第7話 作戦開始

7-1 面談

 ヨシエはいつもの如く、軍、KGB将校等への日本語教師をしつつ、ルビヤンカのKGB本部に出勤していた。ロシア語の資料に取り組みつつも、日々を忙しく過ごしていた。

 本日もKGB本部に出勤である。

 「おはようございます、同志少佐」

 いつもの「同僚」タチアーナの挨拶を受け、

 「おはようございます、同志中尉」

 ヨシエも返した。今朝もいつもの席である。

 「同志少佐、カピッツァ大佐がお呼びです。午後1時頃に、このKGB本部内での大佐の部屋に来るように、とのことでした」

 「了解です、同志中尉」

 何があるのだろうか。おそらくは、先日の

 「対日工作」

 についての指示だろう。ヨシエは傍らの壁の時計を見た。

 「午前9時半」

 であった。

 カピッツァの部屋に行くまでまだ、かなり時間がある。今日もそれまで、いつも通りの作業である。

 その後、資料と格闘し続けたヨシエではあったものの、昼食の後、自身の職場に戻って、改めて先程の時計を見ると、

 「午後0時半」

 となっていた。

 「さてと」

 ヨシエは机上の書類を片付けると、席から立ち上がった。

 「私も同行します、同志少佐」

 タチアーナが言い、彼女も席から立ち上がった。

 勿論、かなり慣れてきたとはいえ、まだ、ヨシエのロシア語には不十分なところもある。タチアーナが同行してくれることは、指示等を正確に受け取るにはありがたいことである。同時にお目付け役なのだろうが、タチアーナがいようといまいと、KGB本部内での不用意な発言、失言等はどの場所でもはばかられることであり、その意味では、今の時点で、タチアーナが

 「お目付け役」

 か否かは、問題ではなかった。

 ただ、それでも、タチアーナは、カピッツァからの指示等にどのように反応するか等を観察し、それは、ヨシエの今後の人事等に影響するかもしれない。この点は注意が必要であろう。

 女学校中退のヨシエが、それでも、ロシア語を比較的早く、習得できたのは、ソ連体制への

 「忠誠」

 故にであり、ソ連という巨大な歯車の一員たる故にであることは、常に忘れてはいけないことであった。タチアーナはそれを象徴する具体的存在であった。

 「さ、それじゃ、行きましょう。同志中尉」

 ヨシエはタチアーナを連れ、カピッツァの部屋へと向かった。

 KGB本部本部内の廊下を暫く歩き、2人はカピッツァの部屋の前に着いた。ヨシエは扉をノックし、

 「同志大佐、私、クラモト少佐、ならびに、同志アウエーゾフ中尉、参りました」

 「どうぞ」

 中から声がするのを確認してから、ヨシエは扉を開いた。

 この部屋でも、各職員がメモをしたり、タイプライターで何等かの資料等を作成したり、或いは、ところどころのデスク上で電話に応対する等、忙しく、各々の作業をしていた。

 「お呼びでしょうか、同志大佐」

 「うむ、こちらに座ってくれ」

 2人は部屋を進み、カピッツァのデスクの前で用意された2人分の椅子に、それぞれ座った。椅子が2人分ある、ということは、最初からタチアーナの同行が予定されていたのであろう。

 タチアーナが同行したのは、やはり、ロシア語での指示を正確に受け取るべく、通訳を必要としているのだろうか。

 「ロシア語には、かなり慣れてきたようだね、同志クラモト少佐」

 ヨシエは遠慮がちに言った。

 「いえ、まだまだです。ここではこちらの同志中尉が助けてくれていて、助かっています」。

 タチアーナへの感謝とねぎらいの言葉であると同時に、

 「お目付け役」

 の機嫌を損ねないように、というヨシエなりの

 「予防線」

とでも言うべき配慮でもあった。

 「うむ」

 カピッツァは、一言、言うと、

 「1956年だね」

 と、先日と同じ台詞を口にした。言うまでもなく、本年は、「ソ日(日ソ)中立条約」の失効年である。

 「さて」

 カピッツァは続けた。

 「同志スターリンは、わがソ連邦の東方での勝利を見ないまま、逝去した」

 大連で、アナスタシアと「面会」した時と同様、カピッツアの背後の壁には、レーニンの他、スターリンの肖像画が掲げてある。大日本帝国における御真影同様、レーニンとスターリンは、ソ連邦というこの国、或いは体制の精神的中心のようなものである。

 現実に、そのソ連をまとめて来たスターリンという存在としても、東西双方の敵を除去するには至らなかったのであった。

 或いは、日本で言うように、

 「二兎を追うもの、一兎をも得ず」

 なので、とりあえず、ソ連にとっての西の脅威であったナチを壊滅させただけでも良かったのかもしれない。

 ヨシエは頭上でそんなことを考えていた。

 「西からの脅威は又、新たなものが出て来ている」

 「?」

 ヨシエは、何のことか理解できなかったものの、隣席にタチアーナは既に理解していたようであった。


7-2 新たな脅威

 カピッツァは、言った。

 「ソ連邦は、東欧からナチを駆逐し、東欧を解放した」

 そのことは、ヨシエも、ロシア語の学習、KGBでの資料確認等で、一応は理解していたつもりであった。

 「しかしね」

 カピッツァの続く言葉は、ソ連の西方、則ち、東欧の情況を説明した。

 「ポーランド、ハンガリー等の農業が盛んな国では、ソ連型の農業運営に反発が起こり、場合によっては反ソ暴動等が起こる可能性がある」

 カピッツァは、東欧方面の地図を拡げた。

 「こうした状況の下、東欧各国での日本大使館等を通して、日本が反ソ工作を焚き付けようとしている、という情報が入ってきている」

 ヨシエは、より正確に、状況の説明を受けるため、タチアーナに通訳を求めた。

 「分かりました」

 タチアーナはロシア語で、

 「同志大佐、更なる状況の説明を願います」

 と求め、

 「うむ」

 と一言、言うと、カピッツァは説明を続けた。

 「大日本帝国と大東亜共栄圏は、大いに拡張したものの、既に限界に達したようだ」

 それは、ヨシエにとって、全く理解し得るものであった。篠原家とその下での苦しい生活を続ける小作農、そして、「三田商店」の実態等、これまでに、現実が既に、ヨシエへ具体的に現状を示していた。

 「大東亜共栄圏の各地では、拡大した領域の維持のために、各地で日本軍は大軍を駐留させてはいるものの、その維持費のみでも、かなりの負担だ」

 故に、「中心」であるはずの日本の内地が「周辺」と化しているのである。これもヨシエが具体的に見てきた通りである。

 「そういう次第なので、日本軍の主力は『大東亜共栄圏』各地に分散し、却って、内地が手薄だ」

 タチアーナの通訳を通したカピッツァの説明を聞きつつ、そこに自身の過去を重複させていたヨシエではあった。 

 しかし、

 「対日工作」

 の内容とは、具体的にどのようなものなのだろうか。

 「この状況で、例えば、赤軍(ソ連軍)が、日本本土の日本海側の都市、例えば、新潟等に上陸できれば、一挙に大日本帝国に大打撃を与えることができるかもしれない」

 そのように説明した上で、

 「日本軍の戦車は、おそらく、多くが赤軍の新鋭戦車たるT54、T55には敵わないだろう」

 と軍事的現実についての予測を語った。

 故に、日本側としては、中立条約失効の本年、ソ連は大いなる脅威と化するのであった。逆に、ソ連にとっては、大いなる軍事的好機であった。

 「非常時」

 が

 「常時」

 と化した日本国内では

 「社会」

 の側の苦しみが鬱積した不満となり、場合によっては、何らかの形で引火、爆発の可能性もあろう。これも、ソ連にとっては、極東戦略を進めるための戦術として、使用し得る可能性があった。

 東京の駐日ソ連大使館からは、帝都・東京でさえも、陰鬱な状況になっていることが報告されて来ていた。

 夜間に街灯が消灯され、路面電車の本数は減り、バス、タクシーは木炭での非能率燃料、故に、多くの場合、交通手段としては、一部の例外―軍、政府等―を除けば、自転車が主力になっている等である。

 こんな状況では、日本は最早、対ソ戦を戦えないだろう。ソ連軍が新潟に上陸したら、日本側は、阻止できないかもしれない。

 故に、日本側としては、東欧諸国で反ソ暴動等を焚き付け、政府として、改めて、

 「ソ連の脅威」

 「『赤魔』の侵略」

 等の反ソ感情をあおり、内地という日本の

 「社会」

 の反ソ感情を掻き立てる他、ソ連を背後から攪乱する等して、出来るだけ、ソ連を軍事的に弱体化させる必要性に駆られていた。

 おそらく、日本側としては、ソ連軍が上陸し、親ソ政権が樹立された場合、

 「農地解放、大土地所有制解体」

 「資本家追放、工場を労働者へ」

 「男女平等、人権擁護」

 等、それこそ、

 「社会」

 の現実に根差したスローガンが掲げられれば、内容空疎となっている

 「大日本帝国」

 が見棄てられ、そこを起点に、全日本の既存体制が崩壊していくかもしれない可能性を感じ取っているのかもしれない。

 ヨシエの具体的経験からしても、1956年(昭和31年)現在、日本側の既存権力にとって、全くの杞憂とは言えないであろう。

 逆にソ連側からすれば、反ソ暴動等をなるべく未然に防ぎ、極東戦略へのマイナスを抑え込む必要があった。

 加えて、この背後には、米国CIAの影があった。現在、大東亜共栄圏に編入されている多くの地域、国々では、日本本土と同様、大土地所有制になっている例も多い。

 故に、ソ連の支援で、日本での「農地解放」等の改革等が成功した場合、東南アジア等の多くの国々、地域が刺激されて、親ソ的になるという懸念が米国にはあった。

 そうした状況の下、CIAはオーストリア経由で、ハンガリー人民共和国に米ドル等を持ち込み、反ソ勢力を支援する動きを見せているようであった。

 日-米は交戦国である。しかし、反ソ、反共という立場では、両者の利害は、両国の存亡という極めて本質的な意味で一致しているのであった。

 故に、ヨシエに求められているのは、日米合作と思われるハンガリーでの反ソ工作の破壊であった。


7-3 変身

 一通りの説明を受けたヨシエは言った。

 「それで、同志大佐、私はどのように動くべきなのでしょうか?」

 「うむ、同志クラモトには、朝鮮人・朴玉麗に扮し、ハンガリーの日本大使館に先入してもらう」

 朴玉麗は、今日なお、日本領である朝鮮北部出身の女性であった。ある時、漁船に乗っている時、嵐でソ連沿岸部に流れ着き、その後は朝鮮に戻らず、ソ連極東部の某所で暮らしているのだという。

 カピッツアは、机上に一冊のパスポートを取り出した。表紙には

 「大日本帝国」

 とあり、なにかしら古ぼけていた。本物のパスポートらしい。カピッツアのすすめに従い、開いてみると、顔写真のみはヨシエのそれになっていた。

 ソ連国籍となり、事実上、日本国籍を放棄してから、日本のパスポートを手にするという思いがけないこととなった。

 日本のパスポート内の自信の顔写真を眺めているヨシエに向かって、カピッツアは言った。

 「同志クラモト、君の任務は今、言ったように、ハンガリーでの反ソ組織の攪乱と、出来れば、その背後の日米両国の動きも探ってもらいたい」

 いきなり、かなりの大役である。可能だろうか?更に、どのように、日本大使館に潜入するのか?

 「君には、ソ連からの亡命者、という形で、詳細については、こちらの同志アウエーゾフ中尉に説明を受けるように。以上、解散」

 カピッツアのの言葉を受けて、ヨシエとタチアーナは椅子から立ち、部屋を出た。

 ヨシエは、本来の職場に戻るのかを思ったものの、タチアーナは、ヨシエを別室に連れた。どうも、何かの資料室である。

 「お疲れ様ですした、同志少佐」

 タチアーナは日本語で言い、資料室の一隅の椅子と机に座るようにすすめ、自身もヨシエに隣り合って座った。

 ヨシエは問うた。

 「私は朴玉麗として、どのように動けばよいのかしら?」

 「貴女は日本領・朝鮮からソ連に亡命したものの、粛清の危険を感じて、ソ連からやむなく、日本領に戻ろうとしているという立場になっていただきます」

 またしても、

 「粛清」

 という言葉が出て来た。作戦に失敗したら、ヨシエ自身が現実の世界で粛清されるかもしれない。

 「粛清」

 は日本時代からドジだったヨシエを厳しく律している存在であった。どこまでも、

 

・「ソ連」体制=「ヨシエ」個人


という恒等式が存在していた。

 タチアーナが続けた。

「作戦遂行時には、先程、同志大佐が言っていた新鋭戦車T54、T55型についての資料をお渡しします。本物の新鋭戦車の資料があれば、あちらも同志少佐を本物の亡命者として、信用するでしょうし、油断するでしょう」

「でも、新鋭戦車の情報なんて、漏らしてよいのかしら?」

「軍事作戦同様に重要な作戦です。仕方ありません。それに、新鋭戦車T54、T55型についての情報が日本側に伝われば、日本軍、特に陸軍にとっては何等かの心理的圧力になりうるかもしれません」

 装備も然程、更新されず、食料も不足が言われ始めている日本帝国陸軍である。抵抗不能かもしれない敵の存在は、何らかの形で、日本側の戦意を削ぐかもしれない。

 更にタチアーナが続けた。

 「同志少佐には、来週から日本語教師の他、軍の練兵場での射撃、自動車運転の訓練が用意されています」

 「了解、同志中尉」

 「同志少佐、ロシア語はかなり上達していますね。今後も頑張ってください」

 日本語の

 「ください」

 は丁寧語(敬語)である。しかし、丁寧語には、「上」⇒「下」の命令の意味合いもある。

 タチアーナの今の言葉はソ連という巨大な歯車からのヨシエへの指示であったかもしれない。

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