第38話 最期に一度だけ
目を覚ますと、夢路は常闇の空間に浮かんでいた。
天地の区別がつかず、重力にも縛られず、まるで深い海の底に沈んでるみたいだ、と彼女はぼんやりと思った。なぜここにいるのだろう、と記憶を辿り、
「……ああ」
巨大な蛇に食われたのだと静かに思い出す。しかしどこか、そこは蛇の胃の中というより揺蕩う海中のような心地よさがあった。
自分は死んでしまったのかもしれない。そして最期に見る夢の中にいるのかもしれない、と夢路は暗い世界で瞳を閉じた。瞼の裏で、先に食われたという男の姿を思い浮かべる。
「最期くらい……会っておきたかったな」
河童を探しに二人で山奥を探検し、相沢の滝を探り当てた。淵に引き摺り込まれそうな自分を、晴臣が引き上げてくれた。
座敷童子を探しに皆で山に入り、嘉兵衛に銃で襲われ大木が折れかかってきた。あの時不自然な方向へ飛んでいった幹は、きっと晴臣が密かに吹き飛ばしてくれたのだろう。
アリスを尾行しようと言った時は、面食らいながらもついてきてくれて、一緒に電車に揺られた。
琴子を探しに行った山中でヤマハハと遭遇した時も、天狗の姿を明かしてでも助けてくれた。
幼い頃、迷子になった時だって、帰り道を案内してくれた。
いつだって文句を言いながら傍にいて助けてくれたのに、さよならも言わないまま、言えないままいなくなってしまった。夢路は胸の
――もう一度だけ、会えたなら。
そう、瞼の裏に願った。
「……ん?」
ふと視界の端に光が瞬いて、夢路は目を開いた。
それは一見すると糸だった。遠い闇の向こうで白い光を放つ糸が、遥か上から伸びていた。上下左右の感覚の失せた異空間で、それは唯一の道標のように見えた。
光に触れようと、夢路はそちらに向かって手を掻いた。泳ぐように飛ぶように、明かりのない宇宙の闇を進んでいく。
髪の毛のように細い糸だと思っていたそれは、やがて綱のように、そして流々と流れる滝のように太くなり、目の前に近付く頃には力強い光の大柱となり、夢路の前に現れた。煌々と白い光を放つそれは一切があらゆる方向へ流れていて、あたたかい気配と懐かしい匂いを伴っていた。
自然と、夢路はそれに手を伸ばす。
彼女の掌は光にやわらかく包み込まれ、そして誘われるように身体を引き込まれた。怖くはなかった。
真っ白な世界で、一際光を放つ塊が所在なさげに浮いている。不思議と夢路はそれが何なのか分かる気がした。目の前に感じる気配に心から安堵し、そして眩しい光を抱きしめた。
「ここにいたのかよ……探したぞ、ハル」
夢路の腕の中で、あたたかい光はみるみるうちに確かな形をとり――いつもの黒シャツに茶髪の青年が現れた。
晴臣は眠りから覚めるようにゆっくりと瞬き、己の胸に飛び込んだ少女を見下ろした。
「――ゆめ?」
「わっ、わっ、え……ハル、本当に……本物……?」
この数ヶ月間探し続けていた男が突然現れ、そしてその胸にひしとしがみ付いていたのが急に恥ずかしくなり、夢路は慌てふためいて彼から離れた。
何度瞬きしても目の前に晴臣がいる。それだけで、夢路は涙が滲むようだった。
晴臣は己の掌を見つめ、人間の姿で再び形をとった己の身体を見回す。
「俺……なんで」
彼に残る最後の記憶は、少年の操る黒い大蛇に食われたところでぷっつりと途切れていた。そこで死んだのだと思っていた。現世に顕現する身体を失い魂だけの存在となり、蛇の養分として吸われる定めでしかなかったはずの自分が、なぜここにいるのか。
訝しみ、そして夢路を見て合点がいった。
「ああそうか、ここに残ってたんだな……」
その両耳に微かに残る気配を感じ、指でそっと彼女の耳のピアス穴に触れる。夢路が肌身離さず付けていたピアス――元は『契りの金子』。天狗の力の欠片が彼女の望みに作用したのだろう、と晴臣は納得した。夢路がそう願ったのか、と彼は気恥ずかしさに目を伏せる。
当の本人も、恥ずかしさと気まずさと驚きと嬉しさと――様々な感情を綯い交ぜにして爆発させる。
「バーカバーカ! いきなりいなくなりやがって! お前がいないのに早池峰祭始まっちまっただろうが!」
「いや、あの……ごめん、悪かった……」
「準備どんだけ大変だったと思ってんだよ! お前がいなくて……いっぱい探したのに出て来ねえし」
「知ってるよ……余計悪いことしたと思ってる。反省してる」
「嘘吐け! 絶対思ってねえだろ!」
「思ってる……ごめんて、本当」
「……もう二度と急にいなくならないでくれよ……お前が人間だとか人間じゃないとか、そんなのあたしはどうでも良いんだよ……」
「分かった、泣くなよ……もうどこにも行かないから」
次第に泣きじゃくり出した夢路は、そのまま顔を覆って俯いた。その震える肩を、晴臣は少し迷って正面から抱きしめる。
びくりと大きく揺れた彼女は、しかしその額を彼の胸に委ねて泣いた。いつも大きな口を叩いていた少女の小さな背中を抱き、晴臣は黒髪を優しく撫でる。
しばらくそうして、彼はゆっくりと言い聞かせるように口を開いた。
「……俺は遠野の天狗だ」
「うん」
「だからゆめや皆と生きる時間が違う」
「……うん」
「お前より遥かに長生きする」
「……それはちょっとズルい」
「寿命はどうしようもねえだろ……これでも百歳超えてんだぜ」
「知ってるよ」
「好きな人ができても今まで諦めようとしてた。絶対に置いて行かれるって分かってるから」
「……うん」
「でも無理だ。ゆめ、お前が欲しい。お前と一緒に生きていきたい。お前が死ぬ最期の瞬間まで、俺に見届けさせてくれ」
それまで晴臣の胸に顔を埋めて聞いていた夢路は顔を上げた。その潤んだ瞳を見返す彼の表情は真剣そのものだった。その顔に少しだけ目を細め、夢路は笑った。
「……もっと気の利いた事言えねえのかよ」
「……………好きだ、ゆめ」
ほんの少しのためらいを飲み込んで、晴臣は夢路に口付けた。
同時に、彼女の耳朶が金銀の光を纏い、元のように左右七つずつのピアスへと姿を変える。人間でいうところの婚約指輪の代わりのそれは、愛を契りやわらかい光を照り返した。
しばらくお互いに唇を吸っていたが、ふと夢路は我に返り、晴臣から勢いよく離れた。真っ赤な顔で口元を押さえ、堪らず叫び出す。
「わーっ! わーっ! しちゃった! ちゅー!!」
「小学生かよ……お前見た目バンギャの癖に
「うるせえ!!」
どさくさ紛れに晴臣の胸をぼこすか殴る夢路。ファーストキスの味は緊張でよく分からなかった。
気恥ずかしい空気を紛らわすように、晴臣は周囲を見回す。
「……ゆめ、まずはここから出ないと」
「宛てはあるのかよ」
「ないな」
「無鉄砲かよ」
「お前に言われたくねえ」
呆れるように彼はそう言ったが、口元は笑っていた。夢路も笑った。
いつだって、二人はそう笑って無理難題を乗り越えてきた。
晴臣は片手で夢路を胸に抱き寄せ、もう片手を果てのない暗闇の空へ差し出す。
夢路は彼と同じく空を見据える。その瞳は星雲の如く輝いていた。
「困ったときは一点突破だ!!」
周囲の光柱から力を借り、彼が放った無数の矢は白い光を纏って、常夜の空高くを穿った。
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