第35話 早池峰の頂にて

 岩手県の誇る瞬峰、早池峰はやちね山。古くから霊山として、また遠野の山の神の住まう地として畏れ、崇められてきた岩山のその切っ先にひとりの青年が腰掛け、夜月に照らされた森を静かに見下ろしていた。

 白い山伏やまぶし装束の彼の肌は暗がりに溶けるように血色に染まり、ただ翡翠色の瞳だけが夜闇に浮かぶように瞬いている。

 その背に声をかける者がいた。

「ほっほっほ、よ、今日は月見日和じゃの」

「……その呼び方はやめて下さいよ」

 夜風に赤半纏を揺らして現れたのは、幽世の住人にして遠野の語り部・乙爺だった。

 茶化すような彼の物言いに、血色の肌の青年――晴臣は目を伏せる。

「大人になれもしない未熟者の俺に、そのように呼ばれる資格はありませんので」

「難儀な掟じゃのう。人間の娘を攫い契りを交わさねば、子供の姿のまま永劫生き続けると。そうしてどれだけの天狗が残ったのやら」

 好々爺は溜息を吐く。晴臣の隣に腰掛けると、森のどこかでフクロウが鳴いた。二人が遠野の山で出会ったのは明治の頃だったが、少なくともその頃から乙爺は晴臣の姿形が変わったようには見えなかった。

 天狗の青年は遠い雲間に在りし日の先達を思い浮かべ、瞳を閉じる。

「もう俺しか残っていません。……皆、時代の流れに抗わず寿命を全うし、魂は遠野のくびきを超えて消えていきました」

「あるべきところに還った、ということか。山の神といえど、世は厳しいものよ」

 遠い昔にひとり、またひとりと消えていった同族の顔を思い出し、晴臣は人里の遠い街灯りの方へ目を遣る。人工の白い光が星明かりより眩しく瞬いていた。

「でも、それでいいと思うのです。野山が人間の手によって開かれてから、遅かれ早かれ物語の怪異は人間に遠く忘れ去られ、消えていく定めだったのですよ」

「そういう小僧は人間にやたら肩入れをしておったように見えたがのう。少なくとも遠野の山の神が人に化けてあの小娘らとつるんで現れた時は、儂ぁ笑いを堪えるのに必死じゃったぞい」

「……あれはもう半分成り行きのようなもので」

 カラカラと笑う乙爺に、晴臣は多少バツが悪そうに苦い顔をした。

 彼は十数年前に紛失した天狗の婚礼に使う金子きんす銀子ぎんすを探し遠野の山々を隈なく探すも見つからず、度々人に化けて山を下りていた。

 人の多い大学構内を彷徨っていたのが運の尽き、暇そうな新入生と勘違いしたアリスに見つかり拉致され、学園祭実行委員会に強制入部させられ、何の因果か妖怪探しに加担することになったのだった。

 人の姿に化けていたため多くの妖怪に素性はバレていなかったようだったが、乙爺だけは見破っていたようだった。これまで乙爺が彼のことを夢路達に黙っていたのも、温情というよりただ単に面白がっていたのだろう、と晴臣は呆れて頭を振った。

「まさかゆめが契りの金子を拾っているとは」

 初対面のときは一見して分からなかったが、夢路と一緒に電車に乗った際、近くで見て確信した。彼女のピアスの纏う霊力は、紛れもなく自分の力と呼応していた。

 本来は身に付けただけでは婚礼成立とはならず、彼女も怪異と触れ合うことは出来ないはずだった。

 恐らく河童探しの際、池に落ちそうになった夢路に晴臣が手を伸ばし、その拍子にピアスに触れてしまったことで契りの金子が誤作動を起こしてしまい、幽世と現世の境を超える力を与えてしまったのだろう。次々と目の前に現れる遠野の怪異に内心首を捻っていた晴臣は、今はそのように納得していた。

 ほほ、と乙爺は笑う。

「儂もまさか天狗が己の婚礼道具を失くしておったとは思わんかったわ。てっきりあの黒髪の娘に贈り、恋仲になったものと思っておったがの。耳飾りも良く似合うていたし。娘は何の事やらとぽかんとしておったが」

「え、ちょっと、ゆめに何か言ったんですか!?」

 思わず素に戻って食い付く晴臣。

 見た目の年相応の反応に、乙爺は我慢できずに声を上げて笑った。

「案外楽しんでおったんじゃないのかの? 何も言わずに去った事、後悔しておらんのか? あれから山に入ってお主の事を探しておるよ、小娘らは」

 そう言われ、晴臣は返す言葉もなく気まずそうに目を逸らした。乙爺の指摘は図星だった。彼自身も、あの四人が度々遠野の山に入っては探し回っていることは知っていた。それでもなお身を隠しているのは、単に気まずさや気恥ずかしさによるものではなかった。

 およそ百年ぶりに飛び込んだ人の輪は賑やかで慌ただしく、晴臣は自然と惹かれていた。

 だからこそ、彼は人間との間に線を引く。

「……俺が人間ではないと明かしてしまった以上、あまり無闇に近付く訳にもいかないでしょう。妖怪や乙爺達のような幽世の存在が現世の人間に干渉できてしまっているのは、ひとえに俺の力といつか失くしたこれのせいです。怪異の存在は彼らの範疇を超える。人間達に危害を加えないためにも……彼らとは距離を取るべきです」

 頑なともとれる言葉が、乙爺の目には寂しそうに映った。

 晴臣はなおも続ける。

「遠野の怪異達が人々に忘れ去られ円環の理の向こうに消えていく最後のひとりになるまで、俺は黙って見届けるつもりです。それが遠野の天狗の俺にできる最後の役目だと理解しています。俺達はいずれ消えゆく存在ですから……その流れには逆らわない」

 遠野の山に棲まう魂が幽世のその向こう、次の命を得て現世に下るか無に還るまで、彼はここでひっそりと神としての役割を果たそうとしていた。それについては口出しをする立場にない乙爺は黙っていたが、目の前の青年の心残りを誘うように口を開く。

「でもいいのかの? あの黒髪の娘、何か良く分からないものに巻き込まれたかもしれんぞ」

「は?」

 意図が分からず、乙爺を振り向く晴臣。そこにはいつもの好々爺の顔があったが、月明かりに細められた目は笑っていなかった。

「ほれ、遠野のかこいの外に出る者の話を耳にするが、主は知らんか?」

 遠野郷をぐるりと囲む、現世の者には見えない結界。それは遠野の山に棲まう怪異達が外に出られないようにする柵でもあり、幽世の余所者よそものに安易に手出しをさせないための塀でもあった。

 それはここが遠野と呼ばれるより遥か昔に、この地に腰を下ろした神々が己の力の及ぶ範囲に巡らせたものだった。

 晴臣の頭に、その外で出会ったヤマハハの姿が浮かんだ。夢路達と別れてきたことばかりが頭の大半を占めていたので完全に忘れていた。

 あの時厳しく灸をすえたためもう自ら出て行くことは無いかもしれないが、本来であれば囲を出られないはずのヤマハハが、遠野の外で割拠していた。

 嫌な予感がして、彼は装束の袂から長い数珠を取り出し、目を閉じて印を結ぶ。そしてはっと目を見開いた。

「結界が……壊れている? なんで……」

 遠野の裏側に隠された五つある礎石のうち三つの気配がせず、晴臣は狼狽えた。残り二つでは線しか結べず、囲として機能を果たさない。今の遠野は幽世の者にとって丸裸だった。礎石に掛けられた結界術は向こう千年は崩れないものであったはずなのに、と彼は訝しむ。

 しかし術自体が簡素であるので、礎石は幽世と現世の狭間というどちらの住人にも干渉できない場所に秘匿されていた。

 それこそ山の神たる天狗の力かそれに準ずるものを持ち、そして遠野に裏側と呼ぶ場所があることを知っている者でなければ、結界の解呪は成せるはずはなかった。

「生者をたぶらかす者が手引きをしたようじゃの。儂にも何者かまでは分からぬが……お主の意志でなければ、小僧、あの黒髪の娘が何かに巻き込まれているのではないのか?」

 夢路の身に何が、と晴臣はこれまであったことに思考を巡らせる。彼女がそうしようという意思を持って礎石を破壊したとは考えにくかった。夢路は礎石の場所はおろか、遠野物語にも疎いように彼は感じていた。であれば、それ以外の幽世と現世の狭間を知覚する何者かが手引きをしたか。

 そこまで考え、晴臣ははっと思い至ることがあった。アリスを探して山に分け入った際、数秒間いなくなったように見えた夢路の腕に書いてあった『少年』『石』『裏』の文字を。

「まさか……」



 同じ頃、サスペンダーの少年は別の山の尾根で月に見下ろされていた。晴臣の術の気配を感じ取っていた彼は面白くて仕方がないとでもいうようにけらけらと笑った。

「今更気づいたのか……神といえど、長年怠けて力を失っちゃうとそうなるのかなあ」

 はあ、と可笑しかったのを落ち着かせるように溜息を吐く。上げたおもてはぞっとするような笑みを湛えていた。

「もう遅いよ、何もかも」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る