夢の国 【一話完結】
大枝 岳志
夢の国
この世界に一人ぼっちで生まれました。
取り上げられた感触も、そして、自ら発した産声も、私は何も覚えていないのです。
無意識のうちに突然始まったこの世界で、私はいつの間にか目を覚ましていたのでした。
私は狂うほどの光が満ちた通りの路地裏で、暗がりに身を潜めながら育ち、この世界を知りました。
およそ多くの人達が手にする未来は、ワゴンの中に幾つも積み重なっておりました。
ある時、教師が言いました。
「みんなの分もあるから、焦って並ばなくても大丈夫だ。怪我をしないように譲り合って並びなさい」
みんなが元気に返事をする中で、私はただ一人、木で造られた床を眺めておりました。
積み上げられた未来に手が届かないと思った訳ではありませんでした。寧ろ、周りに立つ光を浴びることに慣れた者達の、未来への羨望の眼差し、活気に満ちた嬌声が、ただただ、恐ろしかったのです。
目を瞑り、耳を塞ぎたくなりました。
そんな格好で立っていたならば、きっと目立ってしまう。そうすれば、未来を目の前にする者達の心に水を差してしまう気がしたのです。
なので、列に並ぶ者達の中からそっと抜け出し、部屋の片隅で未来を手にして行く者達の様子を見ておりました。
教師は言いました。みんなの分もあるから、と言いました。
ワゴンの前を注意して見てみると、多くの光を持つ者が先頭に立って積み上げられた未来を選別しておりました。僕はこれが良い。私はこれが良い。
そう言って、素晴らしいのであろう未来を手に列から離れて行きました。
すると、後に並ぶ者達が未来を選別する時間が長くなり、やがて教師の苛立つ声が部屋に響きました。
「あとはもうどれを取っても同じなんだから、早くしなさい!」
その声に、列に並ぶ者達は渋々と言った表情で未来を手にし、列を離れて行きました。
不思議なことに、列は一度も乱れることはありませんでした。
残り数人になると、ワゴンの中に何も残されていないことが発覚しました。
恐らく、先頭に立っていた者達が多くの未来を持って行ったようですが、教師は「また次があるから、さっさと戻りなさい」と彼らを急かしておりました。
私は、最後まで列に並んでいなかったことを叱責されました。皆んなの前で、こっぴどく叱られました。
何故、未来を欲しがらないのか。光を求めようとしないのか。約束されたものを否定するのか。
そんな風に、頭ごなしに叱られました。
その間、ずっと私は思っておりました。
未来を欲しがっていない訳ではない。光を求めようとしない訳ではない。約束を否定している訳でもないと、思っておりました。
挙句の果て、教師は
「おまえのような奴には未来はやらない。反省をしろ。皆んなの迷惑だ」
と、私に部屋から出て行くように命じました。
私は、言われた通りに部屋を出て行きました。
部屋のドアを閉めた途端、中からドッと大きな笑い声が起きました。
目を瞑り、耳を塞ぎながら帰りました。
とぼとぼと、帰りました。
追い出されたことが悲しかった訳ではなく、理解さえ示されないことに、泣きました。
そうしてのろのろと、とぼとぼと帰っているうちに、いつの間にか家の近くにたどり着いていたようです。
目を開けずとも、耳から手を離さずとも、ここが生まれた場所なのだと、匂いで分かりました。
慣れというのは、本当に不思議なものだと思いました。
一人でとぼとぼと歩いていると、耳を塞ぐ手を剥がされ、目を開けられ、「おい」と声を掛けられました。
相手は、私が生まれ育った暗い路地裏の住人でした。私はその人を、「オジサン」と呼んで親しい感情を持っておりました。オジサンは私の姿を見て笑い、こう言いました。
「目を瞑らなくたってここはもともと真っ暗だし、耳を塞いでいても、どうせ誰かの悲鳴は聞こえてくるぞ」
「うん、たしかにそうだね。でも、帰って来れて良かった」
「嫌なことがあったならとっとと寝るのが一番だ。寝れば、夢の国に行けるからな」
「夢の国?」
「なんだ、おまえは夢を見ないのか?」
「夢って、何?」
そう尋ねてみると、暗がりにオジサンの豪快な笑い声が響きました。お腹の底までビリビリするような、低くて大きな笑い声でした。
オジサンは笑い過ぎたのか、咳き込んでしまいました。
もう一度、「夢って、何?」と尋ねてみると、オジサンは言いました。
「人生と同じものだよ」
そうか、それなら別に見ることもないかな。
そんな風に思いながら、私は家路を急ぎました。
建てつけの悪くなった家の玄関を開けると、家全体が揺れました。
部屋の奥からは野菜か何かを煮込んでいる匂いがして来て、生まれた場所の匂いがそれなのだと、はっきりと自覚することが出来ました。
その晩は、よく眠れた気がしました。
しかし、眠れた気がしただけであって、それはもう遠い日の記憶なので、生まれた頃の記憶と同然、眠れたのかどうかは今となっては定かではありません。
今となってはベッドに横たわるだけの生活の中で、なぜか野菜を煮込むあの匂いが、鼻腔を掠めることがあるのです。
食事はここでは作られておりません。
食事はチューブに入ったものを、皆んな腹の横から入れたりしております。
それでも、あの匂いが私に生まれた場所の在処を伝えてくれているのです。
それはカゲロウの薄い命のように、微かなのです。
私は狂うほどの光が満ちた通りの路地裏で、暗がりに身を潜めながら育ち、この世界を知りました。
やがて閉じようとするこの世界を、生きました。
夢はただの一度も、見ませんでした。
夢の国 【一話完結】 大枝 岳志 @ooedatakeshi
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