第5話
怖いと思った。
この時初めてアメリーは、
彼は優美で完璧だった。体が密着するダンスの間も冷静に振舞い、一時の逸脱もなかった。彼の態度からは、アメリーへの仄かな恋心、否、女性としての彼女への関心さえ、全く感じられなかった。
ただ、祖父の希望通り彼女の気を引こうとしたに過ぎない。
スペインブルボンの血を引く、ナポリ王女でもある彼女は、単に結婚相手としてふさわしいというに過ぎないということなのか? 彼の子を産み、血を伝える媒介に過ぎない……つまり、アンギャン公にとっては、恋するに値しない相手なのだろうか。
なぜなら今ここに、彼が心から愛しているという女性がいる……。
「貴女は……、なぜそれを、私に?」
こんな寒空の下、恐らくリンツから、馬車で丸一日以上もの時間揺られて。
優美な目鼻が、少し大きくなった気がした。彼女が微笑んだのだとわかるまでに時間がかかった。
「王女さまをご安心させる為ですわ。わたくしにとって大切なのは、ただあの方の幸せであって、それ以上は何も求めはしません。むしろ、
雲間から薄く覗いていた太陽に、厚い雲がかかった。冷たい風が、屋上を吹き抜ける。
「けれど、あの方の愛は、わたくしのもの。これはもう、致し方のないことです。そこだけは、ご納得なさいませ」
凄まじいまでの信念だった。こんな風に自分が愛されていると自覚できるというその自信が、アメリーには恐ろしかった。
そしてそのような自信を彼女に与えてしまうアンギャン公に対し、得体のしれない恐怖を感じた。
遥かに年上の、美しいながら威厳さえ漂わせている女性に反論するには、アメリーの「愛」は、あまりに儚く未熟だった。
彼女のアンギャン公への気持ちは乙女の憧れに過ぎず、もしあったとしてもその愛は、芽吹いたともいえない状態だった。
それは、彼女にとって幸いなことだった。
なんとなれば、この年長の女性とアンギャン公の愛を競い合うには、人生はあまりに短く、その上、勝負には益がないからだ。
自分がこの女性に勝てるわけがないと、アメリーにははっきりわかった。
そして彼女が言うところの「ケルビム」……しかも件の天使は自分よりも十歳も年上だ……の愛を得ることがそれほど価値があることだとは、アメリーには到底思われなかった。
「貴女が一番気に入りましたわ」
どこまでアメリーの気持ちを見抜いたのか、女性がにっこりと微笑んだ。
「バーデンの姫君は、流されやすくご自分の意志をお持ちではありませんでした。ロシアの姫たちは父帝に怯え、まるで兄上(後のアレクサンドル一世。父の暗殺に加担し、即位した)の所有物のようであらせられました。でも、貴女は違う。さすが、フランス王妃の姪御さまでいらっしゃる」
フランス王妃。
処刑された
未だに彼女を「王妃」と呼ぶこの女性は、間違いなくフランス王党派の貴族……あるいは王族だろう。
「貴女さまは……」
アメリーが名を問おうとした時、屋上に侍女が姿を現した。見知らぬ女性と二人きりでいる主に、彼女は目を丸くした。
侍女の視線を浴び、女性は素早く身を翻した。
「ナポリ王女さまのご来臨とは知らず、失礼致しました。階下の人払いに気づかなかったのものですから」
「ご心配なさらず。人払いなんてしておりませんでしたことよ」
去ろうとする彼女を、アメリーは慌てて引き留めた。
「あの、お名前をお聞きしても?」
「いいえ、あのお方にご迷惑を掛けることはできませんから」
「愛人」が名を告げることが、迷惑になるというのか。
アメリーは怒りを感じた。
多情なアンギャン公へ対する怒りである。
アメリーの方へ向けて、女性が身をかがめた。彼女にだけ聞こえる声で囁く。
「わたくしはただ、あの方を愛し、愛されていればそれで幸せなのです。他に何もいりません。むしろ、人の前からは身を隠していたい。わたくしがあの方に捧げることができるものは、ただこの愛だけなのですから」
なんと気高い愛の発露だろう。こんな女性と争うなど、永遠に不可能だ。
とはいえ、彼女の「愛」に賛同する気にもなれなかった。相思相愛を前提にした「愛」は、あまりに不安定にアメリーには感じられたから。
だってこの女性は、アンギャン公よりも年上に見える。近い将来、自分の容貌が衰えた時、彼女はどうするつもりだろう。
やっぱり結婚は必要なのでは、と、アメリーは考える。どのような変化が訪れようとも、二人の「愛」を外側から守ってくれる制度は、頼もしくさえある。
ただし自分は、アンギャン公のような男性とは結ばれたくない。恋多き「ケルビム」、既に彼に身も心も捧げる愛人がいるような男性とは。
目の前にいる女性は、アメリーより遥かに年上にもかかわらず、とてつもなく世間知らずに感じられた。彼女が自信をもって、己の愛を貫こうとしているからだ。
筋金入りの令嬢なのだと、アメリーは思った。
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