井を押しつぶした。

 運転席から脱出したヨシエは石畳の道路上を転がり、数カ所の擦り傷を負ったものの、重いけがは負わなかった。ドジな彼女でも、命がけで、しかも、半ば、人生がかかっているとなれば、どうにかはなるようである。

 とにかく、ヨシエはすぐに現場を離れ、ソ連大使館に向かった。後方から又、大きな爆発音が響き、一瞬、背後が明るくなるのが感じられた。再度の大爆発が何なのかは分からぬものの、ヨシエは一度だけ振り向き、一言だけ言った。

 「あの世で、同志スターリンによろしくね」

 それだけ言うと、ソ連大使館への道を急いだ。

 とにかく急いで、ソ連大使館に着いたヨシエは、ソ連大使館を出る時に通った裏口の戸を叩いた。

 「すみません、KGB少佐のクツーゾネフです、戸を開けてください」

 戸の脇の小さな確認窓が開き、大使館職員がヨシエであることを認めると、

 「同志クツーゾネフ少佐ですね」

 と言い、鉄扉を開け、ヨシエを敷地内に入れた。

 とりあえず、

 「作戦成功」

 であった。あるいは、とりあえずの

 「自己防衛戦」

 に勝利した、というべきか。帰って来たヨシエを大使が執務室にて迎え、

 「お疲れさまでした、同志少佐」

 と声をかけた。とりあえず、安全地帯へと戻り得たヨシエであった。

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