第36話 跋扈する怪異達
(前略)ある
――遠野物語9
夏も終わり少し冷たくなってきた夜風に吹かれ、塾帰りの少年は自転車を走らせ自宅へ急いでいた。うっかり忘れ物をして塾へ取りに帰っていたら、辺りが暗くなってしまったのだった。
周囲を田んぼに囲まれ街灯が少ない田舎道を、せっせとペダルを漕いで走り去っていく。
前回の模試の結果が返却され、それが彼なりにとてもいい結果だったので、少年は気分が良かった。
きっと両親に伝えたら喜んでくれるだろう。そうほくそ笑み、少年は上機嫌に口笛を吹く。
向かい風に乗って消えていくはずだったその音色に、応える者があった。
「面白いぞううううう!!」
それは田の奥底から響く、地を轟かすような低い男の声だった。思わずブレーキをかけ、少年は立ち止まる。
そこらをキョロキョロと振り向くも、声の主と思しき者の姿は無かった。ただ声の余韻が耳の奥にビリビリと響いている。
聞き間違いかと思って再び前を向いて自転車を走らせると、
「はーっはっはっは!!!」
空気が割れるような大声が、心底愉快そうに少年を揺らした。先程と同じ男の声だ。それはまるで少年の怯える様を楽しんでいるようだった。
「ひ……うわああああああああああああ!!」
恐ろしくなった少年は、一目散にペダルを漕ぎ去って行った。
「……ってことがうちの近くであったみたいでねえ」
学祭の開催告知ポスターを丸めながら、琴子は彼氏から聞いた話を語った。それ自体は小学生の不審者遭遇情報といっても過言ではないような内容だったが、実行委員のメンバーは神妙な面持ちで聞いていた。
「……
「やっぱり妖怪だよねえ……」
同じくポスターを丸め、解説する総司郎。輪ゴムのかかったそれらを箱にまとめながら、夢路もそういえば、と口を開く。
「昨日、うちにも出たんすよ。窓の外に、ぼーっと白い鹿が浮かび上がってて。何だと思って慌てて窓に駆け寄って開けてみたら、ただの岩だったっていう。元々そんなとこに岩なんて無かったんすけどね……」
「先週には隣町で、自宅の軒先で見知らぬ男性が亡くなっていたのを発見して、警察に通報して現場に戻ってみたら死体が消えていた、って事件もあったわね」
腕を組み、アリスも追随した。
彼らの生活の傍に迫る、不可思議な出来事。それらからは、これまで遠野の山奥で出会ってきたような妖怪との邂逅と似たような気配を感じていた。
眼鏡をかけ直し、総司郎は新しいポスターへ手を伸ばす。
「遠野の山にひっそりと隠れ暮らしていたであろう妖怪達が、何らかの理由で山を下りている、ということなのでしょうか。猿や熊が餌を求めて人里へ下りてくるのは分かりますが、妖怪達は狙いが分かりませんね」
「今のところ実害は無いみたいだから、ただ単に人間を驚かせて楽しんでいるようにも見えるけどね」
良い度胸してるわ、とアリスは新しくできたポスターの筒を箱の中に放った。
「ハルくんなら、何か分かるのかなあ……」
思わずぽつりと呟いた琴子の言葉に、夢路はポスターが詰まった箱を抱えて目を伏せた。
晴臣が姿を消して早三ヶ月。きっと春に集まったあの五人で
その様子を見るや、アリスは小さく溜息を吐いて丸めたポスターを手に取り、夢路の頭をすぱこーん! と打ち抜いた。美しい軌道だった。
「いてえ! 何すんだアリス」
「……もう諦めなさいよ夢路。散々探していなかったじゃない」
今しがた振るったポスターを箱に戻しながら、アリスはそう言い放つ。晴臣の行方など彼女も知りたいくらいだったが、それは夢路も、そして総司郎も琴子も同じことだった。
かといっていつまでも沈んでもいられない、とアリスは鼻を鳴らす。
「万が一のこのこ帰ってきたら、これまでサボってきたツケを払わせてやるけどね……ほら夢路、そこの箱全部駅前の商店街に配ってきて」
「へいへい」
何らかの仕事を与えられた方が考え事をしなくて済む夢路は、素直に委員長の指示に従ってポスターの詰まった箱を抱え上げる。
十一月の学祭本番を一ヶ月前に控え、準備は大詰めに入っていた。
秋の夕暮れ、窓の外に散りゆく楓を横目に見ながら、箱を抱えた夢路は釈然としない心を胸に教室を後にした。
しんと静まり返った白樺の森で、晴臣は足元に転がる礎石だったものに触れ、片手で印を結んだ。翡翠色の瞳をすっと閉じ、一族に古くから伝わる結界術を
ここは現世と幽世の狭間、遠野の神のみが足を踏み入れることを許される禁足の地――遠野の裏側である。森は外界の揺らぎに曝され静謐さを欠いていた。
血色の掌の中の礎石は呪言に応じて仄かに光を帯びたが、やがて力を失うようにその灯火を消した。
「……やはり駄目か。俺の力じゃ……」
晴臣は目を細め、苦虫を噛み潰すような顔で肩を落とした。一度壊れてしまった遠野を守る結界は、彼には修繕することはできなかった。
術自体は簡素なものだが、それは大昔の力がある天狗が数人集まって成せる業であった。子供の姿のまま長らく修行もせず、そしてたったひとりとなってしまった晴臣の力ではどうする事も出来なかった。その事実に彼は唇を噛む。
そんな彼をせせら笑うように、軽やかな少年の声が木々の間からした。
「やあお兄ちゃん。初めまして」
「何だお前、どこから」
虚を突かれた晴臣はそちらを振り向くと、七歳くらいの坊ちゃん刈りの少年が白樺の根を越え近付いてきていた。
気配を消していたのか、数メートル近くに至るまでその禍々しい空気を感じ取ることができなかった晴臣は、警戒感を露わにする。
サスペンダーの少年は口の端を曲げるように笑う。
「遠野の守り人として生きてきた天狗の一族。その最後の生き残り。お兄ちゃんがいないほうが、色々と都合が良いんだよね。素直に魂を差し出してくれたら――」
言い終わるより前に晴臣が腕を振るうと、無数の白樺の葉が刃物のように鋭く尖り、全方位から少年に襲いかかった。
息吐く暇のない葉の矢の雨を受け、しかし少年はその姿を影のように揺らめかせ笑っていた。
「あはは、手荒いね」
「……お前、何者だ」
まるで手応えのないその笑みに、晴臣の背に冷たい汗が伝う。遠野に百余年もの間棲まう彼でさえ、少年の正体は伺い知れなかった。
「どうせ僕には敵わないんだしさ、あんまり消耗したくないから、大人しく協力してくれるとありがたいなあ。黒髪にピアスのお姉ちゃんは素直に手伝ってくれたよ?」
「ゆめに何をした……!?」
晴臣は新たに無数の白樺の枝を宙に掲げ、研ぎ澄まして少年に放った。土煙が視界を遮り、腐葉土の匂いが辺りに立ちこめる。
舞った塵芥が静かに地に降ると、やはり余裕の表情の少年が微動だにせず立っていた。
「さあ?それ聞かれて言うと思う?」
そうはぐらかし、少年はゆらりと手を挙げた。すると白樺の根が命を得たかのように地上に伸び、瞬く間に晴臣を縛り上げた。
「ぐ……!」
「ははは! 遠野の山の神と謳われた天狗もこうなると呆気ないね」
遠野の山の一切は表であろうと裏であろうと天狗の意のままのはずだったが、その理を無視して己を縛り上げている、その事実に晴臣は忸怩たる思いだった。
「信じられない、って顔してるね。うんうん。自分の庭で自由にできないようなもんだよね。……遠野の皆さんの魂が、僕に力を与えてるからかな。さすがに多勢に無勢だよね、天狗と言えど」
「お前、まさか遠野の怪異達を――」
少年は小さな爪先で何かに合図を送るように地面をトントンと叩く。二人の間の大地を割って現れたのは、黒鉄の鱗を持つ大蛇だった。その胴は列車の如き太さを持ち、金色の瞳に浮かぶ縦に割れた瞳孔は嘲笑うように晴臣を見つめている。
まさに蛇に睨まれた蛙のように、彼は息を呑み動きを止める。
「せいぜい他の仲間達と胃袋で溶けあって僕の養分にでもなっててよ」
少年が手を振ると、黒蛇は待っていたと言わんばかりに晴臣を一思いに飲み下した。悲鳴を上げる間もなく、彼はその口内へ消える。
遠野最強の神を喰らい、蛇は満足そうにとぐろを巻いた。その頭を撫で、少年は誰もいなくなった白樺の森にほくそ笑む。
「それで見てなよ……僕らの百鬼夜行を」
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