ワンルーム・テキストボックス

閂 向谷

本編1

 23世紀も終わろうとしていた頃、世界中の文字から触覚が消えた。


 発端は21世紀の後半にまで遡る。

 ある脳科学者と印刷技術者の共著として発表された”視線に存在する質量の証明”は、多くの技術革新をもたらす礎となった。


 一般に、運動を行う際は脳で下された指令が脳幹部を介して脊髄へと伝達され、そこからニューロンの交信によって筋肉の収縮、つまり動作へと反映される。

 歩行、ジャンプなどの動作のみで完結する信号ならばそれは単純なメカニズムと呼べるだろうが、例えばそれが「年越しの瞬間にジャンプをする」という条件がつけられたとき、もう一段階だけ踏み込んだ処理を行う事になる。

 滞空時間を逆算し、タイミングを見計らうという手順が増えるためだ。


 これは他生物にとって、訓練が施されない限りは完全に再現不可能な行動であった。

 理由は単純で、時間の単位も西暦のつけ方も新年を空中で迎える価値も、全て人間が取り決めているからである。


 人類は、”条件を伴う動作”に対して応用を利かせることに長け、脳と肉体が一体化した生物へと進化の舵を切った。これこそが、未だ生物界の頂点として君臨している理由の一つであった。


 先に挙げた”条件を伴う動作”の中でも、特に、ペンを握って文字や絵を紙面に出力する時、脳はより複雑な挙動を行う。

 脳にのみ存在するイメージを、腕などの運動に介して出力させることになる。つまり、自分の中にだけ共有されるビジョンは脳の中で信号に変換され、伝達され、筋肉の収縮という過程を経た後で、改めて紙面に出力されるのだ。

 まさにレーザープリンターの構造にこの発想が用いられている。


 私たちが書こうとする文字は脳で浮かんだものではなく、それを変換し、筋肉に伝えた後での描写となり、紙面に出力されるのは”2次的情報”だった。


 この一連性あるからこそ書物やイラストの再現性には個体差が生じ、それをクオリティという尺度より優劣を決定する。そして、鍛錬や才能といった言葉が意味を伴って用いられているのだ。



 さて、”視線に存在する質量の証明”に関わる技術発展のさなかで開発された”思念描写しねんびょうしゃ法”は、介護や医療現場の発展に大きく貢献した。

 これは、視線の持っている質量の内訳を機械によって感知、解析し、タブレットパネルへ直接的に描写する技術である。


 既に現場で実用されている文字入力手法として”視線入力”は導入されていたが、これらはあくまで手足や喉の代用として視線を用いる、到来と同じ”2次的情報”の伝達手段であった。対して、思念描写法は脳で想像した絵や文字を的確に出力、つまり完全なる脳内情報からの直送、いわば”1次的情報”を出力することが可能になった。


 視線が含有する情報によって、発信した脳内のイメージの再現が可能となったのである。

 これにより、声帯を使った直感的な会話が難しい人たちにとってより正確な、そして円滑なコミュニケーションを実現してみせたのだ。



 この動作に必要とする機械――思念描写機と呼ばれる――も初期型はフルフェイスヘルメットさながらのヘッドギア型であったが、技術の進歩に伴い小型化に成功する。半帽型、ゴーグル型、サングラス型、モノクル型などの変遷を経て最終的にコンタクトレンズ型まで到達。


 初期費用こそ安くはなかったが、破損や紛失にさえ気を遣えばランニングコストは一般家庭でも十分に捻出が可能であった。


 一時的に小サイズ化が煮詰まった後年には、出力彩度やフォントサイズに制限を設けた代わりに価格を抑えた普及版も登場し、人々の手に広く行き渡る。

 教育施設でも導入が始まり、義務的な配布となった思念描写機は小学生ならば誰でも手に取り、扱うことが可能となった。


 伴い、必然的にペン類の需要は激減。もっとも、以前より液晶端末の登場によって多くの役所手続きや書類入力が電子上で完結してしまっていた時代ではあった。

 到来的なアナログペンは極限にまで需要が低下しており、一部の愛好家や時代へのアンチテーゼを好む者達のための嗜好品となっていた。

 まさに風前の灯火にとどめを刺す時流であった。


 本屋の文房具コーナーは目に見えて縮小され、文房具専門店は閉店や他種類の商品の扱いを増やすなどの対応に追われた。

 そして22世紀の終わりごろには大手文房具メーカーによる鉛筆生産の終了が決定。いよいよ市場からペン類は完全に消失した。連動して、ペンが存在することで意義も見出されていた消しゴムやルーズリーフ等も消失する。

 あとは世に流通した全てのインクが消費され、全ての鉛筆もシャー芯も引き出しのストックが尽きる瞬間を待つばかりとなってしまった。



 それからおおよそ一世紀。



 思念描写機はいよいよナノチップサイズとなり、教育課程履修の条件とするインプラントとして全ての人々の角膜へと埋め込まれるに至る。


 文字の書き方が完全に思念描写に置き換えられた人類に必要となったのは、音としての文字、記号としての文字だけだ。”ペンの感覚”として残された文字、すなわち触覚は完全に失われる。


 かくして23世紀も終わりごろ、世界中の文字から触覚が消えた。





 これも十四字の文章である。 


 突飛のない文字列が登場したことをで申し訳なく思う。しかし、ここからは、この文章が大いに重要となる。その理由についてをこれから紐解いていくわけになるが、先に取り決めておくことがある。

 人類史に大きく影響することとなるこの一文のことを、以降、”文章A”と称する。





 時間は巻き戻され、22世紀の後半。ペンがまだ完全には形骸化していなかった時代の話。


 かつてはライフスタイルや目的別にアプリケーションが乱立し、群雄割拠の時代もあった各種SNS達。これらもまた時流に翻弄されたひとつのコンテンツに過ぎなかった。


 別の銀河体系で戦場となった母星を追われた武装勢力が結束し、新たな居住地を目指して地球へ降り立ってきたのだ。南米の一部を武力によって占拠した後、ここに独立国家を成立させるべく、人類史上初の対地球圏外生命体との軍事戦闘記録である”エルサルバドル事変”が勃発。

 幸いにも異星人達と人類の文化レベルは渡り合える程度には拮抗しており、数でも物資でも勝った国連軍の連携によりこれを撃退に成功。


 地球外生命体の存在は明るみとなったが、以降、地球外生命体のコンタクトは全て失敗に終わっている。この部門についての研究は、以降の進展は何もない。


 この戦闘において、勝敗と共に歴史の行く末を左右するほどの価値観の一新があった。それこそがSNSだった。


 参戦した加盟軍の情報部門だけではなく、民間のジャーナリスト、各種専門家、義援兵、戦地近くの一般市民などによる情報を通した連携や考察が勝利に導いたと各国は認めざるを得なかった。それほどまでに国連軍はかつてない規模の連合軍軍事行動という点に苦戦を強いられていた。


 エルサルバドル事変をきっかけにSNSの統一化の重要性を再確認した国連軍によって、SNSの存在意義はその様相を一変させる事となった。


 当時世界各国の企業によって乱立していたSNS達は、今後遭遇しうる新たな脅威に抗うべく、すべての国家が連携した地球連合軍が運営する一つのSNSへの集約。そして管理下に置かれることになった。それに伴い法も整備され、SNSを民間が運営することは実質的に不可能となる。

 こうした経緯で肥大化した国際大手SNSは英語圏で超と駅の二つの英語を組み合わせた”メタステーション”と名称が決定。日々誰かが、そして誰もがアクセスして自由な言論を発するそこへ、文章Aは静かに投稿された。





 投稿者のハンドルネームもとい本名は、井下いげいさむ。関西に在住する一般家庭の当主で、機械製造業に従事していた。


 井下家は江戸時代より続く先祖代々から、「井下 文書もんじょ」と称される手記の記入を毎晩欠かさぬよう定められていた。

 ルールは極めて単純で、一行からなる手記を、一日が終わるまでに必ず記入すること。

 紙に書く事を絶対としてきたので、井下家のしきたりを取り決めた初代は由緒正しき紙の市場であった大阪府は北船場――現在の高麗橋2丁目――で大量に購入した脇紙を余すところなく使用していた。

 時代が進むにつれて欧米諸国からはパルプ紙が輸入されるようになったり、糸綴じの大学ノートが流通し始めたりと紙自体の入手ルートは緩和されていくため、時代に即した紙面に記されていく。紙の流通の歴史という観点からでも価値のある文書群であった。昭和45年以降は無線綴じノートとを導入し、現在にまで至っている。


 内容は時代ごとの当主によってさまざまで、律儀に5行程度の具体的な手記を記していた時代もあれば、粗雑に起きた物事だけを記すだけの時代もあった。また、ある時はアイドルやアニメについて愛を語っている時代もあれば、家内への悪口だけを書いたりする時代も、小説を連載していた時代もあった。

 第二次大戦中は従軍することになった為に一時的に書物としての更新が途絶えたが、新聞の端や板木、使用済みのガーゼなどに記したものを手土産に井下家の当主は時代を生き延びた。どのような情勢にもまれようとも執念深い継承は続けられてきた。


 井下勇は、当時すでに主流であった思念描写の台頭によって、以降の井下文書の進退について危惧した文章を中心にしたためていた。自身の角膜にも思念描写機は埋め込まれていたが、伝統を重んじ、ペンの流通終了前に大量購入したボールペンで最後まで手書きの文字に拘った。

 残されたインクとノートのことを憂いながら、言葉を選んで。要点を絞って。されど、日記としての体裁は保たれるようにと注意して。


 しかし、限界は訪れる。

 いよいよ最後のボールペンが、インクではなく筆跡だけをノートに走らせるようになったのは、井下勇が58歳の時だった。

 インターネットで古物や骨董品として出品されていた文具類も可能な限り購入して延命を試みていたが、いち個人の財力などたかが知れていた。


 そして来たる日、井下勇は日記の形態をSNS上に移転することを決意。


 当初こそネットの海を組成するいち泡沫にしか過ぎなかった文章Aであったが、彼のアカウントの登場、そして文章Aの投稿により、後日、井下家の事情を知る知人たちが意味を悟った。

 「日本で最後の手記が終わった」という引用の投稿から始まった小さなムーブメントは、歴史考古学者、地元紙、大手メディア、芸術家、インフルエンサー達から始まる世界中人々から脚光を浴びる。

 価値を見出され、歴史を振り返らせ、そして新たな時代が切り開かれた実感を伴わせ、多くの人々に共感される。


 まるで山火事のように文章Aの存在は拡散されていった。



 さらに注目されたのは、文章Aは、文章が指す内容と異なり実際には十五文字で構成されていたことにある。

 句点の後ろに一文字分の空白記号、スペースが存在していた。キーボードの誤タイプによるものだとされていたが、その簡潔な自己矛盾に神秘性さえも見いだされ、メタステーションを中心にネット上で盛んに引用された。

 手打ちでタイプされた文章Aの末尾に空白が存在しない場合は理不尽なほどの糾弾を浴び、それさえもミームの一形態として根差されていくことになる。



 毎日、浴びるようにして情報を見聞きしながら生きていた22世紀の人々にとって、文章Aは「誰もが一度は見た事のある文章」へと昇華され、異なる言語圏においてもそれは文字ではなく記号の羅列として、意味は翻訳されて認知された。


 思念描写が質量を描写してきたように、脳に描写される情報にもまた質量が存在した。

 そうして時系列は23世紀へと合流していく。

 世界中の人々の潜在意識を通じて浸透していった文章AはDNAに組み込まれ次代へと引き継がれていった。際限なく拡散していく文章Aは、もれなくすべての人類のDNAに刻まれ、またこれから生まれゆく子供たちにも等しく刻まれることとなった。

 最後の人類が文章Aの文字列と意味を学んだその瞬間、文章Aの末尾の空白スペースに異変が起こった。

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