第4話
フランス亡命貴族軍は、リンツに布陣していた。ウィーンとの距離はおよそ150キロ、馬で16時間半ほどの距離だ。
あの後、アンギャン公からは、丁寧な手紙が届いた。礼儀正しく綴られた手紙には、また是非、お会いしたいと述べられていた。
母は眉を顰め、けれど満更でもなさそうだった。アメリーの方は大喜びだった。同じように作法に則った返事を書き、リンツへ送った。
◇
ウィーン郊外のシェーンブルン宮殿には、大きな
しきたりだらけの堅苦しい宮廷に息苦しい思いをしていたアメリーはこの話に飛びついた。早速馬車で、郊外に向かった。
「
よく晴れた日だった。雪もあらかた解けており、すがすがしい空気が心地よく、アメリーは丘の上へ上ってみようという気まぐれを起こした。
小高い丘の上には、グロリエッテが静かに佇んでいた。長く続いた対プロイセン戦の戦没者を祀る建造物で、アメリーの祖母あたる女帝と、伯父ヨーゼフの名で建立されたものだ。端正なその姿が、足元の池に影を落としている。
丘の上には誰もいなかった。付き人に待機を命じ、アメリーは一人で屋上に昇った。そこは、ちょっとした広場のようになっていた。
子どもをたくさん産み、政務に励んだ祖母の姿は、そのまま母、マリア・カロリーナの姿でもあった。いずれ自分も、その道を行くのだろうか……。
「けれど、フランツ一世(女帝マリア=テレジアの夫)はお幸せであられたでしょうか」
誰もいないと思っていたのに、突然声を掛けられ、アメリーは飛び上がった。
地味なドレス姿の女性が立っていた。アメリーよりもかなり年上で、老成した大人の雰囲気を湛えている。それゆえ彼女は、したたかに優美だった。流れ落ちる金色の巻き毛、夢見るようなアンニュイな瞳、そしてこの年齢にあってなお、子どもらしさが印象的な口元。
自分に向けられた質問さえ忘れ、しばしの間、アメリーはその姿に見入ってしまった。
「アメリー王女殿下であられますね? お邪魔してごめんあそばせ。本日は庭園を一般公開しておりましたので」
細い、鈴を振るような声だった。幽かにフランス風のなまりがある。
シェーンブルンが公開されていることを、アメリー一行は知らなかった。寒さのせいで人がいなかったので、到着してからもわからなかったのだ。
するとこの女性は市井の女性?
そうであるとは思えなかった。あまりに気品があり過ぎる。身のこなしも言葉遣いも丁寧で、洗練されている。第一、彼女はイタリアから来たアメリーのことを知っている。高位の貴族か、ひょっとするとどこかの王族かもしれない。
アメリーは警戒を解いた。
それなのに続く言葉は、あまりに辛辣だった。
「フランツ一世には、あまた愛人がおられたと聞き及びますわ」
「貴女は祖父の祖母への神聖な夫婦愛をお疑いになるのですか?」
さすがに聞き捨てならなかった。
「いいえ。では、質問を変えましょう。子どもをたくさん産めば、妻は夫から愛されたことになりますか?」
……この女性の言うことに耳を傾けてはいけない。
本能が激しく警告を発した。しかしアメリーは、彼女から目をそらせることができなかった。
美しい瞳が、挑発するように彼女を見据えている。
「子どもをたくさん産むことは、ハプスブルク家の女性の義務です」
母から伝え聞いた言葉を、そのままアメリーは口に乗せた。
実際、姻戚関係を広げることによって、ハプスブルク家は版図を広げてきた。諸外国に娘を嫁がせ、また、姫を娶り、ヨーロッパに君臨してきた。
それに対する女性の反論はにべもないものだった。
「私は愛の話をしているのです。それは愛ではございませんわ」
「いったい、あなたの仰る愛とは、何なんです?」
「そのお方を思う気持ちです。心からお慕い申し上げ、御身の安全を配慮し、いつも身近に自らを置きたいという、強い気持ちの表れです」
「そうした気持ちの果てに、女性は子を宿すのではありませんか?」
少なくとも母はそう言っていた。だから子が多ければ多いほど、その妻は夫に愛されているのだ、と。
ふっくらとした唇が奇妙な形に歪んだ。はっきりと態度に出されたわけではないが、まるで自分が子ども扱いされたような不快をアメリーは敏感に感じ取った。
「愛とは、官能を通り抜けた彼方に待ち受ける、互いへの慈しみと思いやり、優しさなのですよ。それは時として、結婚さえも凌駕します。いえ、硬直した制度に縛られない分、愛人は彼から愛されるのです」
……彼?
その言葉が、アメリーの脳裏にこだました。ある予感が彼女の身内を駆け抜けた。
「貴女のおっしゃる彼って……」
女性はそれには答えなかった。
「わたくしはどこへでもあの方にご一緒しますわ。たとえそれが、戦火激しい戦場であっても、凍てつく酷寒の地であろうとも。わたくしはただ、疲れて帰って来たあの方をこの腕に抱きしめ、『
「しかしそれを、お相手の方は、求めておいででしょうか」
問いかけるアメリーの声は震えていた。
「あの方が、わたくしを呼ぶのでございますわ」
戦火の激しい戦場。それは、ライン河畔のドイツだ。
凍てつく酷寒の地。それは一時期、亡命貴族軍を養い、配下に置いていたロシア帝国のことだ。
そうして今、亡命貴族軍は、ここ、オーストリアに布陣している。
アメリーにはこの女性の正体がわかった。
アンギャン公の愛人だ。
よく考えれば、あれだけ魅力的な男性だ。恋愛経験が全くないなどということがあるはずがない。
恋する人の、自分より先行する恋愛に初めて思い至り、こうした経験に耐性のないアメリーはショックを受けた。
「けれど、王族にとって結婚は、王家と王家の間の契約であるはずです」
最後の抵抗だった。抵抗とはいえぬほど、か弱いものだったのだけれど。
果たして女性は泰然としていた。
「仰る通りですわ。身分のある方にとって、結婚は義務です。ましてや、古くから続いた、名誉ある家柄です。彼は、家を守らねばなりません。けれど、彼にだって、幸せになる権利がおありです。それならなぜ、真実の愛、永遠に続く無私の愛を捧げる女性を拒絶する必要がありましょう」
深い色を讃えた女性の目が揺らいだ気がした。
「幼い日から、彼はケルビムでした。愛の天使だったのです。女性を見ると愛を囁かずにはいられません。長じて剣を持ち、騎乗の人となった彼を、しかしわたくしは、愛さずにいられませんでした。その時に初めて、彼がケルビムであるならば彼の一番の愛人であろうと、純粋に彼を愛するだけの存在であろうと決意したのです」
するとこの女性は、アンギャン公が幼少のころから身近にいたことになる。少し年上の彼女は、彼の成長を見守り、長じて後、恐らく彼が祖国を亡命してから、身近な者への親しみが愛に変じたということか。
そしてその愛は、相互に通じ合っているというのか。
「貴女は、それで満足ですの? お相手の方が、他の女性と結婚してしまわれても、貴女には耐えられますの?」
このように尋ねたのは、アメリーには大変な勇気が必要だった。けれど、尋ねずにはいられなかった。
だって、もしこの推測が正しいのなら、自分は彼女から愛を奪うことにならないだろうか。
女性の返事には、ためらいはなかった。
「自分を大切に思うから、そのように感じるのです。相手が自分を蔑ろにしたと思い、絶望を感じるようでしたら、それは、本物の愛ではありません。その方の愛しているのは、自分自身ですわ。相手のことを何より先に考えるからこそ、愛は愛たりうるのです。それに……」
女性はいたずらっぽく微笑んだ。
「どこの女性を愛そうと、あの方は、わたくしを忘れたりなさいません。あの方は、甘えん坊なのです。それはもう、子どもの頃、そのままに。わたくしに甘えているからこそ、安心して他所の女性に目をお向けになるのですわ。だって、必ず、わたくしの許しが得られるとご存じなのですから」
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