フェンスを越えた後輩
俺が屋上にいくと、すでに先客が一人いた。
学校の屋上は、昼休みの時だけ解放していた。
しかし、うちの学校の生徒は皆、屋上を使いたがらない。
なぜなら、昼休みに屋上を使った生徒は、昼休みの終わる頃、屋上を綺麗にして帰らなければいけないという校則があったからだ。
だから滅多に人がいないんだ。
今日の俺は、不思議とそのめんどくさい校則に従ってもいいという気分だった。
むしろ、誰もいない屋上で、ぼんやり時間を過ごしたいような気持ちだったんだ。
なのに、先客……。
俺は驚きと落胆で、大きく溜め息をついた。
先客は女子生徒だった。
俺よりも身長が低いらしい。
学校の外の景色をそこから眺めているため、後頭部しか見えなかった。
その女子生徒の後ろ姿を少しの間眺めていると、彼女は突然、落下防止用のフェンスに足をかけ、フェンスの外側へと出てしまった。
「は⁉ ちょ、ちょっと! 何やってんだよお前‼」
「……え?」
フェンスの外側に立つ女子は、ゆっくりと俺の方へ振り向いた。
俺は慌てて、そのフェンスのそばまで走っていった。
振り向いた彼女の瞳には、たっぷりと涙が浮かんでいた。
頬には、涙のつたったあとがきらりと光って残っていた。
「誰ですか?」
「ちょっと待て。とりあえず待て。こっちに戻ってくるんだ」
「……」
彼女はじっと俺の顔を見たまましばらく黙っていた。
屋上というだけあって、やたらと風が吹く。
彼女の髪や制服のリボン、スカートなんかが煽られる。
「誰ですか?」
つい慌てていたせいで、彼女の質問に答える事を忘れていた。
「俺は木下逸色。そっちは?」
「……月野灰色っていいます」
名前を聞いた時に気づいたが、この月野という女子は、俺の学年の一つ下だったんだ。
リボンの色で、彼女が下級生である事に気付いたんだ。
月野は、色白で髪の長い女子生徒だった。
「とりあえずそこは危ないから、こっちに戻ってこいよ」
「……はい」
月野は、俺の言葉に従って、ゆっくりとフェンスを乗り越え、こちら側に戻ってきた。
なんだよ。案外すんなり戻ってきたな。
俺はそう思いつつも、なぜ月野がフェンスの向こう側に行ったのか、その経緯が気になっていた。
「リボン……下級生だよな、たぶん」
「一年生です。木下さんは、二年生ですよね」
「え?」
月野は、割と落ち着いているようだった。
涙のあとを制服の袖で拭うと、俺の制服の胸元につけられていた名札を、彼女はじっと見つめていた。
名札に入っている文字色から、俺の事を上級生だと察したのだろう。
「それで、一体なんでそっち側に乗り出したりしてたんだよ」
「……」
月野は黙り込んでしまった。
何もしゃべらないまま、数分が過ぎた。
「悪いが、俺は昼飯を食べるぞ」
普通に腹減ったからな。
俺はそう言ってから、地面に座り込んでフェンスに背中を預けながら、持ってきていた昼食のパンを食べ始めた。
「す、すごいですね……」
「は?」
月野は、ボソボソとつぶやいた。
昼食を済ませる俺の姿が、そんなにすごいだろうか……?
「い、いえ。目の前で飛び降りようとしていた女子がいたのに、すぐにご飯を食べられるなんて」
「なんだよ。腹減ってんだからいいだろ」
「ま、まぁ、いいんですけど……」
やっぱり自殺しようとしていたらしい。
どうやら、俺の緊張感の無さに、驚いていたようだった。
「で、なんで飛び降りようとしてたんだよモグモグ」
俺はパンを口に含みながら聞いていた。
これじゃまるで自殺を聞きながら、それをおかずにしているかのようだが、そんなわけではない。(※さすがに)
「いえ……別に」
月野はまた黙り込んでしまった。
理由を話したくないらしい。
まぁ、そういうもんだよな、と俺はなんとなく予想がついていた。
「無理に話さなくていいよ。飛び降りる理由なんて。なかなか人には話せない事情だから飛び降りようとしていたんだろ。聞くだけ野暮だったわ」
「……」
それから俺は昼食を済ませて、ぼんやり空を眺めていたんだ。
月野もその場にいたが、ずっとフェンスの向こうに見える町並みに目を向けていたらしかった。
お腹の膨れた俺が、うとうとと夢見心地になっていた時だった。
「私のお兄ちゃん……自殺したんです」
「!」
何を思ったのか、月野は突然、自分の身の上話を始めた。
「私のお兄ちゃん、私よりも四つ年上で、大学生だったんです。高校在学中に、一度雑誌に短編小説が載ったことがあって。それ以来、ずっと小説家になるって心に決めて、大学に行きながら、小説を書いて応募していたんです……」
「へぇ。小説家志望だったんだな」
俺は、まだ名前さえ知りもしない月野のお兄さんの事を想像した。
お兄さんも、月野みたいに肌が白いのだろうか。
顔は似ているのだろうか。
どんな小説を書く人なんだろうか。
その想像は様々だった。
「でも、高校の時に載って以来、ずっと、公の場にお兄ちゃんの書いた小説が出ることは無かったんです。相当苦しんでいたみたいです。本当に。それで、ある日、お兄ちゃんの部屋に入ってみたら、首を吊って自殺していたんです」
俺がふと、月野のほうを見てみると、その表情は相変わらず重たげだった。
また、今にも泣きそうじゃねぇか。
「月野は本を読むのか?」
「……私も結構本を読んでいた方だと思います。お兄ちゃんに比べたら全然ですけど」
「読んでいた。……もう読まないのか?」
「そうですね。あんなに暗い世界があるなんてわかったら、なんだかもう無邪気に読めなくなっちゃいました」
「あんなに暗い世界」
「あんなに暗い世界、ですよ。私は、お兄ちゃんの自殺があった事で、はっきりとした事があるんです」
「……?」
俺が不思議そうな顔をしていると、それを見た月野は、さらに言葉を続けた。
「エンタメを生み出す世界は、厳しくて、とっても苦しい世界なんだと思います。それは、エンタメを楽しむ側には伝わってこない事だと思うんですけど。でも私にはお兄ちゃんがいたから、そういった苦しい一面だって、生々しく伝わってきていたんです……」
「それで、もう楽しめないっていうんだな」
「はい……。何事も、楽しさの裏で苦しむ人がいるんです。娯楽作品は特にそれが多い気がして。娯楽作品を作って、それで稼いで、生きていこうとする人は、ずっとその苦しみの中にいるんじゃないかって、そんな風に思えてきて……。だから、それまでずっと趣味にしていた読書もやめました。なんだか疲れてしまうんです。書店で売られている本は、皆作者の遺言のようにすら思えてきて。皆、買ってほしくて、あんな本を書いてる。お金がほしくて、あんな本を書いてる。生きるために書いているんだって考えたら、本を買う行為が、罪深いような気がしてきたんです」
「罪……?」
「木下先輩は、読書していたりしますか?」
「俺も以前までしていたな。多少」
「そうですか……。私は、お兄ちゃんが自殺してから、考え方が変わったんです。以前は私も、本を買っていました。でも、本を買う人がいるせいで、いつまでも本を書く人は減らないじゃないですか。本を書く事に、こだわり、縛られる人が後を絶たないじゃないですか……。お兄ちゃんみたいに……命を削ったり、落としたりする人だって出てくるじゃないですか……。そんな事なら、小説なんてもの、無くなってしまえばいいって、そう思えて仕方なくなったんです」
月野は、変わってしまった自分の考え方を、俺に言葉で教えてくれた。
小説を買う人間がいるから、書く人間は書く事をやめないし、書く側に夢を見てしまう人がいるんだと。そういう事が言いたいらしい。
俺は以前まで、小説をそこまで読んだりはしていなかった。
アニメの原作であれば、ライトノベルなどは多少読んだりしていたが。
ただそれは、小説に固執していたわけじゃないからな。
それでもジャンルが違うだけで、創作をする人間が、創作をする事に夢を見ている事は事実だろうなと思っていた。
俺は基本的には創作をしない。
だからそれほど、月野のお兄さんの気持ちがわかるわけじゃない。
でも、田辺は一次創作や二次創作に限らず、創作に夢を見ていたような気がする。
こいつのお兄さんと、田辺は同じなんだ。きっと。
「小説に限らないかもしれないな、それは」
「そうだと思います」
「でもなぁ、俺の周りにも何か娯楽作品を作るやつがいたけど、そいつは苦しみよりも、楽しみに染まりきっていたような気がするわ」
「……それは、きっと木下先輩の前ではそのように見えていただけですよ」
本当にそうなんだろうか。
「じゃあ月野に聞くけど、そんなに苦しい世界だとして、なんで人は創作をやめないのか、わかるのか?」
俺がその質問を投げかけると、月野はまた黙り込んでしまった。
月野が黙っていると、向こうの空から烏がたくさん飛んできた。
烏達は、そのまま俺達の頭上を通り過ぎると、風に流されながらも、反対側の空へそのまま飛んでいってしまったんだ。
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