第13話 「亡命」
13-1 大日本帝国大使館
石造りの建物の並ぶ街の一遇にある1つの建物の前にヨシエは着いた。その建物の正面玄関にはハンガリー語と日本語で
「大日本帝国駐ハンガリー人民共和国大使館」
とあった。
ヨシエは受付係に「事情」を説明した。
「朝鮮北部にて、船でソ連沿海近くまで出た時、嵐でソ連領に漂着し、そのまま、ソ連のスパイにされていましたが、日本への帰国と保護を申し出たく思います朴玉麗と言います」
受付係は日本人であった。彼は少し驚いたような表情で言うと、
「何か、身分を証明できるものをお持ちですか?」
とヨシエに問うた。
ヨシエは
「これを」
と言って、鞄の中からあるものを取り出した。
表紙には
「大日本帝国」
とあるパスポートであり、その1ページ目には、ヨシエの顔写真と
「朴玉麗」
の名があった。
内容を確認した受付係は、
「これは一大事」
と言わんばかりの表情で、
「おまちください、今、大使に連絡します」
と言って、奥に消えた。
10分ほどして、中から、1人の男が姿を現した。
「藤田正志、当駐ハンガリー大使館の大使です」
と言い、同じく、彼の氏名を印刷した名刺を渡した。
藤田を問うた。
「朴さんは、わが大日本帝国に保護を求めるのですね?」
「はい、日本に帰還したいと考えております」
「事情を伺いたく思いますので、奥へどうぞ」
藤田は、そう言うと、自ら、ヨシエを奥に通し、大使として執務室に入れた。
藤田は執務室の応接間にヨシエを座らせ、自身も向かい合う形でソファに座った。
藤田は、煙草に火をつけ、少し、自分自身を落ち着かせると、改めて口を開いた。
「色々と、ご事情がおありのようですが、どうされたのですか?」
はい、北朝鮮沿岸で、家族の漁船で家族と一緒に乗って、ソ連沿岸の沿海州あたりまで出ましたところ、これは、先程の受付の方にも言いましたが、嵐で船が流されてしまったんです」
「ほう、それで」
「それで、ソ連の沿岸警備隊につかまってしまいました」
藤田はさらに問うた。
「その時に、帰国や日本領事館への保護等は申し出られたりはしなかったのですか」
「そうしたい、と思いましたが、朝鮮の出身とはいえ、日本語が流暢なので、そのままソ連の対日工作員にされてしまいました」
「なるほど」
既に、1956年を迎え、日ソ中立条約は期限切れになっている。ソ連側からは、更新しない旨の通知は、モスクワの日本大使館に、通達されており、日ソ両国は次第に緊張の度合いを高めつつあった。
「大東亜共栄圏護持」
そして、その中心たる
「大日本帝国」
の防衛のためにも、日本側の情報はできるだけ、多く欲しいところである。
しかし、なぜ、彼女は、日本のパスポートを持っていながら、ソ連のパスポートは持っていないのか。ソ連のエージェントであるならば、ソ連のパスポートを持っていても不思議ではないのではないか。
「ソ連のパスポートはどうされたのですか?」
「先程、ソ連大使館に預けてきました。というか、あずかられています。東欧諸国では、ソ連か東欧諸国のパスポートがなければ、通行が難しいでしょうから、パスポートは任務中には没収されています。勝手に動けないようにね」
これはヨシエにとって、事実そのままである。
「半ば、人質として、パスポートを握られているのですね。しかし、なぜ、対日工作員でありながら、我々、大日本帝国大使館に亡命のような形で、保護を求められましたでしょうか」
「粛清の危険を感じましたので」
「うむ、なるほど」
藤田は納得できるものがあった。
「粛清」
の危険があるなら、工作員でありながら、その工作対象である日本への
「亡命」
もあり得ない話でもないだろう。
日本側としては、反ソ・反共宣伝に、朴玉麗を利用し、また、ソ連の内情を探り得る良い機会である。
殊に、反ソ・反共宣伝という面では、日本国内で大地主制度に抑圧されている農民、半ば職がなくなりつつある労働者、あるいは、やはり、開店休業状態に追い込まれている小規模自営業者の体制への不満に付け入る形で、モスクワ放送が
「革命」
「労農階級の解放」
といった
「人民蜂起」
をあおるようなラジオ放送を流しているのが昨今の情況である。ある種の謀略による日ソのつばぜり合いは既に始まっていたのである。
そんな状況の中、
「亡命者・朴玉麗」
はソ連の謀略に対する良き反宣伝材料になり得ることが期待された。
藤田は何かしら、決心したように言った。
「分かりました。朴さん、貴女の亡命申請と言いますか、保護申し出を受け入れましょう。但し、今後、色々とお聞きすることもありますので、暫くお付き合い願います」
ヨシエは少しく笑顔になった。ドジでありながらも、任務の第1段階は突破できた。
「粛清」
の恐怖は、ある種、真実のそれなのであり、ソ連という巨大な歯車から、
「役に立たない部品」
と見なされたら、昨今の豊かな生活も、新しい家庭も失いかねないのである。
しかし、藤田は、ヨシエの笑顔を、当然の如く、
「亡命、保護申請認可」
への喜びとして受け取り、解釈した。
「これから、改めて大日本帝国と大東亜共栄圏のために、頑張ってください」
と励ましの言葉をかけた。
「はい。宜しくお願い致します」
勿論、内心は真逆であった。ヨシエは、当面の住まいを大使館の一室に与えられた。
13-2 武官
ヨシエは、ハンガリーの日本大使館に住むようになって、数日してから、査問に呼び出された。ある日、ヨシエの部屋を叩く音がし、戸を開けてみると、大使・藤田正志の妻・龍の姿があった。
「朴さん」
「なんでしょう」
「主人が大使として、貴女を呼んでいます。着替えて、主人の執務室に行ってちょうだい」
「はい、奥様」
何だか、日本での山村家や篠原家での関係が一部、復活したかのような状態である。しかし、それでも、篠原家での
「ヨシエ!ヨシエ!」
の不作法な声よりは、まだ上品であるとも言えた。
ヨシエは衣服を着替えると、大使の執務室に向かった。
大使の執務室の戸の前で扉を叩き、
「お呼びでしょうか、大使」
と声をかけた。
「朴さんだね、どうぞ」
中から、藤田の声がした。
「失礼します」
ヨシエは戸を開けた。執務室内には、大使の藤田の他、もう1人、日本陸軍の軍服姿があった。予想外の状況に、ヨシエは戸惑ったものの、藤田は、先日と同じく、応接間のソファにかけるようにうながした。藤田自身も、先日と同じ位置に、かけた。但し、今回は、軍服が彼の隣に座っている。
「あ、こちらね、このハンガリー駐日大使館付け駐在武官・佐竹勇雄中佐だ」
「こんにちは」
ヨシエは率先して挨拶した。
「うむ、本官は、当大使館付き駐在武官・佐竹勇雄陸軍中佐だ」
何か、居丈高である。大日本帝国,そして、大東亜共栄圏、は言うまでもなく、帝国陸海軍を不可欠な柱として成り立っている。それは、1956年の今日も変化はない、というより、いよいよ、対ソ開戦の可能性があることから、帝国陸海軍将校の意気はいよいよ、上がっているのだろうか。
ヨシエは内心、思った。
「日本の軍人はどいつもこいつも、おお威張りね。ま、その中で一番ひどかったのは、あの橋田でしょうけど」
ヨシエ(芳江)は任務として橋田を殺害したものの、自身への抑圧への象徴への怒りと恨みを込めての射殺でもあった。ソ連の一部品としての行為であったものの、私怨で殺害したのであった。
威張っている軍人と抑圧される一般庶民。東京で付き合いのあった藤倉妙子、山村家、篠原家に収奪される農民、零戦製造工場での三田亜紀子、そして、かつての自分自身・倉本芳江である。
ここでも、可視化される抑圧構造に出くわした。ヨシエは無表情を装いつつも、これまでの抑圧の実例が、ヨシエに怒りの感情を焚き付けていた。ある種の私怨が動機となれば、佐竹等の殺害も帰って、うまくいくだろう。それは、橋田の例と同じである。
ヨシエがそんな状態の中にいるところに、佐竹が口を開いた。
「今、日本は非常時のただなかにある」
またまた、お定まりの
「非常時」
である。今日、この時点までに、一体、何回、耳にし、又、日本国内でもポスター等で可視化されて来たであろうか
最早、
「非常時」
は
「非常時」
ではなく、
「常時」
であった。このことについても、ヨシエ自身も、何回、心中で言い、確認したであろうか。
まさに、
「非常時」=「常時」
である。本来、成り立つはずのない恒等式が成立してしまっていた。おかしな言葉遊びの世界であった。ヨシエは思わず、怒りを通り越して、
「元・祖国」
の滑稽さに笑いが出そうになった。
「おい、朴、どうした?」
佐竹が鋭い言葉を放った。
「失礼しました。ソ連体制の愚かしさについ、笑いが出そうになりました」
ヨシエは咄嗟に、
「日本体制」
であったところを
「ソ連体制」
と言い換えた。
「危ない、危ない、こんなところで、ドジしてなるものですか。こっちも自分自身の生活が懸かっているのよ」
ヨシエは内心で、自身を戒め、警戒を怠らないように、自身に注意を促した。
「本官は、帝国陸軍の将校として戦い、南方方面等で現地軍将校としての経験から、敵を見るには千里眼だ」
佐竹は自身の能力を自賛した。やはり、軍人の地位は、相変わらず高いので、「社会」という周囲からの批判を受けることなく、うぬぼれ的な自信を持っているのかもしれない。ヨシエに殺害された橋田もそうだったのであろう。
しかし、佐竹が、本当に
「千里眼」
的能力を持っているとしたら、ちょっと、厄介な相手であろう。ヨシエ自身の正体を見抜かれないように、早速、警戒すべき相手である。
「強敵、現る。注意すべし」
ヨシエは内心にて、自身に注意警報を発した。
「早速だが、朴、お前は何か、図面を持参してきたようだな」
早速、上官気取りの佐竹であった。
「ええ、先日、大使にお渡ししました」
「今、取り出すよ」
そう言うと、藤田は一旦、ソファから立ち、いつもの自身の執務デスクから、茶封筒を取り出し、ソファに戻った。
13-3 図面
「これなんだがね」
藤田は、そう一言、言うと、茶封筒の封を開き、中の図面を取り出した。そして、数枚の書類を、テーブルの上に並べた。それを見た途端、佐竹は強く、目を見開いた。
「これは」
と言うや、図面のうち、1枚を手に取り、厳しい表情で見つめ始めた。
「う~む」
図面は、ソ連軍の新鋭戦車T54、T55の図面である。今後の対ソ戦、ことに、地上戦においては、重要な鍵となり得る情報である。
本格的な対ソ開戦となった場合、日本帝国陸軍は、対抗し得るだろうか。T54等より旧式のT34型戦車に対してさえ、ハイラル要塞の外郭要塞に配備された日本帝国陸軍主力戦車・97式チハは守れなかった。結果、満州国はその一遇が切り崩され、満洲里市には中国共産党系の政権が成立してしまった。
「朴、この図面をどこで手に入れた?」
「勤務していたKGB本部です。資料庫の整理を任されていた時、その隙に」
「うむ、どうやって、ここまで、この図面を持って来た?」
「鞄を二重底にして、お持ちしました」
そもそも、機密書類を運ぶために、ヨシエの持参した鞄には、二重底等の細工がなされている。佐竹の隣の藤田は、改めて、彼女が持参した鞄を確認してみた。確かにそうした細工がなされているのが確認された。朴(ヨシエ)の話には一定の信憑性がありそうである。
「うむ」
佐竹が改めて言った。そして、テーブル上の資料をまとめなおした。
「朴、でかした。わが大日本帝国に対するソ連の脅威に関する重要情報をもたらしてくれた」
その後、さらに、佐竹は言葉をつないだ。
「今、ソ連と対峙しているわが帝国としては、ソ連を後方から弱体化させるためにも、ここ東欧での活動が1つの重要な拠点となっている。ここを拠点に色々、動いてもらいたい」
相変わらずの上官気取りである。そこには、有無を言わせないような圧倒的な力がこもっているかのようであった。
今回の戦いがヨシエにとって、
「自己防衛戦」
ならば、この2人にとっても、自信の体制を守るべき
「自己防衛戦」
なのであろう。
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