第6話 KGB本部
6-1 資料との格闘
「おはようございます、同志少佐」
「おはようございます、同志中尉」
ヨシエは、カピッツァに言われたように、定期的に、軍、KGB将校に日本語を教える仕事をしつつも、ルビヤンカのKGB本部での勤務にもなっていた。
中尉たるタチアーナは、ヨシエの下での対日謀略工作係である。彼女もアジア系なので、顔つき、体格からしても、対日工作にはある種、適した人材だった。
タチアーナは、ヨシエ同様、流暢に日本語ができる人材であった。しかし、対日工作については、元・日本人のヨシエの方が、言語、習慣等に精通しているという面では、やはり、適した人材なのであろう。
とはいえ、ロシア語の能力がまだ十分ではない部分もあるヨシエは、書類の作成、または読解には、不慣れなところが、まだあるのである。そのため、日露両国語に、ヨシエよりも理解のある助手が必要だったのである。
先日、カピッツァから聞いたところによると、東欧諸国では、戦後、ナチから解放されたものの、農業集団化への不満、ソ連軍駐留費の支払い等によって、人々の不満が高まっていること、そこに、米国、CIAのエージェントが付け込もうとしている等であった。
KGBという巨大な組織の1つの歯車であるヨシエであるものの、日本時代にたどたどしい英語を身につけただけで、米国とどのように渡り合うのか?現在のヨシエには分からぬものの、とりあえず、与えられた書類を読み込むのが、現時点でのヨシエの仕事であった。
とはいうものの、まだ、時々、辞書を引きつつの作業である。何か、苦しむ中で、他事を考えたくもなる。その点は、零戦製造工場の時と性格的に変わっていないようである。性格は容易に変わるものではないであろう。
近くの席にいたタチアーナからの日本語が届いた。
「どうされました?同志少佐」
「え、あ、いえ、何でもないの」
日本語で声をかけられたので、ヨシエも思わず、日本語で返した。
「いけない、いけない、資料に集中しましょう」
中尉のタチアーナは、先日の日本語学校での講義時から、お目付け役であったであろう。赤軍(ソ連軍)中尉であった時のキムと同じ立場なのであろう。故に、
「大ドジをしたら・・・・・」
無論、
「粛清」
が待っているに違いないのであった。
かつて、女学校時代、対ロシア戦に備え、厳寒期に、青森の八甲田山を陸軍兵が雪中行軍を行った結果、大勢の凍死者が出た他、凍傷で手足を切断した兵が大勢出た、という話を聞いたことがある。
その時の教師は、この話を
「皇国を守る皇軍将兵は、これだけの根性で頑張ったのだ。それをお前等、昭和の婦女子どもは」
という精神論で、というより、精神論の正当化のために語ったのであった。
ヨシエとて、雪にはある程度、慣れてはいるものの、
「手足の切断」
と聞けば、流石に、顔色が青くなり、半ば、血の気が引くものを持たざるを得なかった。
対ロシア戦に備えて雪中行軍がなされた青森県よりも、そのロシア(ソ連)のシベリアはさらに北である。粛清された多くの人々がこの地域に送り込まれていた。粛清などされれば、ヨシエ自身がシベリアの地で、雪中行軍の兵士のように
「手足切断」
といった事態にもなりかねない。
KGBの仕事の1つは、実際に
「粛清」
であり、
「反革命派(反体制派)」
を、シベリア送りにすることである。
それらの事を思えば、まさにぼんやりしている場合ではなかろう。
「危ない、危ない」
ヨシエは内心でつぶやくと、机上の資料に戻った。
「さっきから、どうしました?同志少佐」
再び、タチアーナが日本語で話しかけて来た。
6-2 会話
「え?あ、はい」
またも、日本語で話しかけられたヨシエは、再び日本語で返した。
「そろそろ、お昼ですね、同志少佐。お昼に行きましょうか」
タチアーナはロシア語で話しかけた。タチアーナはヨシエに注意喚起する時には日本語を使い、それ以外の時はお目付け役、或いは謀略将校として、才能のある才女のようである。
「そうね、同志中尉」
ヨシエもロシア語で返した。
自由市場等での買い物、地下鉄での乗り降り等、日常生活でのロシア語の必要性、そして、ドジとはいえ、或いは、ドジ故に、
「粛清」
というある種の恐怖に追い立てられ、同時に、現在の豊かな生活を失いたくはない、というある種の人間としての当然の願望故に、ヨシエは、30歳を過ぎたこれまでの人生の中で、これまでになく頑張っていた。それ故に、ロシア語もかなり、上達して来ているようであった。
食堂で席に着くと、ヨシエは、自身も努力しているという事を具体的に示そうとしたのか、ロシア語でタチアーナに話しかけた。
「同志アウェーゾフ中尉は、中央アジアの出身ね。また、どうして、日本語将校に?」
「何か、日本について、知ってみたい、と思ったんです。帝政時代の露日戦争の時、帝政が大打撃を受けました。スイス亡命中だった同志レーニンは、『旅順陥落は帝政陥落の序章である』って言いました。その後、十月革命があって、今の私たちがあります。だから、革命の火種となった日本について、知りたいと思いました」
ヨシエは、先程、自分が、日本陸軍の雪中行軍について思っていたことを思い出した。何かしら、2人の間に共通のものがあるのかもしれなかった。
「そう。日本については、どのように教わったのかしら?」
タチアーナは答えた。
「労働者や農民が抑圧され、搾取されている国と聞きました」
その通りだった。
1942年(昭和17年)、事実上の大東亜戦争戦勝国となった日本ではあった。それ以前、日本の政府、軍部のスローガンとして、
「欲しがりません、勝つまでは」
という標語が、ポスター等の形で、街のあちこちで見られた。しかし、勝利後も
「欲しがりません」
の状況が続いていた。
「勝利」
の後、スローガンの標語は、
「大東亜共栄圏護持」
等に変えられていたものの、
「社会」
にとっては、実際の情況は何も変わっていなかった。又、壁にペンキで書かれた
「大東亜共栄圏護持」
のスローガン等は、
「欲しがりません、勝つまでは」
のスローガンが消された上に、上書きされている例も多い。戦勝後の
「戦後」
も戦前、戦中と同じ、
「欲しがりません」
が上書きされ、継続されているのを市民に対し、具体的に示しているようなものであった。
引き続き、周辺諸国と対立し、戦後も、
「欲しがりません、大東亜共栄圏護持のため」
といった状態であった。
「欲しがります、勝ったので」
の状態にするためには、米、英、ソ、中華民国等、周囲の敵を全滅に追いやらねばならないだろう。しかし、現時点での
「大東亜共栄圏護持」
が精一杯であり、最早、自己目的化した
「大東亜共栄圏護持」
の現状に、
「敵の全滅」
は全くの妄論であった。会話の中、タチアーナが続けた。
「でも、私、日本の和服とか、浴衣なんかが好きなんです。色柄がきれいで」
確かに、日本には、和装、浴衣等の良き伝統文化も存在している。そうした良き伝統文化も、
「大東亜共栄圏護持」
のスローガンの下、資源の使用は軍優先といった状況の下、原材料は殆ど入手できない状況であった。原材料が入手できないのは「三田商店」だけの苦しみではなかった。
その意味では、
「良き伝統文化」
は
「存在している」
というよりも、過去、
「存在していた」
というべき状況にあった。
「勝利」
以降、
「中心」
であるはずにもかわらず、既に、
「大東亜共栄圏」
の
「周辺」
と化した内地(日本本土)の
「社会」
では、モンペよりはまともと言えるかもしれないスカート姿も見られるには見られるものの、おしゃれを楽しむ余裕等は消えてしまっていたのが現実である。
以上のように、ヨシエは、タチアーナに説明した。これらは、日本語教室で、軍、KGB将校等に説明した講義内容とも重複したものでもあった。
「日本は、貴女の言ったように、一般の労働者は農民は搾取されていて、もう、楽しみや余裕なんかないわよ。伝統文化というべきお祭りなんかも、材料はないし、普段から、食糧もないから、もてなしもできないし」
ヨシエの故郷でも、村祭りがあり、幼かった頃、親に連れられて、遊びに行った記憶もある。しかし、現在はどうなっているのだろうか。今しがた、タチアーナに説明した事情によって、既に開かれていないのかもしれない。
タチアーナに説明した
「窮乏化」
と言うべき事情は、単なるテキスト上の理論的な文字上の話ではない。ヨシエ自身の実体験である。
タチアーナはヨシエの話に何かしら、圧倒されたような表情であった。
ヨシエのその口調には、実体験故の独特の
「迫力」
というか、ある種の強い
「説得力」
のようなものがあったからであろう。ヨシエは続けた。
「帝国主義圏の文化にあこがれていたら、ブルジョワ的退廃になってしまうわよ」
タチアーナに向かって言った言葉である。しかし、ヨシエとしては、自分自身のドジぶり故に、何かの形で、口を滑らすのが怖かったのである。この台詞は自分自身への戒めでもあった。
「さ、もう行きましょう。午後の仕事時間が近いわよ」
「はい、同志少佐」
2人は食堂を出た。
6-3 帰路
その日、昼食後も定時迄、ロシア語資料の読み込みに追われていたヨシエであった。午後6時頃、ルビヤンカのKGB本部を出ると、いつものごとく、地下鉄を乗り継いで、帰宅の途についた。
地下鉄車内で、ヨシエは窓を背にシートに座り、ロシア語の本を読んでいた。ヨシエなりの出退勤時の有効な時間使用法である。
彼女の乗る地下鉄が、ある駅に着いた時、
「同志クラモト少佐」
という若い男性の声がかかった。以前、日本語教室でヨシエに話しかけて来た少佐・アレクセイ=クツーゾネフであった。
「奇遇ですね、同志少佐」
アレクセイは、日本語の勉強の成果を試したかったのか、日本語で話しかけて来た。
「あら、奇遇ね」
日本語で話しかけられ、タチアーナに日本語で話しかけられた時同様、日本語で返した。
「何、読んでいるんです?同志少佐?」
「見ての通り、ロシア語の本よ。早くロシア語に慣れたいと思って、勉強しています」
ヨシエは少し、腰をずらし、自身のわきにアレクセイのための席を空け、彼のための便宜を図った。
「ありがとうございます、同志少佐」
礼を言って、アレクセイは腰を下ろした。軍とKGBという別所属とはいえ、同階級なので、親しみやすいものがあるのかもしれない。
「どういたしまして」
ヨシエはアレクセイに返礼すると言った。
「確か、シベリアのご出身だったかしら」
「はい、シベリア系のアジア系民族の血も入っています」
ルビヤンカのKGB本部では、
「シベリア」
は、ヨシエにとって、恐怖の言葉であった。
ヨシエはアレクセイに問うた。
「今頃、シベリアはとても寒いのでしょう」
「ええ、とても寒いです。雪も降るし、地面は凍るし、気温は当然、氷点下の毎日です」
やはり、
「シベリア」
は酷寒の地であり、粛清されれば、KGB本部での勤務中に思ったような事態になるであろう。
アレクセイが続けた。
「しかし、夏はとても暑いです。気温は30度を超すのが当然です」
これまた、大変な気候である。しかし、30度なら、日本でもよくあるので、夏は気にならないかもしれない。
「確か、貴方の御家族は帝政時代には小作人だったのよね。今もご実家は農業をされているのかしら?」
「はい、ただし、今では党の指導の下にコルホーズの一員です。ただ、最近、同じく党の方針転換も有り、自留地もあり、そこで家庭菜園もしているんですね」
「そこで採れた食材を一過で食べるの?」
「はい、皆で囲む食卓は、すごく美味しいんだ」
ヨシエには、母・初子や父と楽しく囲炉裏を囲んだ記憶はほとんどない。明治以来の大土地所有制の下、収穫の多くを搾取されているので当然のことだった。
「農作業を頑張っているのに、報われない」
両親の押し黙った表情はそうした苦しみが表情に現れたものに違いなかった。
ヨシエがまともに、日々、米飯を口にできるようなったのは、零戦製造工場に労働者として、勤務するようになってからのことである。その後、山村、篠原両家にて、米飯を食することはできるようになったものの、それは
「地主」
というまさに、タチアーナにも言った
「ブルジョワ」
による退廃体制によるおすそ分けでしかなかった。
アレクセイによると、彼の実家では、自留地で採れた小麦粉によるパン、野菜のスープ、肉類、ジャム等を皆で囲むのだという。
それは、ヨシエが今まで一度も楽しめたことのない生活だと言っても良かった。
ヨシエは、これまで、暖かい家庭が楽しめなかった、という悔しさ、自身の手ではどうしようもならなかった理不尽さに対し、何かしら、ふつふつと怒りが湧き、又、悲しさから、涙が出そうになった。
しかし、同時に、地下鉄車内にて、職務以外の話ができたところで、アレクセイと話せたことで、心中が少々、暖かくなったようであった。
ヨシエは自身の下車駅に着いたので、アレクセイに、
「じゃ、またね」
と何か、友人か恋人のように言い、下車した。アレクセイも返答して、見送ってくれた。
自宅に戻ったヨシエは、暖房をつけた。1月のモスクワは厳寒であるものの、親しい会話は暖房器具以上に、ヨシエを暖めてくれたかもしれなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます