第8話 演習

8-1 演習場にて

 ヨシエの耳に乾いた銃声が響いた。ヨシエが銃を演習として扱ったのは、女学校での軍事教練にて、38式歩兵銃を扱って以来である。しかし、すでに、ヨシエは外郭要塞にて、橋田至誠を殺害しているので、実戦経験が先になっているとも言えた。

 橋田を殺害した時には、かなりの至近距離であり、しかも、背後からだったので、敵の頭部を吹き飛ばすことに、容易に成功したとも言えた。しかし、遠距離ともなると、なかなか、的に当たらないこともある。ヨシエが撃っているトカレフ軍用拳銃は、撃鉄を引くのは軽いものの、身長160センチ強という彼女の身体は結構、衝撃として響くもののがあった。

 しかし、これを乗り越えないと、一人前のKGB将校にはなれないであろう。ここでも、例外なく

 「粛清」

 という言葉に常々、追い回されている-少なくとも、ヨシエには、そのように思われた-のであり、故に、射撃訓練に励んでいるヨシエの姿がそこにはあった。

 タチアーナからの説明を受け、この演習場にて射撃の訓練に入って以来、既に3週間ほどが経過していた。遠距離射撃は苦手と言っても、しかし、射撃の腕前は、比較的、高スピードで上達しているらしい。

 射撃訓練の教官からも、

 「同志少佐、射撃の腕の上達の呑み込みは早い方ですね」

 と誉め言葉をもらうこともある。その表情からして、所謂、日本語で言うところの 

 「お世辞」

 ではないようであった。

 一体、なぜ、ヨシエの射撃の腕前は比較的早いスピードで上達できているのだろうか。

 ヨシエは、射撃の的を撃つ時、自身が殺害した橋田至誠、あるいは、かつて、零戦製造工場で平手打ちを食らわした班長、そして、その後、大連に渡るまでの山村、篠原両家での仕打ちを思い出しながら、射撃訓練に臨んでいた。

 何も思わず、ただ漫然とトカレフを撃っていたのでは、射撃の腕は上達しないだろう。しかし、自分の怒りと憎しみの相手を思うならば、話は別である。

 -自分の心中での相手とは言え-、ここでは怒りの相手に気兼ねなく、銃弾を撃ち込める。的を嫌な奴と思い、その的に銃弾が当たれば、恨みも半ば晴れるというものである。心中の怒りの相手を-やはり、自身の心中の話とはいえ-殺すことに何の遠慮もいらないのである。ドジなヨシエと雖も、射撃の腕が上がるのは、ある意味、当然と言えた。

 ドジなヨシエは、女学校時代の軍事教練では、38式銃によって、的とされた達磨(だるま)を撃った時、まぐれで当たったものの、的を外した同級生が陸軍から派遣されて来た教官から、怒声と平手打ちの制裁を受けたのを見たことがある。その姿に激怒したヨシエは、そのまま、38式銃でその教官を射殺しようとさえ思ったものの、それはできない相談だった。

 「非常時」

 の下、何をも言うこともできるはずがなかったのである。それは、日本を脱出するまで、どこへ行っても、半ば、同じことであった。

 それを思い出している間に、いつぞやのように顔を紅潮した。表情が怒りの表情へと変わっていくヨシエであった。

 「どうしました、同志少佐」

 傍らの教官役の尉官が、ヨシエの表情を不審に思ったらしい。ヨシエは、我に返った。

 「え、あ、失礼」

 「敵との戦いは、気持ちの落ち着きも大切です。せっかく、射撃の腕が上達して来たのに、落ち着きがなくては、実戦では生かせませんよ」

 「そうね」

 ヨシエは返答した。

 「落ち着き」

 この言葉通り、ヨシエは自身の表情を表に出さない、という特技がある。しかし、それは、それまでの人生にて強いられて作られたものでもあった。自身の意に反する強要がなされない(と思われる)場所では、表情が出やすくなっていたのかもしれない。

 ヨシエは、自身を興奮状態から現実の世界に戻してくれた尉官に

 「そうだったわね、ありがとう」

 と礼を言った。

 尉官はヨシエに関する情報が入った資料を鞄から取り出すと言った。

 「射撃の腕は、良くなってきています。標的への命中率も、そこそこ上がってきていますね。この調子であれば、近いうちに、射撃については合格点がもらえるでしょう」

 日本時代には、あまり褒められたことのないヨシエにとっては、やはり、嬉しい言葉であった。

 尉官は続けた。

 「同志少佐、あらかじめ言いましたように、午後から、自動車の教練があります。それまでに、昼食をとって、待機されていてください」

 ヨシエは、演習場の食堂へと向かった。


8-2 自動車

 昼食の後、ヨシエが食堂で待機していると、先の尉官が来た。

 「同志少佐、自動車の訓練に行きましょう」

 尉官に案内されて、ヨシエは、運転席に乗り、キーを差し込んで、エンジンをかけた。

 演習場の一遇である機械化部隊が使用する広場を運転して回るのである。これまでにも既に練習していたことであった。

 「よし!」

 ヨシエは、ロシア語で一言、内心にて気合を入れると、エンジンをかけ、車を動かし始めた。

 ヨシエの運転する自動車は、党幹部等、ソ連政府の中心的人物が乗るとされる公用車である。勿論、ヨシエ自身は、日本時代には、こんな高級車など、一度も乗ったことはないし、乗れる身分でもなかった。

 段々と、スピードが上がっていく車内で、ヨシエはやはり、色々と思うものがあった。これも、自動車運転の技術が上達し、それなりに運転しつつも、物を考える余裕が出て来ているからだろうか。 

 「あの篠原夫婦をやっつけたのは良いけど、あの2人の最後の贅沢となった温泉旅行のために、駅まで2人を乗せて運転して行った運転手さん、どうしているのかな?いつも、皆、半ば仕事がないし、まともに経済が回らない状態の中で、大地主の自家用車の運転手なら、そこそこ、暮らしていける身分だったかもしれない。だけど、篠原が経済力をなくしたからには、きっと、あの後、解雇されたことでしょうよ。その意味では、気の毒な事をしたかもしれない」

 ヨシエは、拳銃にて橋田を射殺した。これは具体的事実としての殺人である。

 これに対し、運転手の方は、ヨシエが直接、手にかけて殺したわけではない。しかし、失職した彼は、その後、どうなったであろうか。バス、タクシーも大幅に本数を減らす等、自動車など、殆ど走っていない。

 そんな中、篠原のような大地主-所謂「有産階級」-のみは例外であった。

 日本では

 「社会」

 のなかの

 「その他大勢」

 の一員でしかなかったヨシエ(芳江)は、神戸に着いた時、タクシーに乗ったものの、それも木炭で走る効率の悪いタクシーだった。そのタクシーも、出口の見えない

 「非常時」

 たる

 「常時」

 の下、現在でも、営業を続けられているのだろうか。

 しかし、そもそも、そんな状態の下、なぜ、バス、タクシーの営業が続いているのだろう。庶民の

 「足」

 は既に、多くが自転車である。職場、学校には自転車で行くことが半ば、習慣づいた感があり、何等かの燃料を必要としない交通手段が中心となっていた。

 あるいは、「有事」-といっても、既にいつも有事なのだが-の際には、軍用に素早く動ける交通手段として、自動車等を活用するべく、一種の予備兵力として、その常時の訓練という意味で、自動車運転手は、一定数、残されているのかもしれない。

 そんな状況の中、解雇された運転手氏は、どのようになるのだろうか。

 どこかのタクシー会社に転職できただろうか。しかし、

 「大東亜共栄圏維持」

 のために、日本全体が経済的に困窮、窮乏化している昨今である。予備兵力として、交通機関の会社等が何らかの援助を政府、軍部から受けていたとしても、新規に労働者として、新たな運転手を雇う余裕はないかもしれない。

 「だとすると」

 とヨシエは心中で声を出した。

 「あの運転手さんにも、きっと、奥さんと子供がいるだろうから、収入を絶たれて、家族の中で諍いが起きているかもしれない。亜紀子の実家の『三田商店』のように」

 ヨシエは、運転手氏の行く末を考えてみた。気の毒かもしれない。しかし、ヨシエにも彼女なりの人生があり、篠原の家で行ったことは、一種の生存競争、或いは、

 「大日本帝国」

 の体制が強いた庶民同士の

 「階級闘争」

 でもあった。いずれも、一種の

 「自己防衛戦」

 という

 「競争」

 であり、競争であれば、

 「勝者」と「敗者」

 がいるものである。

 現在、ヨシエがいるソ連邦は基本的に、計画経済の国家ではあるものの、それでも自由市場の存在に見られるように、

 「競争」

 は存在しているのである。そこにも、

 「勝者」と「敗者」

 はいるものであろう。

 日本全体が窮乏化する中、

 「自己防衛戦」

 というべき競争は、闇経済の跋扈に具体化されているように、ますます、熾烈を極めて来ているとも言えた。

 「それに、国全体が窮乏化して来ているならば、とにかくも軍部優先の体制の下、っそのうち、地主連中も生活苦になるかもしれないし、そうなったら、あの運転手さんとて、解雇の運命でしょうよ」

 と、心中にて、自身の行為を正当化した。

 ヨシエは、これらを思ううちに、またしても、日本の現状に怒りが湧いて来たのであるものの、それこそ、車の運転に

 「落ち着き」

 は不可欠である。心中でのシミュレーションによって、自身の感情に耽溺し、事故でも起こしたら、元も子もない。自身の言動を正当化することによって、自身で自身をなだめ、

 「貴女が悪いんではない、気にしなさんな」

と、感情を落ち着かせたかったのかもしれない。

 ヨシエが車を走らせてから、既に10分ほどが経過しただろうか、

 「同志少佐、今日は本格的な訓練を行いましょうか」

 と、助手席の尉官が声をかけて来た。


8-3 本格的な自動車演習

 「どんな演習?」

 「あそこに、長いまっすぐな道が見えますね。あそこまで移動願います」

 尉官の声に合わせて、ヨシエは、そこまで、車を移動させた。

 「一旦、車を止めてください。同志少佐、ブレーキをチェックします」

 ヨシエが停車させると、尉官は、助手席から下車して、正面のボンネットを開いた。ヨシエも下車し、ボンネット内を覗いてみた。

 「大丈夫ですね、ブレーキ等に異常はないようですね」

 尉官はヨシエを促しつつ、助手席に戻った。ヨシエも運転席に戻った。

 「同志少佐、任地では、かなりの危険運転が必要なこともあります。このまっすぐな道で、それを訓練します」

 「何をするの?」

 「100キロメートル以上のスピードを出すんですよ」

 「!?」

 ヨシエは流石に、驚きの表情を隠せなかった。しかし、傍らの尉官の表情には、有無を言わせないものがあった。

 「大丈夫です。この道はの先にあるのは、水をたたえた大きなプールです。運転を間違えたって、水に飛び込むのだから、死にはしません。万が一の時には、私が助けます」

 尉官が続けた。

 「プールの直前、私が指示を出したら、ブレーキを踏んで、車を止めてください」

 そう言うと、尉官はヨシエに、まっすぐな一本道を100キロで走るように促した。

 こんなことなら、先程の興奮状態が続いていた方が良かったかもしれない。しかし、冷静な状態に戻っている状況の下、100キロの走行は、やはり、ヨシエに恐怖を感じさせるものがあった。

 しかし、これは、任務である。遂行拒否はできない。

 「仕方ない」

 意を決したヨシエは改めて、キーを回し、エンジンをかけた。アクセルペダルを踏むと、ぐんぐん、スピードが上がった。速度計のメーターの針も、左下から右上へと回り、スピードは100キロを超えた。

 ヨシエは、自分が運転しているにもかかわらず、他の何かにせかされ、あやつられているかのようである。半ば

 「死」

 が迫って来ているようである。

 「はい、ストップ!」

 傍らの尉官から、切迫したような声がかかった。我に返ったヨシエは、力一杯にブレーキを踏んだ。

 けたたましい音を立てて、黒塗りの高級車は止まった。フロントガラスの正面には、先に言われたプールが迫っていた。

 「いつやっても、この演習は緊張します」

 尉官はそのように言い、傍らのヨシエがやはり、かなりの恐怖を味わったのを察してか、

 「初めてのことで、大変でしたでしょう、同志少佐」

 とねぎらった。

 「ええ、確かに」

 興奮冷めやらぬヨシエは答えた。流石にこの状況では、ヨシエは自身の感情を隠す表情という特技は発揮できなかった。

 「しかし、大丈夫です。多くの同志将校がこの訓練を受けていますが、皆、徐々に慣れていきます」

 尉官が、

 「いつやっても、この演習は緊張します」

といったのは、今日のヨシエのように、新人は皆、当然の如く、不慣れなことから、常に事故の可能性があるからであろう。

 彼も、場合によっては、他人の行為のために、重傷、又は最悪の場合、死亡もあり得るのである。しかし、ヨシエによって、彼は損害を受けることはなかった。

 既に1人を殺しているヨシエではあるものの、-勿論、今回は殺意はないとはいえ―2人目を殺す、ということにはならなかった。ヨシエとしては、憎んでもいない相手を殺さずに済んだことは、心中にちょっとした解放感をもたらすものがあった。

 尉官が言った。

 「お疲れ様です、同志少佐。本日の演習はこれで終わりです」

 ヨシエはこの言葉によって、緊張がほどけ、1日の疲れがどっと出た感があった。しかし、この状況がまだしばらく続くのである。

 興奮冷めやらぬ状態の中、ヨシエは思った。

 「任地では、どんなことが、どんな状態で待っているのかしら?」

 ソ連という巨大な歯車の下にいるヨシエには、まだ、知りえないことだった。しかし、巨大な歯車の中の優秀な一員でなければならないことは確かであった。

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