第11話 ソ連大使館にて

11-1 大使と

 大使に促されて、ヨシエは大使と向かい合う形で椅子に腰かけた。

 大使は言った。

 「モスクワに比較して、ここは暑いかね?」

 「ええ、大使」

 確かに、ブタペストはモスクワよりは気温が高いようである。

 大使が続けた。

 「早速だが、今回の任務の内容は承知しているかね?」

 「はい、大使」

 ヨシエは、事前に受けた任務の内容を反芻し、今回の任務の内容がハンガリーでの反ソ勢力に打撃を与えることと、可能ならば、その背後にあると思われる日・米両国の反ソ活動への支援の実態等を探ること等を、改めて述べた。

 「うむ、その通りだ」

 大使は、ヨシエの話の内容を肯定すると、更に続けた。

 「我々、ソ連邦としてはね」

 そのように前置きすると、ソ連邦を取り巻く国際情勢について、改めて説明した。

 「最早、自転車操業と化した大日本帝国は、早晩、内部から自壊するだろう。我々としては、極東に親ソ政権を作る良い機会だ。米国側は、しかし、今なお、太平洋の覇権を日本側に握られているので、太平洋の諸地域を奪還してからでないと、日本本土に上陸することはできない。つまり、日本から地理的に近いところにあるソ連邦に、かえって、日本本土への上陸の可能性を与えてくれたわけだ」

 確かに、東南アジア諸国を奪還しないと、米国にとっては、日本本土への上陸は難しい。その点、ソ連は地理的に有利な立場にいた。

 「しかし」

 そのように言うと、大使は、自身の椅子から立ち、後ろ手を組んで、傍の窓から外を見た。

 「このハンガリーでも反ソ感情が高まりつつある」

 その理由として、

 「農業集団化、つまり、ソ連式の農業運営に、地元の農民の反発が起きている」

 等を挙げた。

 これについては、ヨシエも、何となくわからないではなかった。ソ連式の集団農場は効率が悪い。ゆえに、ヨシエとて、自身のマンション近くに、小規模とはいえ、土地を借りて、自家菜園を為しているのである。

 「反ソ暴動が勃発すれば、ソ連邦と社会主義の威信は傷つくだろう」

 仮に、ハンガリーで反ソ暴動が起きたとしたら、日本はそれを大いに利用するだろう。それはそれで、ソ連にとってはマイナスなのだが、今回、ヨシエが壊滅すべしと言われている反ソ勢力は、そのような有事に合わせて、買収したハンガリー軍将兵等を利用しての親米政権樹立を企てている可能性があるのだという。この場合、東欧情勢が一挙に米国側に有利に傾く可能性もある。

 ハンガリーの親米化は、極めて忌々しき事態である。大使の説明を聞きつつ、

 「しかし」

 とヨシエは思った。

 「篠原の小作人の人達、今頃、どうしているのかな?私が軍部に土地を譲ったから、土地そのものをなくしているはずだけど、多くの小作人にとっては、とにかく今の土地支配から解放されれば良いのだから、遠い東欧のことなんか問題にならないかもしれない」

 ヨシエ(芳江)の母・初子が、近所の地主家の女中になったのも、ヨシエが女学校進学、そして、中退を、その初子に許されたのも、すべて、経済的な問題であった。中退後、行き場のなかったヨシエが零戦製造工場にて労働者になったのも、経済故の話である。

 多くの日本の労働者・農民といった一般市民には、おそらく、自身がより良く生活できれば、東欧情勢は然程、気になるものでもないであろう。

 しかし、極東方面の現在の情勢に対し、より良い生活をもたらすと思われるソ連そのものが弱体化すれば、そのビジョンは危うくなる。ヨシエ自身の生活といった立場からも、それは、許されないことであった。

 大使がヨシエに問うた。

 「東京の駐日大使館からは、日本では労働者、農民といった一般市民の窮乏化が進んでいると聞いているが、同志少佐も、日本にいた時は、小作農の出身とのことだったね。生活は苦しかったかい?」

 「ええ、苦しかったです、大使。だから、先の見込めない祖国を棄て、ソ連の一員になったんです」

 「うむ」

 大使は、一言うなずくと、さらに続けた。

 「先にも言ったように、内部が窮乏化している日本と大東亜共栄圏の崩壊は必至だろう。我々が見据えなければならないのは、その後のことだ」

 「その後?」

 「米国との対決に入っていくであろう今後の国際関係のことだよ」

 そう言うと、大使はデスクに戻り、手を組んで、改めてヨシエに向き合った。


11-2 昨今の国際関係

 「たぶんね」

 大使は一言、前置きすると、続けた。

 「或いは日本に、とりあえず親ソ政権を樹立することそのものは、難しい事ではないかもしれない」

 これについては、ヨシエには、ある意味、簡単に察しがつくものでもあった。先程から、思い出しているように、人々は日本国内にて、苦しい日々だからである。

 それでは一体、親ソ政権樹立以外に、どんな困難があるのだろうか?

 大使は言った。

 「同志少佐、貴女は、日本の大陸侵略の一陣地というべき、ハイラルの外郭要塞を陥落させ、極東でのソ連邦への脅威を一定程度、取り除いてくれた。これはこれで、ソ連邦への大きな貢献だったよ」

 旧外郭陣地付近の満州里市には、中国共産党の政権が確立されていた。満州里を中心とする新政権には、駐留ソ連軍による護衛がなされ、T34型の他、新鋭戦車・T54、55型も配備される予定である。

 関東軍、満州国軍にとって、新たな装備を有するソ連の大軍に護衛されている満州里の中国共産党政権に対する対抗、奪還は困難な状況となっていた。特に、かつては最強精鋭を言われた関東軍ではあるものの、「大東亜共栄圏」の防衛のために戦力が南方各地に分散させられていたのである。

 加えて、駐留ソ連軍の背後にはかつて、ヨシエが中尉の階級で所属していた駐蒙ソ連軍がおり、又、そのほかにも、ソ満国境にはソ連極東軍もいる。満州方面においても、日本側の突っ張りは限界にきていると言えた。

 1931年(昭和6年)の満州事変の結果、建国された満州国ではあったものの、25年続いた同国も崩壊が迫りつつあるようだった。

 そして、同時に崩壊が迫っているのが、中国国民党による中華民国であろう。中国としては、日本に半ば、国土を侵略され、占領されている状態なので、日本による被占領地域では、正式の中国政府である国民政府への日本からの奪還等という意味での

 「期待」

 や、ある種の

 「支持」

 も大きいようである。

 しかし、広大な農村を根拠地として、農民に支持基盤を持つ中国共産党の方が、農業国・中国においては、広く支持基盤を持ち、金銭面、経済面でも清廉であるとされていた。

 米・ソ両国とも、日本の侵略に対抗するために支援して来た政権は、中国国民党であり、又、同党による中華民国であった。しかし、腐敗堕落が言われている同政権は、それこそ、最早、抗日のためのみに支援されているともいえる状況であり、いつまでも、こうした政権を承認、支援することができないのもまた、事実であった。

 中国という巨大な国家は、今後、どのような動きを見せるのだろうか?現在の中国国民党による体制が崩壊した場合、新たに政権をうち立てるのは、間違いなく中国共産党であろう。

 1918年、ロシア十月革命型の社会主義革命を全世界に広げんと、コミンテルンが結成された。その中国支部として、中国共産党は1921年、上海のフランス租界にて成立したのであった。

 初期には、コミンテルンの指導に従って行動していたものの、毛沢東が、長征(瑞金⇒延安)の途上、実権を掌握していく状況となり、新たな根拠地・延安にて、毛沢東の一元支配が確立されたのであった。

 この過程は、同時に毛沢東がソ連の影響力を排除していく過程でもあった。

 故に、毛沢東の中国における政権獲得の過程は、ソ連にとって、必ずしも、親ソ政権の確立となるか否かは、微妙なところとも言えた。

 場合によっては、ユーゴのチトーのように、独自の路線を歩む可能性は否定できなかった。 

 毛沢東がもし、米国との一定の接近を為すとしたら?これはまた、米国と対立を為すであろう、今後のソ連の国際関係において、大きな頭痛の種になるであろうことは間違いなかった。

 「故にね」

 大使は、昨今の国際関係について、一通りの説明をした上で、言った。

 「今後の国際関係の上で、ソ連邦の極東戦略として、日本を獲得するのは重要であるものの、そのために、日本での反ソ感情の高まりはやはり避けたい」

 そのように言ったうえで、

 「同志クツーゾネフ少佐、冒頭にも言ったように、ハンガリーでの反ソ活動の拠点を壊滅し、親米政権の樹立、日本の反ソ宣伝の材料を潰してもらいたい」

 と述べ、作戦の具体像を説明し出した。


11-3 攻撃目標

 大使は、ヨシエにある1枚のブタペスト市内での石造りの建物の写真を見せた。T字路の正面にある建物である。ヨシエがブタペストへの国際列車の中でも確認した写真とほぼ、同じ写真である。

 大使は言った。

 「この建物はね、ある貿易会社。貿易会社を言いながらも、反ソ活動の拠点になっている」

 「ええ、既に、存じているつもりですが、改めて、説明いただけますでしょうか?」

 「うむ、既にご存じかと思うものの、貿易会社なので、他国の通貨が入りやすいことを利用して他国の通貨が入りやすい」

 これも、既に承知済みではある。さらに、大使は説明した上で、ヨーロッパの地図を拡げた。

 「今、我々がいるハンガリーの隣国がオーストリアだ。ここは中立国なので、米ソ両国の大使館があるし、様々な国の外交官が入り混じっている」

 大使の説明によると、同地の大日本帝国大使館員が、同じく同地の米国大使館員と接触している様子が見られるのだという。

 交戦国である日・米両国の外交官が接触して、何をもくろんでいるのか?

 大使が続けた。

 「米国、CIAのエージェントが、日本の大使館員に米ドルを渡し、日本の大使館員の一部が商社マンに扮して、先の会社に米ドルを渡しているようなのだ」

 ヨシエは改めて問うた。

 「その米ドルは何の為に使われているのですか?」

 「ハンガリー軍将兵の買収、あるいは、監視役となっている党の機構の買収のためのようだ」

 これらも、すでに、一定程度、了解していたことだった。

 いつの時代も、どの地域でも、

 「金(MONEY)」

 は、不可欠かつ大きな力である。

 日米合作の反ソ活動が何らかの形で成功すれば、日米両国とも、反ソ宣伝への利用し得、日本はソ連の極東でのある種の弱体化、米国は東欧圏での反ソ宣伝、活動による自国に有利な欧州情勢に利用するであろう。

 つまり、日米両国とも

 「反ソ、反共」

 では利害が一致しているのである。それは、日米両国なりの今後を見据えた動きであろう。これは勿論、ソ連にとってはマイナス以外の何物でもない。

 故に、この動きは抑え込む必要があった。

 そのための具体的攻撃目標として、例の貿易商社のみならず、やはり、既に知らされていた日本大使・藤田正志、駐在武官・佐竹勇雄であることが知らされた。

 そして、2か月の作戦期間中、作戦遂行が見込めない場合には、ここ、ソ連大使館に戻るように、こちらで保護する、という意味の説明も受けた。

 そして、大使は言った。

 「では、貴女の正式のパスポートを預かるから、出しなさい」

 ヨシエは、表紙に

 「CCCP」

 と書かれた、又、其の1ページ目に

 「ヨシエ=クツーゾネフ」

 と書かれた正式な自身のパスポートを差し出した。ここからは、自分の身分を偽り、亡命者

 「朴玉麗」

 である。大使は続けた。

 「勿論、反ソ拠点への攻撃は事故を装ってほしい。そのための自動車運転の訓練も受けているとのことだね。自動車を突っ込ませて作戦を遂行しても、ハンガリーの警察には事故として処理するように圧力をかけてある。ハンガリー人民共和国政府としても、反政府勢力が拠点をなくせば、政府として安泰だろうから、今回は、ソ連、東欧諸国の理に適うものだ」

 逆に、親米政権が成立すれば、他の東欧諸国に波及するかもしれなかったことは、この部屋で話された通りである。

 説明を受けたヨシエは言った。

 「はい、大使」

 「うむ、気を付けて、同志少佐」

 大使は、デスク上の電話で、先の受付係を呼んだ。まもなく、扉がノックされ、戸が開き、先程の受付係が姿を現した。

 「お呼びでしょうか、大使」

 「うむ、同志少佐を、送ってやって」

 「分かりました、大使」

 ヨシエは、大使の部屋を出、往路と同じ通路を受付係と共に歩いたものの、今度は、半ば、ソ連のエージェントたるをばれぬよう、身を隠すべく、分かりにくい裏口から出た。

 ここから、亡命者

 「朴玉麗」

 となったヨシエは、暫く歩いた後、再び、タクシーを拾った。  

 

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