檻の外



・ ・ ・ ・ ・



 幽霊が消えていったので、この日はもうそのまま朝になると思っていました。

 ところが、いつまでたっても周りが明るくなりませんでした。


「あれ? なんでいつまでも夜なんだろう?」


 そんな事をつぶやいていると、またいつもの音が聞こえてきました。


「ぽんぽん、ぽんぽん」

「ぽんぽん、ぽんぽん」


 今回は、二か所から音が鳴っているようでした。

 けど、僕はやっぱり、その二か所がどこなのかわかりませんでした。

 遠くから鳴っているかと思えば、次第に音は近づいてきたのでした。


「こんばんは」

「こんばんは~」


 気が付くと、僕の後ろには、二人の幽霊が浮かんでいたのでした。


「幽霊さん。それに、昨日会った幽霊さんもいる!」


「久しぶりだね~」

「お久しぶり!」


 僕は、一番最初に会っていたそっちの幽霊の方にお辞儀をしました。

 最初に話していた時の事を思い出すと、やっぱり僕の頭の中は楽しい気持ちでいっぱいになるのでした。


「今日私達がきたのは、いよいよ君に決断してもらう時が来たからなんだよ!」


 明るく楽しい幽霊の方が、そんな事を言いました。


「決断? 何を決断するの?」

「君は、いつまでもこんな退屈な檻の中にはいたくないって、そう言ったんでしょ? こっちの幽霊に」

「うん」


 楽しい幽霊は、楽しくない幽霊を指差してそう言いました。


「じゃあ君は外へ出たいんだよね?」

「うん」


「待ってよ。君はそれで本当にいいんだね?」


 楽しい幽霊と僕が会話していると、それまで黙り込んでいた楽しくない幽霊が、横からそんな事を言いました。


「……いいよ!」

「やっぱり君には敵わないね」


 楽しくない幽霊は、さらに楽しくなさそうな顔をしていました。


「あはは~! じゃあ、ほら、檻の外へ出ようよ!」

「……うん」


 僕は、楽しい幽霊に手を触られました。

 ひんやりとしていましたが、幽霊にさわる事ができて僕はとても嬉しく思いました。

 これで僕も、幽霊の仲間になれた気がしていました。


 楽しい幽霊に手を引かれる形で、僕は真ん中から少し移動して、檻の格子のそばまでやってきました。

 格子の向こう側は、真っ暗で、夜の闇に包まれていました。

 この闇の中に、一体何が潜んでいるのかはわかりません。


 僕は、暗闇を見た時、なんでこんなに不安な気持ちになるのだろうと思いました。

 もっと言えば、何が待っているかわからない、不透明なその様子に、どうしてこれほどまで恐怖を覚えるのかなと思いました。


「はい、持ってきたよ」


 楽しくない幽霊は、その手にランプを持っていました。

 それは、檻の天井の真ん中にさげられていた、あのランプでした。

 僕をいつも暗闇の中で照らし続けてくれた、小さなランプでした。

 どうやら、たった今天井からおろしてきたようです。


「このランプの蓋を開けてあげるから、君は中の火に息を吹きかけて、消してあげるんだよ?」

「え? でも、そしたら何も見えなくなっちゃうじゃないか!」

「それでいいんだよ」


 楽しくない幽霊がそう言うと、楽しい幽霊も同じように言いました。


「それでいいんだよ! 見えなくなるんじゃない。君が闇の海にのまれてしまえば、それで全て君の想いは叶えられるんだよ」

「そうなの?」


 僕は、幽霊の言っていることが、よくわかりませんでした。

 けど、このランプの火を消してしまえば、この檻の中という空間が、一瞬にして見えなくなってしまうという事はわかりました。


「ほら、バースデーケーキの火は、誰だって消すでしょ? あれを消して、誕生日は祝われた事になるんだよ。だから、君もこの火を消して、私達に祝われた事にしなきゃね!」

「わかったよ。これで檻の外へ出られるんだね!」


 僕は、楽しくない幽霊が持っていた、この檻のランプのそばへ行きました。


 ランプの火は、煌々と明るく赤く燃えていました。

 顔を近付けると、少し熱くなりましたが、仕方ありません。


 僕は思い切り、空気を吸い込みました。


 そんな僕の手を、楽しい幽霊はずっと握っていてくれました。


 そばにいてくれました。


 おかげで、火を消すことが怖くありませんでした。

 でも、ほんの少しだけ、やっぱり怖かったかもしれません。


「……ふぅー」


 吸い込んでいた空気を、そのランプの火に向けて吹くと、火は一度ゆらめいて、そのうちに消えてしまいました。


 それから、あっという間に僕の目の前は真っ暗になりました。


「どう? 真っ暗になったけど、私達の声は聞こえる?」

「うん、聞こえるよ」


 暗闇の中で、声だけが響いていました。


「じゃあ、左手は私が握ってあげるね」

「うん」


 声でわかりましたが、左手を握ると言ったのは、楽しくない幽霊のほうでした。

 僕の右手と左手には、それぞれ、楽しい幽霊と楽しくない幽霊の手がありました。


 しばらく、暗闇の中で僕ら三人は黙っていました。

 だんだんと、僕は、自分が目を開けているのか閉じているのか、それさえもわからなくなりました。


「ねぇ、暗闇はもう怖くないでしょ?」


 楽しい幽霊の声が右から聞こえてきました。


「うん」

「なんで怖くなくなったのか、わかる?」


 楽しくない幽霊が左でそう言いました。


「……それはわからない」

「でも、君はもう暗闇が怖くないでしょ?」


 楽しい幽霊が言いました。


「うん」

「なら、もう君はオリジナリティを理解できるよ」


 楽しい幽霊が続けて言いました。


「そうなの?」

「そうだよ。オリジナリティは、知らない物があふれた世界へ飛び込む勇気。その勇気がなければ、理解できないからね」


「……勇気」


「オリジナリティは、外に用意されているものじゃないんだよ。既にあるものを違う角度から見たり、違う調理法を試す事をさしているんだ。だから、その恐怖に臆する事なく、何度も試そうとする勇気や、探求心こそが、オリジナリティを生むんだよ」


 僕の心には、もう怖さなんてどこにもありませんでした。

 幽霊の言葉を聞いた事で、僕の中にあった恐怖は完全に消えたようでした。


 恐怖は、僕が勝手に生み出した幻だったようです。


「いつもの自分でいたい」といつまでも考えていた僕が、自分で生み出していたようです。


「とても不思議な気持ちになるね。なんで僕はもう怖くないんだろう?」


「……君はもう、知ったからだよ。知らない事を知る。その勇気を君はもう知ったから。だからもう怖くないんだよ。……もう、君は大丈夫だね」


 幽霊の最後の言葉は、楽しい幽霊の声だったと思います。

 そのまま、幽霊も僕も、一言も話さないまま、夜が過ぎていきました。




 僕は目覚めました。


 どうして目覚めたのかもよくわかりませんが、「ここ」で目覚める事は、いたって自然なことのように感じていました。


 僕は、ただ広く広く、どこまでも続く草原の上にいました。

 空を流れる雲も、足元で伸びてる草も、みんな常に新しい形をえがき続けているんだと思いました。



・ ・ ・ ・ ・



「……うん。良い感じだった」


 ぱたんとノートを閉じると、俺は月野の顔を見てそう言った。


「そうですか? ……よかったです、そう言ってもらえて。えへへっ」


 月野は小さく微笑んでみせた。

 だんだん親睦度が高まってきたからか?

 月野の表情が、以前よりもいくらかやわらいでいるように見えた。


 俺は、自分の手にあるノートをもう一度眺めてみた。

 なんか、とても心に刺さるものがあったな、とか妙な読後感に浸っていたのかもしれない。


「これで、たぶんこの話は最後なんだよな?」

「そうですね」


「読後感がよかったよ」


「本当ですか……?」


「ああ。俺はあんまりお世辞とか言わないぞ」


「ふふっ。そんな気がします」


「月野はきっと、小説家になれるよ。すごくいい話だったと思う」


 俺が褒めると、月野は少し赤かった顔をさらに赤く染めた。


「そう、ですか……」


 月野の小説の中に出てきたオリジナリティの解釈には、とても関心するところがあった。

 オリジナリティについて、俺はずっとわかっていなかった。


 知らないものを知るという事は、ある種の恐怖が伴っているんだよな。

 確かにその通りだ。

 そして、その恐怖に打ち勝つ勇気を持たなければ、オリジナリティがどのようなものであるのか、理解する事はできないと。

 月野はそう言っている。

 小説を通して、俺は彼女からそれを教えてもらった気がした。


「月野、お前のオリジナリティの解釈、おもしろかったよ。俺はこの話、好きだわ」


 そう言って、俺が月野にノートを返そうとした時だった。

 月野の瞳は、うるうるとして、涙が流れそうになっていたんだ。


「……よかったです」


 月野のその言葉に、どこか安心している俺がいたと思う。

 たぶん、この小説を書く事自体、月野も主人公の僕君と同じように、ある種の恐怖と戦っていたんだ。亡くなったお兄さんの一件があったからな。


 だから無事に書き終えて、涙が出そうだったんだろう。


 そんな月野を見たせいか、俺もどこかほっとしていた。


 それから月野は、俺の顔を見てこう言った。


「……先輩、料理なんですよ」

「え?」


 俺は、月野の言葉に聞き覚えがあった。

 それは、一昨日の夢の中で、月野が俺に言っていた言葉だった。


「料理……って言ったか?」

「そうです。……料理です」


 月野はそう言って、目じりに溜まっていた涙を手で拭うと、セリフを続けた。


「創作は、きっと料理なんです。……知らない謎の食べ物とか、謎の飲み物とか、そういうものに手を出していかないと、創作という料理にオリジナリティは出てこないと思うんです……。もちろん、知ってる料理でも、素材を少し変えたりすれば、小さなオリジナリティは出せると思います……。それで、出来上がった料理を人に食べてもらって……す、好きって言ってもらえたら……それはとっても嬉しいんです。……私は、たった今それがすごくよくわかりました……」


「創作は料理……」


 月野はとても恥ずかしそうにしながら、それでも、ちゃんと自分の想いを俺に教えてくれた。

 実際に何かを生み出す事の喜びとか、恐怖や苦しみに触れて、月野なりに噛みしめて、その中で見つけた月野の言葉を、しっかり教えてくれたんだと思う。


 これは紛れもなく、月野灰色が自分で見つけた一つの答えだったんだ。


「これで、月野の小説ももう終わりだな」


 俺は、月野にそう言ってから、いつものように持ってきていた昼食を食べようとしていた。

 そして、パンを口にしてから気がついたんだ。


 そう、もう終わりなんだ。こうやって、いつも昼休みに屋上へ来ていたのは、この小説を読ませてもらうためだった。


 その小説が、幕をひいたんだ。映画で言えば、エンドロールが流れだしている頃だ。


「先輩……」

「ん? ああ、もうお前と昼休みに、こうやって会うのもおしまいだな」


 寂しくなんてない。


 そう思いたくて、俺は昼飯用に持ってきていたそのパンにがっついた。


 急いで食べる必要なんてないはずなのに、なんだか口を埋めてしまいたい気持ちに駆られていた。


「……」


 そんな俺を、横に座っていた月野はただ黙って見つめているだけだった。

 何も言わない。恥ずかしがり屋の女の子。それが月野灰色っていう女の子だ。


 近くの空を、飛行機が飛んでいた。その後ろには飛行機雲が伸びていた。

 向こうのほうに、たくさん電波塔が並んでいる。その下に田園と住宅街が広がっている。


 別に寂しくなんかない。


 昼休みが終わって、月野とさよならして、もうそれっきり会わなくなったって。


 元々そういうつもりでいたはずだ。


「月野は小説家になるのか?」


「……たぶん、小説は書くと思います」


「だよな。俺はお前の書く話が好きだ。どんどん書いてけよ」


 こんな時だけ、好きだの嫌いだの、サクッと言葉に出せてしまう自分が嫌だな。


「月野なら、どこかに応募したらきっと賞も取れるんじゃないか」


 月野に他に何の趣味があるのかもわからない。

 何が好きなのかも、どういった夢や進路を思い描いていたのかもわからないまま、そんな言葉を口にする。


 俺はなんて適当なんだ、と我ながら思っていた。


「……か、考えてみます」


 そんな適当な励ましのような言葉でさえ、やっぱり月野はまた恥ずかしがってしまった。

 恥ずかしさのあまり、体育座りで近くなっていた自分の膝に顔をうずめていた。


 なんだよ、可愛いかよ。

 空が青いなぁ、とか俺はしみじみ思っていた。


 それ以来、俺と月野がもうここで会う事はなかった。

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