Entry number.5 遠野百鬼夜行

第32話 赤い芥子の咲く庭

 飯豊いいでの菊池松之丞まつのじょうという人傷寒しょうかんを病み、たびたび息を引きつめし時、自分は田圃に出でて菩提寺ぼだいじなるキセイ院へ急ぎ行かんとす。足に少し力を入れたるに、図らず空中に飛び上り、およそ人の頭ほどのところを次第に前下まえさがりに行き、また少し力を入るれば昇ること始めのごとし。何とも言われずこころよし。寺の門に近づくに人群集せり。何故なにゆえならんといぶかりつつ門を入れば、くれない芥子けしの花咲き満ち、見渡すかぎりも知らず。(後略)

         

                           ――遠野物語97



 気が付くと夢路は石の門の前に立っていた。門と言うよりは胸の高さほどの石の柱が萱の垣根に分け入るように二本立っているだけの簡素なものだったが、その向こうを見遣れば立派な瓦葺かわらぶきの寺があったので「ああここは寺の入口か」と納得した。

 なぜここに立っているのか、それまで何をしていたのかは不思議と思い出せなかったが、寺の脇に広がる赤い芥子の花畑に惹かれるように、彼女はふらふらと門を潜った。

「綺麗じゃん。写真――あれ」

 水着の上に羽織った薄い上着のポケットをごそごそと触るが、目当てのスマホは見当たらなかった。夢路ははて、と首を傾げる。

 心なしか手元も足取りも軽い気がする。気分が良いというよりは、熱に浮かされた時のような不自然な浮遊感があった。

 気を取り直してポケットをまさぐっていると、寺の陰から声がかかった。

「あれ? おめ、夢路じゃねえだか?」

 そこには寒戸さむとばあことサダの姿があった。学祭実行委員会の女性陣の手によって化粧を施された彼女は、儚い美しさを保ったまま夢路に駆け寄った。

「やっぱり夢路だ。なんでこんなとこさ――」

「おお、サダ! 久しぶりだな!」

「誰かと思えば、あの恐れを知らぬ娘か。狼以来だな」

「嘉兵衛も! なんでこんなとこにいんだよお前ら」

 サダの声を聞きつけてか、総髪の猟師も姿を現した。相変わらずの美男美女カップルだ、と夢路はほんの二ヶ月ほどしか経っていないのになぜか懐かしい気持ちがしていた。

「ほっほっほ……それはこちらの台詞と言う奴じゃ、娘よ」

 振り向けば赤い半纏に身を包んだ好々爺が笑っていた。絶対に洗っていないその赤毛布あかげっとは、狼に襲われた際にその口に突っ込んだせいで狼のだ液まみれになったこともあって、得も言われぬ異臭を放っていた。

「相変わらずくっせえ……おい乙爺おとじい! てめえのせいで面倒事に巻き込まれたぞこの野郎!」

「ほほ……まあそなたらの探し物も見つかったようじゃし結果オーライじゃ……ふげっ」

「お前のせいで! 死ぬような思いしたぞこっちは!」

 臭いも構わずその胸倉を掴む夢路。乙爺が夢路達のことをオシラサマ夫婦(馬男とカヨ)に紹介しなければ、前回の登山でヤマハハに目を付けられることもなかったはずだった。

「ていうか何であたし達を巻き込むんだよ! 妖怪のことは妖怪で解決しろ!」

「まあ元はと言えば儂らを現世うつしよに呼んだのはお主達によるものが大きいし……多少の貸しを返してくれても良かろう」

「あたし達が何したって言うんだよ。山に棲んでたお前らを見つけたってだけで」

「普通は見つからんようになっておるのじゃよ。本来幽世と現世には侵しがたい固い境目がある。その境を壊すことができるのは――遠野の山の神と呼ばれる一族だけじゃ」

 乙爺を放しながら、山の神って誰だよ、と夢路は深く眉根を寄せる。そんな大層なものに出会った覚えなど全くなかった。

「そして例え境がなくなったとしても、儂ら幽世の者は本来実体を持たぬが故に現世の人間には干渉できないはずなのじゃ。しかし現世の肉体に結びついた魂の輝きが強ければ強いほど、儂らは形を取りやすくなる。太陽に照らされて初めて月がその姿を現すように……ぬしらが強く執着し願う限り。お主も惹かれたのかのう、嘉兵衛……」

「そうかもしれんのう」

 乙爺に話を振られた嘉兵衛も端正な顔でうんうんと頷くが、ひとり話題に置いて行かれた夢路は理解できずに首を捻る。

「待てよ全然話が読めねえんだけど」

「早い話が、お主の強欲さが生者の輝きとなって儂らを惹き付けるのじゃ。無論それだけじゃ儂らとまみえることなど本来はあり得ぬが……あの耳飾りを持つ者となれば話は別じゃ」

「ピアスのこと? ……あれ?」

 重要アイテムのように言われ夢路は思わず耳に手を伸ばしたが、そこにはぽっかりと空いた穴しかなかった。慌てて両耳を触るが、いつも付けっぱなしにしている左右七つずつの金銀のピアスはひとつも残っていなかった。外した覚えはない。十四個まとめてどこかに落とすことがあるのかと慌てふためいていると、乙爺は静かに言う。

「あれは天狗のものじゃよ。覚えがなければ持ち主の元に返ったのじゃろ」

「は? 天狗?」

「天狗とは遠野の山の神と同義……代々人の娘と契りを交わすのじゃが、あの金銀は元々契りの指輪をかたどるための代物じゃ。あれを身に付けることはすなわち、天狗のつがいだというようなもので」

「ストップストップ! 全然飲み込めてない! 婚約指輪ってこと!? いつの間にあたしが天狗と付き合うことになってんだよ! 人間の彼氏すらいねえのに!」

 突拍子もなく発せられた言葉に、夢路は両手を振って声を上げた。意外だというように乙爺は目を丸くする。

「贈られたものでなければどこで手に入れたのじゃ、あんなもの」

「えー、何だったかな。あんま覚えてないけどちっちゃい頃から持ってたんだよ。拾ったんじゃねえかな、多分」

 彼女は朧げな記憶を辿るが、なんせ四、五歳の頃の話だ。全くと言っていいほど脳内検索にはヒットしていなかった。そもそも、と夢路は口を開く。

「何より天狗なんて見たことねえよあたし」

「儂はてっきり教わっているものだと思っていたのじゃが……お主、全く気づいておらんかったのかの? いつもと連れ立っておったのか」

「何って、なにが」

「人間に紛れてお主らのとこにも遊びに来ておったろ、天狗の子が」

 人間に紛れて。そう聞いて夢路は口をぽかんと開けて固まった。いつも誰と連れ立っていた? 実行委員会のメンバーで、恐らくいつも夢路と一緒にいたのは――

「まだそういう『付き合う』とかじゃなくて……微妙な感じだったんじゃな。あの小僧、胸に秘めた想いは伝えて初めて形になるというのに」

「嘉兵衛……おら達とは事情が違うんだから、水を差すんじゃねえだよ」

 やれやれと頭を振る嘉兵衛を窘めるサダ。彼らは最初から知っていたような口ぶりだった。その横で夢路はようやく思い至り、はっと顔を上げた。赤い芥子の花が視界の端で揺れる。

「ハルが……?」

「そう、あれは天狗のせがれじゃよ」

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