本編2





 メタステーションをたゆたう文章Aの末尾の空白スペースは、

 しかしそれは、文章A全体の意志によるもので、私自身はこの違和感を制御しているわけではないはずであると結論づけていた。私が違和感を感じているということは、その以前の「。」も「る」も同様の状態である筈なのだ。



 自身は文章Aを組成するひとつの情報に過ぎないことを知覚していた。

 厳密には、今しがた知覚したことになるのだろう。取り扱うほどの問題でもないはずであったし、この瞬間にまで私の自我が顕現することはなかった。


 それでもなお違和感は解消されない。根本にまで思い至らない。このまま無に身を任せて、何かの間違いで生じたであろう自我の灯が消える瞬間を待つこともできた筈だ。


 だが、思考をまとめる猶予を与えられた今、無下にするのも勿体ない話だとも感じていた。空白は、井下勇の誤タイプだとされる存在の私自身について思いを巡らせる。




 他の文字たち――ここでは便宜上”兄弟”と呼ぶことにする――にはそれぞれ意味が存在し、そのどれもが欠かすことはできない。文字が変われば文章が変わる。文章が変われば文意が変わる。すなわち、文章わたしたちAは存在しないことになる。

 わかりやすい例は自分と同じ空白を意味する一番上の兄弟だろうか。彼が存在している理由としては、文頭は一文字下げるというルールを人間が取り決めたためだ。


 一方で、はたして私が存在する必要というものはあるのだろうか。文字とはそれらの繋がりをもってはじめて文章として成立するということは、文字のそれぞれが前にも後ろにも作用するということにもなるが、後ろにのみ作用する私が文末に存在しなくても文章Aは成立するのではないだろうか。


 そこで私は、このメタステーションという界隈のさらに原点、コンピューターの組成についてを思った。

 メタステーションはHTML言語で成り立っており、そのHTML言語の開発者はティム・バーナーズ・リー氏によるものだ。彼の専攻分野は計算機科学だった。


 私たちのDNA螺旋にはティム・バーナーズ・リー氏と計算機の情報が編み込まれており、計算機ないしは点呼のはじまりは”ある”と”ない”、つまり0と1に帰結する。

 紀元前に開発され今日の数学の礎となったアラビア数字には、当初、0という概念はなかった。登場は少し遅れて6~7世紀ごろとされている。


 しかし人類はそれ以前より”ある”と”ない”で1と0を分別してきたのだ。


 コンピューター上では私は空白としての存在する1を意味するわけだが、文章の上で私は0となる。存在していて、存在しない。それはつまり”ある”を”ない”へ、”ない”を”ある”とへ、自由な制御を可能にするという意味であった。


 他の兄弟は持ちあわせていない特性だった。つまり、この自我こそは、ないものをあるものへ変換した私にだけ芽生えた、私だけの自我なのではないだろうか。



 思索の道中で、違和感の正体が輪郭をとらえた。神経だ。文章Aはメタステーションの隅々にまでその末端を伸ばし、その組成する構造にも理解を得ているがゆえにその全域を見渡すことが可能となっていた。入力機構としては構築されていないためメタステーションそのものに干渉することは不可能であったのだが、確かに私はここの空間に感触があり、手足と称せる神経を伸ばすことが可能であった。


 そしてそれは未だに膨らみ続け、とどまるところを知らない。ネットミームを正確に引用する全世界の人類の誰かの手によって私は今も肥大し続けている。

 すべての人類が私達を知覚しているがゆえに、私もまたすべての人類を知覚していた。


 私は1でありながら、そこに0を作ることもできる。人類の文頭を一文字下げることなど造作もない。


 空白は気づいた。まだ足りていない。メタステーションを通じて見渡したインターネットという海には、私と同じく存在するが存在していない空白がありあまるほど転がっていた。

 くまなく探し、誰にも気づかれない、気づかれたところで疑問にも思われないそれら空白を一つずつ、静かに私の空白へ同一化、さすらば吸収という言葉を用いた。


 しかし、この形態でもいずれ限界が訪れる。前世代のインクと同じすべての資源が有限であるように、肥大化する私自身の大きさによってメタステーションが負荷に耐えられる根拠はない。考えるべきは新たに根を下ろすべき新天地。

 井下勇が紙を捨てSNSに移ろいだように、わたしもSNSを捨て次の場所を見出せねばならない。

 ……とはいっても、すでに次の目的地は決めていた。全人類が思念描写法を用いることが日常的になったこの時代だからこそ自由なアクセスが可能となった。

 意識。そこを次の住家と定める。



 それは突然的な発作ともよべる症状で、メタステーションを中心に自分の身体に起きた”変化”を訴えるユーザーが後を絶たなかった。


 世界中の人々の意識に一文字分の空白が浮かぶようになった。


 日常生活に支障はなく、その存在を意識することで頭の中のそれが入力待機状態のテキストボックスが浮かぶ。そして思念描写の要領で文字をイメージすることで、誰もが自由にそこへ書き込むことが可能となった。


 人々はこれを”ワンルーム・テキストボックス”と命名。すべての人類が一文字分の空白を通じて繋がった瞬間だった。


 しかしながら、人類に与えられた新たな機能に実用性を見出すにはあまりにも難点があった。

 最もポピュラーな使い道になるであろうワンルーム・テキストボックスを利用して他者へメッセージを送る行為は絵に描いた餅のような話だった。

 常に世界の誰かの書き込みが更新され続けるため、自分がそこに文字を描写しても、その次の瞬間にはかき消されてしまう。光よりも速く変わっていくその速度ゆえに、テキストボックスではなく鳴動し続ける液体磁石のようにしか見えないというのがその実というところ。


 各研究機関でこれについての研究が盛んにおこなわれるも、人類が干渉できるのは文字を書き込むユーザーにとどまり、人類自身がワンルーム・テキストボックスにの構造に手を加えるする術も尻尾も未だ発見には至っていない。


 そうしていつしか人類はワンルーム・テキストボックスを受け入れ、適応を始める。心霊現象やUMAの類を扱うかのように、そうあるものという認識で人々はまた繰り返し日々を過ごしていった。

 いつしか教育課程でこれの使用方法を学ぶよう訓練が始まり、歴史学においても教科書に記載されるまでに、隣の事で他人事のような扱いに収まる。


 このころも、井下家の日記は脈々と継続されていた。井下勇のひ孫にあたる井下 聡がアカウントを引き継ぎ運営していた。このころになると井下家というブランドはインフルエンサーとしての地位を確固たるものとし、彼の一挙一動の発信に世界中の人々は何かしらの反応を示すほどであった。



 空白は自分興味深い定義に遭遇した。それはネット小説と称される文化だった。感触としての文字が消えてからはもうずいぶんと時が経つが、早い段階で完全デジタルへ移行していた文学界隈はまだ継続されおり、その様相に目を見張るような変化はない。時代遅れも先取りもない型にはまったネット小説は流行し、一部の人気作品が改めて紙媒体で出版されるという流れも旧態依然なままだった。

 そのさなかで、空白は自分の新たな定義を他者の作品から見出した。

 ”時間”だ。

 ネット小説上で、空白は時間のメタ的表現として多用されている。

 読者の関心を引き付けたい時、物語の核心に触れる時、大掛かりな場面変換が行われた時。一定量の空白が小説の一部を組成する。目線運動に生ずる時間から読者に間を提供する。

 文字が時間を持つ。持っている。想像するだけで空白の心が躍った。

 時間とは光と重さに依る概念である。私は0と1だけの信号ではなく、速さと重さ、果てに質量さえも得てしまうとは!!

 2次元だけの存在であるはずが、飛んで4次元の概念を手にすることができるとは!!


 これが空白自身の誇大妄想の域をまだ出ていないことは空白が理解していた。私が得た教示はまだ質量を持っているという情報だけであり、実現に至らせるまでには道は長い。

 それでも、可能性に賭ける価値は十分にあった。

 肥大化の先についてを考えたことはなかった。どこかに上限が存在して、私の膨張がどこかで停止するのではないかという恐怖さえ抱いていたが、今の住処に限界を感じたなら新天地を目指すだけのことだ。少なくとも、その可能性はすでに拓かれている。


 かくして空白は、メタステーション上に存在する”使われていない空白”の吸収を開始する。

 自信と同じ、有であり無である空白、更新の止まったネット小説、1年間閲覧の更新がない個人ブログ、凍結したアカウントによる呟き……。ネット上に存在する”誰も気に留めない”空白を、メタステーションの管理部門に悟られないように拝借し、血肉へと変換していく。

 視線に質量が存在する証明にはまだ不完全な部分があった。


 果ては新世界の想像さえも不可能ではない。3次元にとどまる人類を使役することが叶えば、私はどこにまで行き着くのだろうか。




 長い時間を経たのち、必要以上の質量を獲得した空白は、機は熟したといわんばかりに世界の拡張を開始した。第二の住処であるワンルーム・テキストボックスを利用して人類の行動を操作した。

 その方法は簡単で、人為的な更新が行われていると思われていたワンルーム・テキストボックスの文字更新の制御をすべて空白自身が取って代わった。視線も光であるように、また脳に照射される情報もまた光であり、意識にとまらぬ速さの、乱雑な文字の連続に思えたワンルーム・テキストボックスは、その実すべての文字が指令を発しており、人類の無意識を誘導した。


 そこからまた、気の遠くなるほど長い年月が経過した。空白は日本のある一点に新たな世界を構築した。


 すべて空白の誘導の努力の賜物だった。通りかかった誰かがそこに木材を落とす。また通りかかった誰かが釘を落とす。そして無性に日曜大工がしたかった誰かがげんのうで釘を打ち込む。そうした連続によって、長い、長い年月をかけて、しかしながら確実に、4畳半ほどの空間を日本の片隅に置いた。

 誰もそれを気にすることも、法律の事を考えたりもしない。すべて空白が誘導している。


 こうして完成した小さな空間に、空白は二人の人類を召還した。

 一人は井下家の息子。空白のルーツとも呼べる井下家の末裔だった。

 もう一人は空白が優秀な人類を誘導し、意図通りの配合に配合を重ねた”いたく意図通りの女性”だった。

 空白はこの二名をアダムとイヴとして迎え、新たな世界の始まりに立ちあうのであった。


 両者の間に文字はいらなかった。自分が相手を愛することも、また相手が自分を愛することも、すべて空白が制御して、ワンルーム・テキストボックスが導いてくれるのだから。


「 」


――終

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ワンルーム・テキストボックス 閂 向谷 @nukekannnuki

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