第5話 1956年
5-1 日本語教師
「みなさん、おはようございます」
「おはようございます」
ヨシエは、まだ、いくらか、たどたどしいロシア語で挨拶した後、改めて日本語で挨拶した。
年は明けて、1956年1月となった。ヨシエも日本語教師として、初出勤となった。
ヨシエは、KGB少佐として、将校用軍服を支給されており、初めて着る軍服であった。
「少佐」
という階級をつけ、教壇に立ったものの、教壇から多くの人々に何かを教えるというのは、全く初めての事であった。
多くの目、顔がヨシエの方に集中している。将来的に対日作戦にて、現場に立つのは、尉官級の将校、つまり、かつてのヨシエと同じような階級を持つ者が多いであろう。彼等、彼女等より高い階級である佐官であるヨシエが、それこそ、彼等、彼女等の前でおどおどしていてはいけないのである。
教室に参加している受講者たちには、白人、つまり、ロシア人等、欧米系の人種のみならず、アジア系の顔ぶれも少なくない。さすが、多民族国家・ソ連邦である。
ソ連は、世界共産革命を目指して、1917年11月7日(露歴10月25日)の十月革命によって、まず、当時の首都・ぺトログラードにて、ソビエト政権として成立し、1922年12月30日、その後の首都・モスクワで、正式にソビエト社会主義共和国連邦として成立したのである。
「世界革命」
以前に、ソ連邦そのものがある種の
「世界」
であった。日本をはじめ、周辺各国、地域への作戦のための人材の確保には事欠かないようであった。
ヨシエは、彼等、彼女等を一人前の戦力にする教育の一翼を担っている。その遂行こそが、まずは、自身と一体化しているソ連への貢献であるはずである。
今日の受講者の多くは、まだ、日本語については全くの素人である、と聞いていた。挨拶から教えねばならず、又、漢字、仮名交じりの複雑な日本語表記のうち、まずは、ひらがな、カタカナから教える必要があると思われた。
「改めまして、皆さん、おはようございます」
とまず、朝の挨拶を繰り返した。その上で、黒板に掲げてある「仮名文字表」を白い指揮棒で指した。
「皆さん、私に続いてください」
とのヨシエの言葉が彼等、彼女等に理解できたかどうかは分からない。
しかし、日本語の勉強のための受講者である。表情の仮名文字を指せば、何を意味しているかは、大体、分かるであろう。
ヨシエは
「あ」
の文字を指揮棒で指しつつ、
「あ」
と発音してみせた。「あ」の文字の下には、キリル文字で、
「あ」
の発音であることが示されている。続く、
「い」
「う」
「え」
「お」
も同じである。
ヨシエの発音に続き、受講者の口から、一斉に、
「い」
の発音が続き、
「う」、「え」、「お」
という発音が続いた。
この日は、これらの発声練習によって、授業時間が終わった。ヨシエにとっては、
とりあえず、
「無事に終わった」
という状況であろうか。初の教師としての仕事であり、かなり緊張した。1月なのに、―教室の室内とはいえ―少しく、背中に汗をかいたようであった。
ヨシエは、教室から出る尉官級を中心とした学生等と共に、教室を出た。
受講生等の表情からは、彼等、彼女等が、どのように思っているかはわからない。しかし、ヨシエは、彼等、彼女等に対して責任があり、又、自身の
「解雇」
つまり、何らかの形での
「粛清」
がかかっているのかもしれないのである。ここでも、自分自身のための
「自己防衛戦」
を戦っているのであった。
「私自身もロシア語を持って勉強するとか、更に精進しないと」
ヨシエは心中で、自身を戒めつつ、その日の仕事を終えて、帰宅の途に就いたのであった。
5-2 更なる授業
ヨシエは、引き続き、自身でロシア語を勉強する等しつつ、尉官級を中心とする受講生等に日本語を教える教師の仕事を続けていた。
その日本語教室は、無論、単なる日本語教室ではない。対日作戦用の教室であり、当然、作戦遂行のためには、日本を理解することは、単なる日本語理解以上に必要な事であろう。故に、日本の習慣、さらには政治経済等の状況等をも説明することが極めて重要であった。
日本は明治以降、貧富の差が激しい社会である。ソ連圏国の理念たるマルクス主義(資本主義の打倒、社会主義⇒共産主義)が言うところの、労農階級―資本家・地主の階級対立を有する典型的資本主義国家であるとも言えた。
これらの問題については、ヨシエ自身も、日本語によって解説されたマルクス主義のテキスト、革命理論書を既に与えられることによって、一定の勉強をしてはいた。
女学校中退の学歴で、しかもドジなヨシエでも、何かの人生の重大事に追われる立場になれば、結構、懸命に頑張るもののようである。マルクス主義、或いは、それに基づくレーニン主義等の理論等をそれなりに理解するようになっていた。
貧富の差が激しい
「日本」
という
「社会」
において、労働者、農民といった抑圧されている人々を焚き付ければ、日本でも革命等が起こるような気がする。
「だけど」
とヨシエは思った。
日本には、天皇がおり、多くの学校には、ヨシエの通っていた小学校から女学校に至るまでの各学校がそうであったように、天皇の奉安殿がある。ヨシエが女学校に通っていた時も、やはり、奉安殿があり、非礼は許されないのであった。日本の
「社会」
は幼い頃からの教育によって、何となく、無意識に、このような思想、体制に支配され、無抵抗状態で、受容するのが当然であるような感があった。
しかし、1942年(昭和17年)、大東亜戦争での事実上の勝利をもたらしたこのような日本の
「思想、体制」
は、その勝利から既に14年も経過しているにもかかわらず、人々の生活は少しも良くならない。
「天皇(制)」
への社会の側からの価値観も何らかの形で変化しているかもしれない。
そのように思いつつ、ヨシエは今日の授業を準備して来ていた。
ちなみに、今日から、講義内容が複雑になるので、KGB女性将校・タチアーナ=アゥエーゾフ中尉が講義に詰まった時の通訳助手として、同行するようになっていた。講義中の内容を確認し、その内容が反ソ的でないか等も確認するお目付け役なのであろう。
ヨシエは受講者等に語り掛けた。
「皆さん、日本は味気ない国になってしまいました」
経済は半ば狂い、闇物資がはびこっていることがすれば、まさにその通りである。それでも、その状況を無理に正当化しようとして、マスコミは
「大東亜共栄圏の正当性」
を主張し、各寺院等では、
「大東亜共栄圏の末長い継承、存続」
を祈祷しているのだった。
それが日常の風景であった。しかし、その
「日常の風景」
をその枠組みの外側から見ると、何とも滑稽なものにも思えた。
ヨシエにとっては得るべき一定の現実というべき
「物質的生活」
というものを得るようになり、それなりの生活というか、所謂
「地に足がついた」
状況になったからであろう。
これらの事を踏まえれば、明治以降、近代化を目指してきたはずの日本は最早、神がかった迷信崇拝社会と化した感さえあった。
ヨシエは、講義を進めつつ、苦笑とも、或いは、物質的生活を満たせず、半ば、人間の
「社会」
というべき
「現実」
から、
「神」
の世界に逃避している元・祖国への嘲笑ともとれるような笑いを浮かべた。
受講者達は、ヨシエの表情に気づいたらしい。ある男性受講者が言った。
「同志少佐、どうされました?」
声をかけられたヨシエは我に返った。
「あ、ごめんなさい、ちょっとね」
「日本の現実、或いは現状は・・・・・」
元・日本人による1956年現在の、彼女自身の実体験をも踏まえての生講義というべき解説であった。
ヨシエは、自分なりに努力することによって、ロシア語の語学力が上昇してきてはいたものの、まだ不足は否めなかった。タチアーナの助けを得つつ、ロシア語と日本語のまじりあった講義を行ったのであった。
さて、そろそろ、今日も、講義終了の時間である。授業が終り、今日も受講者達が教室から出始めた。
ヨシエも、教室を出ようとしたところ、先の受講者が話しかけて来た。
「同志少佐」
「はい?」
ヨシエは、声の方を振り向いた。
5-3 出会い
「同志少佐、いつもありがとうございます」
彼は、思ったよりも流暢に日本語をしゃべった。
「いつも、お世話になっております。同志クラモト少佐」
「あなた、日本語がかなり上手ね」
彼は、多少、アジア系の顔立ちをしていた。
「お名前は?」
ヨシエは、彼に問うた。
「ウラジミール=クツーゾネフです」
「アジア系の方かしら?」
「はい、シベリア方面のアジア系民族です」
2人は教室を出て、2人で廊下を同じ方向に向かって歩き出した。
クツーゾネフは自分で語りだした。
「私は、軍の所属で少佐です」
ヨシエと同じ階級である。クツーゾネフが言うには、田舎の実家を出、自分なりの人生を拓こうとしているらしかった。帝政時代には、実家は、小作人であり、貧しかったものの、彼自身はソ連成立後、軍に入隊し、彼なりの人生を送っているとのことであった。
「帝政時代には小作人だったのね」
日本時代のヨシエと同じ身分である。クツーゾネフは、自分の祖国で新たな人生を歩んでいるのであった。
クツーゾネフにとっても、今が、一番、良い時代とのことである。
「同志少佐、これからもよろしくお願いします。じゃ、私はこれで」
そう言うと、ヨシエと別れた。
「これからもよろしく」
ヨシエもそう返し、クツーゾネフを見送った。
ヨシエは1人で歩きつつ、思った。
「ここソ連で暮らすようになってから、初めて、私的に話した相手だったわね」
そこに、教室を出た直後、分かれていたタチアーナが来て、話しかけた。
「同志少佐、同志カピッツァ大佐が呼んでいます」
カピッツァ大佐とは、ヨシエの上官になっているピーター=カピッツァ大佐のことである。
「了解、すぐに行きます」
ヨシエは、タチアーナと共にカピッツァ大佐の部屋へと向かった。
部屋の前で、戸をノックし、ヨシエは言った。
「お呼びでしょうか、同志大佐。同志アゥエーゾフ中尉と共に参りました」
「うむ、入ってくれ」
ヨシエが戸を開けて中に入ると、部屋の中で数人の将校がタイプを打つ等、事務作業を行っていた。
「同志少佐、いつも、日本語教師、お疲れさまだね」
カピッツァはヨシエをねぎらった。
「あ、いえ、ありがとうございます。同志大佐」
ヨシエは続けた。
「どうされましたか?同志大佐」
「うむ、今年は1956年だね」
いかにもその通りである。
「はい」
とりあえず、その通りなので、ヨシエの返答は月並みなものになったようであった。
「今年、日本とのソ日中立条約が期限切れになる」
既に、満州国ハイラル要塞外郭要塞の陥落、満州里を中心とした地域での中国共産党を中心とした親ソ政権が成立し、「ソ日中立条約」は、既に、半ば有名無実と化していた。
勿論、現場でその一翼を担ったのは当時、赤軍(ソ連軍)中尉であったヨシエその人である。
カピッツァは言った。
「対日作戦はいよいよ始まるだろう。但し、方角的には反対側の欧州方面であり、君に、その方面で動いてもらわねばならないんだが」
ヨシエは、いよいよ、世界レベルで何かしら、目に見えぬ歯車に、自身の人生を回される方向へと向かわされているのかもしれない。
カピッツァは言った。
「君はここで日本語教師をしつつ、ルビヤンカのKGB本部での作戦遂行のための作業に従事してもらいたい。場合によっては、ここでの日本語授業の担当時間は多少、減らされるかもしれない」
カピッツァによれば、
「作業」
とそれによる
「作戦」
とは、東欧、ことに、ハンガリーでの反ソ活動とそれに関連する日本の謀略への対処であった。
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