第4話

 フランス亡命貴族軍は、リンツに布陣していた。ウィーンとの距離はおよそ150キロ、馬で16時間半ほどの距離だ。


 あの後、アンギャン公からは、丁寧な手紙が届いた。礼儀正しく綴られた手紙には、また是非、お会いしたいと述べられていた。

 母は眉を顰め、けれど満更でもなさそうだった。アメリーの方は大喜びだった。同じように作法に則った返事を書き、リンツへ送った。





 ウィーン郊外のシェーンブルン宮殿には、大きな温室オランジュリーがあり、季節外れの花々が咲いているという。そこには南国イタリアの花もあるらしい。

 しきたりだらけの堅苦しい宮廷に息苦しい思いをしていたアメリーはこの話に飛びついた。早速馬車で、郊外に向かった。


 「美しいシェーンブルン」の名を持つこの宮殿は、女帝マリア・テレジアの好んだ黄色を纏い、横に長く広がっていた。庭園が素晴らしいという。残念なことに冬のことで、花壇に咲き誇る花は見られなかったが。


 よく晴れた日だった。雪もあらかた解けており、すがすがしい空気が心地よく、アメリーは丘の上へ上ってみようという気まぐれを起こした。


 小高い丘の上には、グロリエッテが静かに佇んでいた。長く続いた対プロイセン戦の戦没者を祀る建造物で、アメリーの祖母あたる女帝と、伯父ヨーゼフの名で建立されたものだ。端正なその姿が、足元の池に影を落としている。


 丘の上には誰もいなかった。付き人に待機を命じ、アメリーは一人で屋上に昇った。そこは、ちょっとした広場のようになっていた。祖母の女帝マリア・テレジアはこのテラスを好み、コーヒーを運ばせたという。

 子どもをたくさん産み、政務に励んだ祖母の姿は、そのまま母、マリア・カロリーナの姿でもあった。いずれ自分も、その道を行くのだろうか……。



 「けれど、フランツ一世(女帝マリア=テレジアの夫)はお幸せであられたでしょうか」

 誰もいないと思っていたのに、突然声を掛けられ、アメリーは飛び上がった。


 地味なドレス姿の女性が立っていた。アメリーよりもかなり年上で、老成した大人の雰囲気を湛えている。それゆえ彼女は、したたかに優美だった。流れ落ちる金色の巻き毛、夢見るようなアンニュイな瞳、そしてこの年齢にあってなお、子どもらしさが印象的な口元。

 自分に向けられた質問さえ忘れ、しばしの間、アメリーはその姿に見入ってしまった。


「アメリー王女殿下であられますね? お邪魔してごめんあそばせ。本日は庭園を一般公開しておりましたので」

 細い、鈴を振るような声だった。幽かにフランス風のなまりがある。


 シェーンブルンが公開されていることを、アメリー一行は知らなかった。寒さのせいで人がいなかったので、到着してからもわからなかったのだ。

 するとこの女性は市井の女性?

 そうであるとは思えなかった。あまりに気品があり過ぎる。身のこなしも言葉遣いも丁寧で、洗練されている。第一、彼女はイタリアから来たアメリーのことを知っている。高位の貴族か、ひょっとするとどこかの王族かもしれない。


 アメリーは警戒を解いた。

 それなのに続く言葉は、あまりに辛辣だった。

「フランツ一世には、あまた愛人がおられたと聞き及びますわ」


「貴女は祖父の祖母への神聖な夫婦愛をお疑いになるのですか?」

さすがに聞き捨てならなかった。


「いいえ。では、質問を変えましょう。子どもをたくさん産めば、妻は夫から愛されたことになりますか?」


 ……この女性の言うことに耳を傾けてはいけない。

 本能が激しく警告を発した。しかしアメリーは、彼女から目をそらせることができなかった。

 美しい瞳が、挑発するように彼女を見据えている。


「子どもをたくさん産むことは、ハプスブルク家の女性の義務です」

 母から伝え聞いた言葉を、そのままアメリーは口に乗せた。

 実際、姻戚関係を広げることによって、ハプスブルク家は版図を広げてきた。諸外国に娘を嫁がせ、また、姫を娶り、ヨーロッパに君臨してきた。


 それに対する女性の反論はにべもないものだった。

「私は愛の話をしているのです。それは愛ではございませんわ」


「いったい、あなたの仰る愛とは、何なんです?」

「そのお方を思う気持ちです。心からお慕い申し上げ、御身の安全を配慮し、いつも身近に自らを置きたいという、強い気持ちの表れです」

「そうした気持ちの果てに、女性は子を宿すのではありませんか?」


 少なくとも母はそう言っていた。だから子が多ければ多いほど、その妻は夫に愛されているのだ、と。


 ふっくらとした唇が奇妙な形に歪んだ。はっきりと態度に出されたわけではないが、まるで自分が子ども扱いされたような不快をアメリーは敏感に感じ取った。


「愛とは、官能を通り抜けた彼方に待ち受ける、互いへの慈しみと思いやり、優しさなのですよ。それは時として、結婚さえも凌駕します。いえ、硬直した制度に縛られない分、愛人はから愛されるのです」


 ……


 その言葉が、アメリーの脳裏にこだました。ある予感が彼女の身内を駆け抜けた。

「貴女のおっしゃるって……」


女性はそれには答えなかった。

「わたくしはどこへでもあの方にご一緒しますわ。たとえそれが、戦火激しい戦場であっても、凍てつく酷寒の地であろうとも。わたくしはただ、疲れて帰って来たあの方をこの腕に抱きしめ、『愛しているje t'aime』と申し上げる為だけに、あの方の後を追って馬車を走らせるのです」


「しかしそれを、お相手の方は、求めておいででしょうか」

 問いかけるアメリーの声は震えていた。


「あの方が、わたくしを呼ぶのでございますわ」


 戦火の激しい戦場。それは、ライン河畔のドイツだ。

 凍てつく酷寒の地。それは一時期、亡命貴族軍を養い、配下に置いていたロシア帝国のことだ。

 そうして今、亡命貴族軍は、ここ、オーストリアに布陣している。


 アメリーにはこの女性の正体がわかった。

 アンギャン公の愛人だ。


 よく考えれば、あれだけ魅力的な男性だ。恋愛経験が全くないなどということがあるはずがない。


 恋する人の、自分より先行する恋愛に初めて思い至り、こうした経験に耐性のないアメリーはショックを受けた。


「けれど、王族にとって結婚は、王家と王家の間の契約であるはずです」


 最後の抵抗だった。抵抗とはいえぬほど、か弱いものだったのだけれど。

 果たして女性は泰然としていた。


「仰る通りですわ。身分のある方にとって、結婚は義務です。ましてや、古くから続いた、名誉ある家柄です。は、を守らねばなりません。けれど、にだって、幸せになる権利がおありです。それならなぜ、真実の愛、永遠に続く無私の愛を捧げる女性を拒絶する必要がありましょう」


 深い色を讃えた女性の目が揺らいだ気がした。


「幼い日から、はケルビムでした。愛の天使だったのです。女性を見ると愛を囁かずにはいられません。長じて剣を持ち、騎乗の人となったを、しかしわたくしは、愛さずにいられませんでした。その時に初めて、がケルビムであるならばの一番の愛人であろうと、純粋に彼を愛するだけの存在であろうと決意したのです」


 するとこの女性は、アンギャン公が幼少のころから身近にいたことになる。少し年上の彼女は、彼の成長を見守り、長じて後、恐らく彼が祖国を亡命してから、身近な者への親しみが愛に変じたということか。

 そしてその愛は、相互に通じ合っているというのか。


「貴女は、それで満足ですの? お相手の方が、他の女性と結婚してしまわれても、貴女には耐えられますの?」


 このように尋ねたのは、アメリーには大変な勇気が必要だった。けれど、尋ねずにはいられなかった。

 だって、もしこの推測が正しいのなら、自分は彼女から愛を奪うことにならないだろうか。


 女性の返事には、ためらいはなかった。

「自分を大切に思うから、そのように感じるのです。相手が自分を蔑ろにしたと思い、絶望を感じるようでしたら、それは、本物の愛ではありません。その方の愛しているのは、自分自身ですわ。相手のことを何より先に考えるからこそ、愛は愛たりうるのです。それに……」


女性はいたずらっぽく微笑んだ。

「どこの女性を愛そうと、あの方は、わたくしを忘れたりなさいません。あの方は、甘えん坊なのです。それはもう、子どもの頃、そのままに。わたくしに甘えているからこそ、





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