第3話

 優美な背中をうっとりと見送っているアメリーの傍らで、小さな舌打ちが聞こえた。全く貴婦人らしくないことだったが、舌打ちの主は、彼女の母だった。


「あり得ない。あり得ないことだわ!」

「お母さま。失礼よ。いったい何があり得ないというの?」


 思わず彼女は母を咎めた。

 ぎろりと母は、娘を睨みつける。


「コンデ大公よ。彼は、自分の孫と、お前との結婚を望んでいるのよ。バーデン伯とロシア皇帝に娘との縁組を断られたものだから!」

「……」


 予感していたことだった。それなのにアメリーには、全く実感が湧かない。あまりに嬉しかったせいかもしれない。まるで夢を見ているような現実感のなさだった。


「全くいけ好かない老爺だわ。いい年をして愛人モナコ公妃を同伴していて」

 吐き捨てるように言ってから、ふと、マリア・カロリーナは遠い目になった。

「けれど、孫の方は、そうでもなかったわね」


 そうでもないどころではないと、アメリーは思った。アンギャン公は、今まで彼女が見たこともないほど、気品に満ち溢れた、素敵な男性だった!


「何より、あの方たちは、マリー・アントワネットトワネットの仇を討とうとされているのだし」


 マリア・カロリーナの妹アントワネットは、オーストリアからブルボン家のルイ十六世に嫁いだ。そして、夫ともども断頭台にかけられ、殺された。

 それは、一歩違えばマリア・カロリーナ自身の運命だった。彼女のすぐ上の姉が、ナポリ王との結婚直前に急死したため、まるでドミノのように、彼女がイタリアへ嫁ぐことになったのだ。そして、彼女の妹、アントワネットがフランスへ嫁した。


 三つ違いのマリア・カロリーナとアントワネットは、きょうだいのうちでも最も仲の良い姉妹だった。


「ねえ、お母さま。なぜバーデン伯やロシア皇帝は、アンギャン公爵と御息女とのご結婚をお認めにならなかったの?」

 顔も知らない叔母の悲劇より、アメリーには、そこが気になった。


「ほんと、不思議よね。あれだけ魅力のある公子なのに。バーデン伯の御息女なんて、20歳も年上で子持ちのバイエルン侯に嫁がれたのよ(※1)! ロシアのパーヴェル皇帝も、お年頃の大公女たちがたくさんいらっしゃるのに、アンギャン公には目も向けられなかったし」


 もちろん、王族にとって結婚は、その領土を拡大し、王家に益を齎すことが何よりも重要なのは、アメリーも理解している。


 母がため息をついた。

「フランスの王族には、もはやそれだけの権威も魅力もないということなのかしら。ドイツから見放され、ロシアも手を引き、今はイギリスから扶持を得てやっとのことで軍を維持しているのだから」


 身に迫る危険に、王族や彼らに忠誠を誓う貴族たちは、ほぼ身一つで亡命した。国に残された彼らの財産は、革命政府に没収されてしまった。反政府軍を結成したものの、王弟軍やコンデ大公軍は、諸外国からの援助で軍の体裁を保っているのだ。


「だからコンデ大公にとっては、孫をヨーロッパの王族の娘と結婚させることが急務なのよ。それによって、暮らしが安定するし、軍を養うこともできる。幸いアンギャン公は、あの通りの美形だしね」

 ここで母は、人の悪そうな笑みを浮かべた。

「さっき貴女、彼をうっとりと眺めていたわね。ダンスしながらはしゃいじゃって。見ちゃいられなかったわ」


「はしゃいでなんかいません!」

 言い返しはしたが、アメリーは頬を赤らめた。アンギャン公への仄かな思慕は事実だったからだ。

「それにお母さま、コンデ家の方々と私達と、どう違うというの? お父さまは、スペインのブルボン家のご出身だし、一度はナポリ王の座を追われなさったわ! フランス革命政府軍によって!」


 すぐに王座は回復されたが、彼女の父、フェルディナンドは、ナポリに侵攻してきたフランス政府軍により、一時期、王座を追われている。

 コンデ家と自分たちは全く同じだと、アメリーは言いたかったのだ。その上、父を通して自分にも、ブルボン家の血が流れている。


 しかし母の考えは違う所にあったようだ。


「全く、民衆という者は度し難いものね。宗教や、神から王位を与えられた王族が、どれほど彼らを庇護してきたことか!」


 母は眉間の皺を揉んだ。

 すかさずアメリーは口を挟む。


「コンデ家の方々は、勇敢にも、王座を神から与えられし王にお返ししようと、戦っていらっしゃるのだわ」

 自分の言葉に、彼女は、胸がいっぱいになった。


 亡命貴族軍を率いてのコンデ家三代の公爵の戦いぶりは、従兄のヨーハンから聞き及んでいた。

 兄のカールに憧れて軍務の道を志したヨーハンは、フランス革命軍との戦闘に、非常な興味と関心を持っていた。


 ウィーン宮廷に到着したばかりのアメリーは、ヨーハンと同い年だ。その気安さからか、ヨーハンは、ドイツ方面でのオーストリア軍と亡命貴族軍との連携について、熱く語ってくれた。中でも年若いアンギャン公はよく軍を率い、その屈託のない性格は、荒みがちな亡命貴族らの心をまとめるのに一役買っているという。


 他人事のように聞いていた彼女だったが、今、にわかにフランス革命軍との戦いが身近なものとして迫って来た。いうまでもなく、そこにアンギャン公が身をおいているからだ。



 母が思案するように首を傾げた。

「そうね。つい最近、ロシアが対仏大同盟を脱退してしまったけれど、ロンバルディアでもライン河方面でも、同盟軍は勝利を続けているわ。それに、フランス本国では、コルシカ人の軍人がクーデターを起こして政府を転覆させたとか。もしかしたら……」

言葉を濁した。つぶやくように付け加える。

「状況はどう変わるかわからないわ。アンギャン公は、十番目のフランス王位継承権をお持ちだし、革命前のコンデ家は裕福な家柄だった……彼との婚姻は、悪い話ではないかもしれないわね」


 それにしても、バーデン伯とロシアのパーヴェル皇帝が、自分の娘たちからアンギャン公を退けた訳が気になると、母は口の中で繰り返した。だがそれは、アメリーの耳には全く入ってこなかった。彼女の脳裏には、ただ、麗しいアンギャン公爵の幻影が微笑んでいた。








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※1

余談ながら、この、バイエルンに嫁いだバーデン公女が、ゾフィー大公妃のお母さんです

https://kakuyomu.jp/works/16816927859493291159

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