第31話 遠野の天狗

 総司郎と琴子がマヨイガに辿り着いた頃。手持ちのロケット花火を打ち放し、夢路は猿達を蹴散らしていた。色とりどりの炎に、獣達は腰が引けていた。

「猿の奴ら逃げてくぜ! おらおら、次は三連発行くぞ!」

「ゆめ、ほどほどにしとけよ……」

 すっかり戦意を喪失した猿達が山の奥に逃げていく様子に彼女はほくそ笑む。そこだけ切り取ったら悪役以外の何物でもないな、と晴臣は呆れた。

「そろそろ良いんじゃない? 暗くなってきたし、私達も逃げましょ!」

 アリスの言う通り、辺りは夕陽が差し込み始めていた。帰り道が分からなくなる前に山を降りなければならない。

「分かった! あと一発だけ」

 最後の大筒を駄目押しにしようと、夢路が導火線にライターを近付けたその時。

 残っていた猿達が、何かに気付いて一目散にその場を逃げ出した。血相を変え山奥に消えていくその表情に、三人は訝しむ。

「え、何、何が――」

 所在なさげに最後の一発を抱える夢路だったが、木陰でわだかまる瘴気に気づき、目を見張った。そこだけ周囲の闇をかき集めたようにうすぼんやりと暗く煙っている。

 やがてもやを引き裂くように飛び出してきたのは、般若のような恐ろしい形相の白髪の老女だった。

「ミ ツ ケ タ ゾ」

 金属を千切るような声に夢路は全身を総毛立たせる。山の斜面に突き落とされ逃げおおせた獲物を追い、三人の前に現れた遠野の山の覇者。剥いた白目は夢路を捉えていた。

「ヤマハハ……!」

「なんで、遠野からは出られないはず――」

 思わず零れた晴臣の呟きにアリスは眉をひそめた。

「ハル、それって」

 どういう意味かと彼女が口を開きかけたが、言い終わる前にヤマハハは弾丸のように山を駆け、そのままの勢いで夢路の腹に肩をめり込ませた。

「がっ!」

 バイクに撥ねられたような衝撃が襲い、彼女は成す術なく宙を舞う。手の中のロケット花火が力なく手放されて落ち葉に転がり、夢路は鈍い音を立てて遅れて着地した。

「ゆめ!!」

「夢路!!」

 一瞬の出来事に晴臣とアリスは目を疑う。悲鳴を上げる暇もないようだった。呼びかけも虚しく、地に倒れ伏した少女はぴくりとも動かない。

 ヤマハハは他の二人には見向きもせず、尚も彼女に歩み寄る。何の恨みがあるのか、確実に息の根を止めようとその手を夢路の首に伸ばす。

「夢路から離れなさいよ!」

 枝を拾い、駆け出したアリスはヤマハハ目掛けて振り被った。が、枯れ枝のように見える腕は鋼鉄のように硬くアリスの打撃を弾き返し、易々と彼女の腕を掴んで放り投げる。

「きゃっ!!」

 近くの杉木に背中を叩きつけられたアリスは、痛みを堪えながら遠くに倒れる夢路を見遣る。何とかしなければ、立ち上がって逃げなければ。そんなことは分かっているのに、足が震えて動かなかった。

 およそ人間ではありえない膂力りょりょく、物理攻撃にもびくともしない鋼の痩身、人ひとりを難なく振り投げる怪力。まさに走る災厄だった。

 今度こそ殺される、とアリスの背に怖気が走る。

 その腕が再び夢路の喉に迫ろうとしたその時、梵鐘を鳴らした後のような余韻が響き渡った。

 周辺の空気が爆発するような衝撃が起こり、ヤマハハがに弾き飛ばされた。

「ギェウウァァア……!」

 余程の衝撃だったのか、耳をつんざく悲鳴を上げて遠野最強の怪異は地に転がる。追撃は止むことなく、周囲の落葉や枝がひとりでに浮き上がり空気に研ぎ澄まされ、ヤマハハへ雨のように降り注いだ。

 乱射のように見えるは、しかし夢路やアリスには掠りもしていない。

 それは森全体が怪異の敵になったかのような光景だった。

「なに……? 何が――」

 目の前でただ森に蹂躙される遠野の怪異を信じられないと見つめるアリス。ふと傍らにいるはずの晴臣に目を遣り――彼女は再び目を疑った。

 そこにはいつもの人畜無害そうな後輩の姿はなかった。彼の首も顔も袖から覗く腕もすべては血色に染まり、茶髪は星の光を集めたような銀髪に変わっていた。翡翠色の双眸が強い光を放ち、葉の矢の行く先を睨みつけている。

 その出で立ちに、よろよろと起き上がったヤマハハは恐縮しきったようにその身を震わせた。

「ワ……カ……ナゼ、カヨウナ……スガタ……デ」

「……それは貴様の知るところではない。それよりこの醜態は何だ。現世うつしよの人間に手出しをせぬと誓ったのは空言そらごとだったか」

 腹の底から響く声には滾る怒りが滲んでいた。射貫くような翡翠の瞳が失望に細められる。

「オ……ユルシ……ヲ」

 遠野の山の覇者はそれまでの蛮行が嘘のように縮こまってそれだけ絞り出し、木陰に紛れて空気に溶け、煙のように消え入った。

 脅威は去った。ヤマハハを怯えさせた声は間違いなく晴臣のものだ。しかしアリスは今目の前で起こった事態が全く飲み込めないでいた。およそ人間業ではないその威容に、恐ろしさすら感じてしまう。

「ハル……? あんたは……なの……?」

 そんなつもりはないのに、思わず後ずさってしまう。

 アリスの震える問いに晴臣はほんの少しだけ寂しそうに目を伏せ、血色の掌を彼女に向ける。

 そして二人の間に風鈴のような心地良い音が鳴ったかと思うと、アリスは抗いがたい眠気に誘われ獣道に倒れ込んだ。

 森に静寂が戻る。

 晴臣は夢路の傍に行ってその顔を覗き込んだ。意識はないものの幸い息はあり、大事には至っていないようだった。

 彼は安心したように息を吐き、夢路のピアスだらけの両耳に手を翳す。金銀鮮やかな耳飾りは、空気に解けるように流体に形を変えたかと思うと晴臣の左手に収まった。

 彼女の寝顔を少しの間見つめ――そして思考を断ち切るように立ち上がった。

「ごめん」

 血色の肌の青年は最後にそう小さく呟いて、暗い森の奥へ姿を消した。

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