君にはかなわないよ
翌日の昼休み、俺はいつものように屋上へと向かっていた。
階段を上がる足が重い。
昨日、月野の小説を読むと決心したのに、やっぱりどうしても、身体はだるくて、気持ちは沈み気味だった。
屋上へ繋がる出入り口の扉の前に立つと、何かの不具合で、扉が開かなければいいとか思い始める始末だった。
むしろ、今日は月野が病欠でおやすみでしたとか、今日は屋上じゃなくて違うところでお昼取ってましたとか、いくらでも予定調和から外れてほしいものだと願っていた。
俺自身が予定調和的に屋上へ向かっておきながら、こんな願望を抱くことはおかしいんだが……。
こんな願望はおかしい。何しろ昨日決意したばかりだ。
月野の小説から逃げるにしては、昨日の今日で早過ぎる。
それはダサすぎる。
屋上の扉は、軽くノブをひねっただけで開いた。
向こうには開放的ないつもの空間が広がっていた。
そこには当たり前のように月野が立っている。
「よう。今日も早いんだな」
「……友達いませんので」
「……」
そういえば俺は、月野が学校でどんな生活を送っている生徒なのか、全然わかってなかったなと思った。
友達もそうだが、どんな風に授業を受けてるのかとか、得意な科目は何かとか、クラスでトラブルや困った事はあるのかとか。お兄さんは亡くなったが、その後家庭はどうなってるのかとか、好きな音楽は? 好きなファッションは? とか。
よく考えてみれば、色々聞いてみてもよさそうなものだった。
「友達いないとか、お前は俺かよ」
「え? ……ふふっ。先輩って、あれですよね」
「どれだよ……?」
「あれです……なんというか、楽しい人」
「それは馬鹿にされてるって認識でいいか?」
そうやって俺が聞き返すと、月野はまた少し、ふふっ、と笑ってみせるだけだった。
そうやって笑っていればずっと可愛い奴なのにな。
なんとなく、月野を見てそんな事を思ってしまっていた。
そんな月野の手には、例の小説ノートがあった。
ただ、俺の心持ちは少しだけ変化しているような気がした。
月野との今の会話で、多少俺の心の緊張や不安がほぐれたのかもしれない。
なんて単純なんだろう。
そう思ったけど、元々読む気でここへ足を運んでいるし、昨日迷いは断ち切ったはずだ。
「今日も書いてきたんだろ?」
俺の問いに、月野はこくりと頷くだけだった。
それから月野は、とてもなめらかに腕を動かして、持っていたノートを差し出してきた。
「読ませてもらうわ」
「……」
・ ・ ・ ・ ・
僕にとって、朝やお昼の時間はとても退屈でした。
早く夜にならないかな、まだ夕方にもならないな、などとそんな事を思っているか、もしくはだらだらと惰眠をむさぼり続けるくらいしか、暇をつぶす方法がありませんでした。
その日の夜がやってきました。
もう何日目の夜なのか、僕は数えてすらいませんでした。
辺りが真っ暗になってすぐの事でした。
「ぽんぽん、ぽんぽん」
ちょっとした風が吹いたかと思うと、遠くからまたあの音がやってきました。
僕の大好きな音です。
この音を聞くと、やっぱり僕の鼓動は早くなるのです。
少し期待して、僕は聞こえないふりをしていました。
「ぽんぽん、ぽんぽん」
音がものすごく近くなったので、僕はいよいよ音の鳴る方へ振り返りました。
けど、そこにいたのは、昨日の夜楽しくおしゃべりをしてくれた幽霊じゃありませんでした。
他の幽霊だったのです。
「こんばんは」
「こ、こんばんは……」
僕は少しだけ、いや、だいぶ残念に思いました。
昨日の幽霊じゃないというだけで、とても残念に思えました。
「君はおかしな檻のなかにいるんだね」
この幽霊も、女の子だと思います。
しゃべり方や、抑揚の付け方で、女性っぽいなと思いました。
幽霊は、僕のことをジロジロと眺めていました。
「おかしいのは僕だってわかってるよ。でも、おかしいって思ったって、外には出られないんだ!」
やっぱりこの幽霊も、僕のことを見下しているようでした。
そう思えて、たまりませんでした。だから少し、感情的に叫んでしまいました。
「ぶっきらぼうな言い方。そんな棘がある言い方は、やめてほしいなぁ。幽霊だって、傷つくんだよ?」
「ごめんなさい……」
この幽霊は、昨日の幽霊に比べると、なんだかとても落ち着いたところのある幽霊でした。
「ところで、君は外に出たいと思ってるんだね?」
「うん」
「どうして?」
「僕も、幽霊さんみたいに外へ出られたら、もっともっと毎日が楽しくなると思うんだ。昨日は、別の幽霊さんに会ったよ。その人は、とっても楽しそうな人だったんだ。だから僕も、自由に外へ出てみたいんだよ!」
僕がそう言うと、幽霊はつまらなさそうな顔をしていました。
あ、この表情だ。と僕は感じました。
それはつまり、幽霊と聞いてイメージした時に、まず頭に思い浮かぶ表情のことでした。
僕が幽霊と聞いて、ぱっと思い浮かべるのは、この幽霊のような顔でした。
どことなくつまらなさそうで、退屈そうな顔でした。
昨日みたいな、楽しそうな幽霊なんて、まず思い浮かべません。
だってそれじゃあ、死ぬほうが良いみたいで、生きてる人間がかわいそうじゃないですか。
だから幽霊は、みんな悲しそうで、つまらなさそうな顔をしているんだと思います。死んでいる事より、生きている事に価値があると思いたいから。
「君は勘違いをしているよ」
「え?」
でもこの幽霊は、昨日と違う事を言いました。
見た目も、声も違うので、そもそも違う幽霊だったと思います。だから、違う事を言ったって、まったくもっておかしくありませんでした。
「この檻の外へ出ても、決して楽しい事なんてないよ」
「そうなの?」
「そうだよ」
「でも、昨日の幽霊さんは言っていたよ? 死んでしまったあとの世界は、見た事のない物や、知らない事ばっかりなんだって。それで、毎日が楽しいんだって。そう言っていたよ?」
「知らなければよかったなと、そう思うことだってたくさんあるんだよ?」
「知らなければよかったこと?」
その幽霊は、やっぱり楽しそうじゃありませんでした。
僕は、楽しくなさそうな幽霊と話していると、気持ちがだんだん沈んでいくのでした。
「そうだよ? 知らなければよかった事も、死んだあとの世界にはたくさんあるんだよ。君は、幽霊になったら、どれだけ自由になるか知ってるのかな」
「そんなの、僕にはまだわからないよ」
「そうだよね。でも、幽霊になってしまったらもう元には戻れないんだよ。君にはきっと、大切な人や、大切なものがたくさんあると思うんだ。でも、その人達の気持ちを、完全に理解することはできないでしょ?」
「完全に理解って?」
僕はいまひとつ、この幽霊の言っている事がわかりませんでした。
「例えば、君が好きだと思っている人は、本当は悪い事をしている人かもしれないよね。君の好きなものを作っている人は、君の知らない所で、小さな子供の首をしめたり、年老いた人を平気で崖から突き落としているような人かもしれない。そういう事も、この檻の外へ出てしまうと、わかってしまうんだよ」
「そうなの……?」
幽霊の話を聞いていると、僕はとても怖くなってくるようでした。
知らなかった事を知ってしまう恐怖というのは、なんておぞましいんだと思いました。
そこで、僕は幽霊から、ある事を教えてもらえたような気がしたのです。
知っている僕にはなれても、そこから知らなかった僕にはなれないんだと。
僕は「何かを知る」という事が怖くなってきました。
たぶんこの檻から出てしまうと、もうこの檻の中へは入れなくなってしまうのです。
たぶん、そういう事です。
ライオンがたくさんいる草原にこの檻が置かれていたら、僕はきっと外へは出たくないと思います。外へ出たら、食べられてしまうからです。
見た事のない物や、知らない事が、みんなウサギくらい可愛い動物ならいいですが、たまにはライオンだっているし、大きなサメや、牙のあるクマだっていると思いました。
僕が今閉じ込められているこの檻の中は、もしかしたら世界で一番安全な場所なのかもしれません。
そう思うと、外へは出たくなくなりました。
「幽霊さんは、とっても優しい人なんだね」
「優しいわけじゃないよ」
幽霊は、照れ臭そうにしていました。
きっと、僕のことを思って言ってくれていたんだと思います。
でも僕は、とてもむずむずとした気持ちでいました。
「どうしたのかな?」
「え?」
「何か、行き場のない感情を持て余してそうな顔をしているから」
幽霊は、とても鋭い勘を持っているようでした。
女の勘? と呼ばれるものかもしれません。
「うん。……幽霊さんにはわからないかもしれないけど、僕はとても退屈しているんだよ」
「それは知ってるよ」
「だから、外へ行ってみたいと思ってるんだ!」
「外に行くと、きっと怖い思いをすると思うよ?」
それを聞いても、僕はやっぱりこの想いを譲れないようでした。
「それはさっき聞いたよ。でも、それでも僕は外へ行ってみたいんだ。つまらないと感じていた日々を、壊してみたいんだ!」
幽霊は、溜め息を一つついて、こう言いました。
「君にはかなわないよ」
そう言って、幽霊は周囲の闇のなかへ消えていってしまいました。
やっぱり消えていく時の幽霊は、優しそうな、悲しそうな、曖昧な表情をしていました。
そういえば、僕は「かなわない」という言葉に、二つ意味がある事を知っていました。
でも、今日幽霊の言った「かなわない」という言葉が、どっちの意味だったのか、僕にはわかりませんでした。
・ ・ ・ ・ ・
「おおー!」
「……どうしたんですか?」
月野の小説を読み終わった俺は、ひとまず胸をなでおろす思いだった。
主人公がどうなってしまうのか、少し不安だったし……。
「いや~、別の幽霊が出てきたんだな」
「そうですね……」
月野は、小説の内容に触れた話をすると、やっぱりとても恥ずかしそうにする。
ちょいちょいと前髪を触ってみたり、両手をもじもじと組んでみたり。
結構話すようになってから日数経ってるのに、相変わらずシャイですね。月野さん。
しかしそこが良かったりするんだが。
「ちょっと珍しいですね」
「何が?」
「……木下先輩が、そんな風に声をあげるの……」
月野はやっぱり少しもじもじしていた。
「そ、そんな恥ずかしがるなよ。無駄にこっちまで恥ずかしくなるだろ……」
言葉に出したせいか、俺まで少し恥ずかしい気持ちになってくる。
屋上で、二人して赤くなっていた気がする。
なんだこれは。
「けど、主人公は迷ってるって事なのか? どうなるんだ? この後」
「ふふっ……それは内緒です。そ、それを知っちゃったら面白くないですよ」
「確かになw それもそうだ」
そう言ってから、俺達は一緒に昼食を取ることにした。
月野は、それほどたくさん話すタイプじゃなかったから、結構沈黙が挟まることも多かった。ただ、それでも気まずいとは思わなかった。
俺は今日もいつものパンだったが、その日はいつもより少しだけ美味しいような気がした。
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