第15話 実戦へ
15-1 大使館付自動車
ヨシエが駐ハンガリー日本大使館での「亡命」生活に慣れてから、約1週間ほどが経った。ヨシエは佐竹に呼び出された。
「朴、お前、車の運転ができるか?」
「はい」
「車の運転は何処で習った?」
「ソ連軍の学校で習いました」
このことは事実そのままであった。
「ここの大使館の敷地内に公用車がある。ちょっと、運転してみてくれるか?」
「はい」
ヨシエは佐竹と共に、大使館の外に出た。ヨシエが運転席に座ると、既に後部座席には藤田が乗っていた。
ヨシエは佐竹からキーを与えられ、車のエンジンをかけた。エンジン音が鳴り、車体が小刻みに揺れた。
ヨシエは問うた。
「敷地を一周しますか?佐竹中佐」
「うむ」
この言葉を聞くと、ヨシエは車のアクセルを踏んだ。スピードが徐々に上がり、3人を乗せた車は、滑らかに敷地を一周した。
朴(ヨシエ)の運転技術に問題は無いようである。佐竹は朴(ヨシエ)の運転能力に一定の満足を得たようであった。
敷地内を走り続けている車ではあったものの、改めて、大使館裏の裏庭に車が差し掛かったところで、佐竹はヨシエに停車を命じた。
「うむ、運転技術は合格だ」
満足げに言う佐竹であった。ヨシエはハンドルを握って、正面を見ている格好で、この言葉を聞いた。正面を向いているので、ヨシエは佐竹の表情を確認できないものの、初めて、佐竹が笑顔で何かを言ったのを聞いた気がした。
「ありがとうございます」
と礼を言うヨシエであった。佐竹の厳しい表情を見続けて来たので、何か少しく緊張がほどけて来たようであり、御礼の台詞には、その意味での-うまく言えないものの-
「緊張からの解放の嬉しさ」
のようなものが少しく出て来たような感じであった。しかし、これは、実際には、対日謀略作戦ということもあり、ヨシエは彼女自身に対し、
「いかん、いかん、気を抜いちゃだめよ。身の破滅は自身で防がないと」
と戒めの言葉を心中で述べた。
停車しているものの、エンジンは先程から、かかっている状態である。改めて、藤田が口を開いた。
「朴さんね」
「はい」
「日本の内地の外務省等に連絡したところ、確かに朴玉麗は朝鮮の北部から、漂流して、その後、行方不明になっていたことが分かったよ。確かに貴女は実在の人物だね」
「ええ」
「日本は今、大東亜共栄圏が維持できるかどうかの正念場だ。今回、そのための重要な作戦が発動される。そのために、君にも役割を果たしてもらいたい」
「どんな役割ですか?」
「まず、朝鮮同胞として、日本はアジア各地域の支持を受けている存在として、新聞等のインタビューに答えてもらいたい。同時にソ連国内での粛清の恐怖について、語ってもらうことで、朝鮮、或いは満州等の方面にて、朝鮮、満州の同胞が、ソ連に傾くような動きは間違いであるということを、実体験をもとに語ってもらいたい。又、こうした語りは、内地の日本の若い層にも効力が期待できると思う」
これらは藤田からの言葉ではあるものの、同じく後部座席に座っている佐竹の思いでもあったろう。ヨシエは思った。
「日本の内地以外の出身の人間がある種の『大東亜共栄圏支持』を言えば、『大東亜共栄圏』正当化の良き宣伝になるわけね。KGBとしては、日本側にとって利用価値のある人間の方が、『亡命』を言った場合、日本の当局にとっては、受け入れやすいので、本土の所謂『内地人』以外の身分で『亡命』させたのかもしれない」
ヨシエが、内心でつぶやいているところに、佐竹が口を開いた。
「我々としては、満州の一遇を占領した親ソ政権は脅威だ。極東へとソ連の戦力が集中できないよう、ソ連の西側にあたる東欧方面で騒乱を起こし、そのことによって、ソ連の戦力を分散させる必要がある」
この話は、KGB少佐として、既にKGB本部、そして、ソ連大使館にて、逆にソ連の立場から聞かされた話である。
改めて、藤田が口を開いた。
「とにかくまず、身近に迫った作戦について、説明したい」
・日本にとっての、ソ連の戦力分散の必要性
このことはソ連側としても分析していたことであるし、東欧諸国がソ連の同盟国となって以来、ソ連の国際関係における存在感は大きくはなったものの、同時に、新たな火種を抱え込んでいたとも言えた。それはここ、ハンガリーも例外ではなかった。
故に、東欧各国では、何らかの形で、ソ連に倣う形で、秘密警察組織が作られていたのである。
大使館内の執務室内での会話は、場合によっては、盗聴されているのかもしれなかった。
そういう次第で、公用車内での3人での
「秘密会談」
なのかもしれなかった。
15-2 迫る作戦
「我々としては、ある『貿易会社』に、オーストリア経由で入って来た米ドルを持って行く急な話だが、明日の夜だ」
ヨシエとしては、この話も、ソ連側の作戦として既に聞いていたし、そのために、「亡命」前に、「貿易会社」に続く一本道を自分なりに調査して来たのである。
「作戦実行」
の日は意外と早くやって来た。日本時代から、表情を相手になるべき悟られないようにふるまう特技を身につけて来たヨシエは驚く様子も見せず、問うた。
「私はどうすれば良いんですか?」
藤田が答えた。
「君には、今夜、この車を運転して、我々をその貿易会社に運んでもらう。君が車の運転能力を持っていたのは、なかなか良かった」
「しかし、なぜ、私が?他に良い運転手さんがいらっしゃるのではないですか?」
改めて、藤田が答えた。
「君が日本側に亡命申請したことについては、ソ連側には通告していない。夜とはいえ、君が運転手なら、ハンガリーの地元警察も、秘密警察をも含めて、例えば、ソ連大使館に連絡したとしても、ソ連の工作活動と考えて、不審には思わないだろう。もし、不審に思われて、咎められたならば、すでに君が署名した亡命申請の書類を示すし、外交官特権ですり抜けるようにする」
スターリン時代以来の監視主義を逆手に取った日本大使館側の作戦なのであった。
「場所はどこですか?」
ヨシエは問うた。藤田が地図を取り出したようなので、ヨシエは、改めて、運転席から後部座席を振り向いた。藤田は自身の膝の上に地図を拡げ、場所を指し、説明した。
そこは、間違いなく、あらかじめヨシエが確認した場所であった。
「分かりました」
この台詞は、
「了解しました」
という意味である。と同時に、
「あなた方を処分する場所を確認させていただきました」
という意味が含まれていた。
ヨシエの返答を聞いた藤田は、
「それじゃ、とりあえず、終わろう。朴さんは、車を車庫に戻して、今夜、呼び出される迄、待機しておくように」
そう言うと、藤田は佐竹と共に、2人で先に車を降りた。
ヨシエは、公用車を車庫に戻すと、心中にてつぶやいた。
「作戦成功のために、暫く、自室でゆっくりさせていただきます」
勿論、彼女が言うところの
「作戦」
は藤田と佐竹の処分、そして反ソ勢力の壊滅のことである。
自室に戻ったヨシエは、ベッドに潜り込み、暫く、昼寝についた。
15-3 脳裏
ヨシエが、ベッドの上で目を覚ましてみると、既に、時計は午後7時を過ぎていた。ヨシエが今しがた、目を覚ますまで、ドアをノックする音は-ヨシエが感じていた限り-耳にしていない。日本大使館側にとって、朴(ヨシエ)は作戦の要というべき存在なので、しっかり、休ませようとしていたのかもしれない。
ヨシエは
「作戦遂行」
についての
「頭上演習」
を改めて行なった。
「例の一本道に入ったら、一気にアクセルを踏む。広い道との十字路に差し掛かったら、身体を丸め、頭を抱えて、運転席から飛び出す。後は運転手をなくした車は、猛スピードで、例の『貿易会社』に突っ込み、走る爆弾と化した車は爆発、炎上、建物も吹き飛ぶ」
そして、
「すぐに、ソ連大使館に駆け戻り、今後のことを大使から聞かねばならない、ということね」
起きてまだ少し、ぼんやりとしつつも、頭上演習をしていたこところに、扉をノックする音が聞こえた。
「はい」
ヨシエの返事に、男性職員の声がした。
「大使がお呼びです。大使の執務室にお越しください」
「分かりました」
ヨシエは返答すると、身支度して、藤田の執務室に向かった。
「いよいよか」
既に、橋田を殺した実戦経験があるものの、今度の作戦は難易度が高くなっている。上手く遂行できるだろうか。
「失敗したら・・・・」
あるいは、本当に
「粛清」
かもしれない。この言葉は、現在まで、ヨシエの私生活と表裏一体化しているソ連という体制が常に緊張を与えている言葉である。
「よしましょう。余計なことを考えていると、雑念のせいでかえって、作戦にしくじるかもしれない」
ヨシエは、自身を戒めた。
いよいよ、
「ソ日(日ソ)中立条約」
が、期限切れになったソ連-日本の双方の国家としての
「自己防衛戦」
が、始まろうとしていた。
大使の執務室の前についたヨシエは、扉をたたいた。
「藤田大使、朴玉麗、参りました」
「どうぞ」
藤田の声がした。
扉を開いて、ヨシエは入室した。
「いよいよですね」
ヨシエは、先程、心中で述べた台詞を改めて敬語で声に出した。
「うむ、いよいよだね」
そこに私服姿の佐竹も入って来た。
「いよいよだ」
と同じ台詞を口にした。入室前にヨシエと藤田の声を耳にしていたのかもしれない。
「いよいよ」
遂行される作戦には、
・大日本帝国の東欧方面作戦を壊滅させる。
・大日本帝国のためにソ連弱体化を進める。
全く対立し、逆方向となっている2つの作戦が同居していた。
大使館職員が、盆の上のさらに3人分のおにぎりを乗せて、持って来た。
ヨシエはも2つ、口にした。塩気の効いた握り飯である。龍が握ったのだろうか。しかし、ヨシエは大使館職員に、そのことを聞かなかった。
もし、このことで、話が進み、例えば、
「龍奥様は、朴さんのことを良く言っていたよ」
等と聞かされたら、その夫をこれから奪おうとする作戦の遂行に心情的にマイナス影響を及ぼすかもしれないからである。
藤田が言った。
「さて、腹ごしらえを終えたところで、作戦遂行については、なるべく、人目につかない深夜11時半以降が良いだろう。朴さん、改めて、この地図を確認しておいてくれ」
「はい」
ヨシエは、改めて、地図を確認した。やはり、公用車内にて、昼に見た地図と同じで、KGB少佐として、事前に確認した場所に向かって、一本道が伸びている。
ヨシエが地図を確認している間、佐竹はT54、T55戦車の図面を眺めていた。各自がそれぞれ、無言で作業を進めていた。ヨシエにとって、佐竹が何を考えているのかは分からない。佐竹は日本陸軍中佐なので、軍の装備等には当然、興味があろう。
ヨシエには、1つだけ、気になることがあった。
「佐竹さん、あなた、自分で自分のことを『千里眼』と言っていたわよね。もし、私がソ連の工作員としてのKGB少佐・ヨシエ=クツーゾネフだと見抜いていたら?」
それは大きな不安材料だった。しかし、
「いや、それはないでしょう。ハンガリー人民共和国は、ソ連の衛星国として、ソ連邦の目が光っているんだ。分かっていたら、何等かの形で、ソ連側につき返すか、あるいは、最初から、こんな重大な任務には就けないでしょう」
ヨシエはこのように言い、自分で自分を改めて、落ち着かせた。
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