第29話 迷い家と迷子

 かくして猿達を振り切り山を下る二人だったが、粘り強く彼らを追う猿の姿が後ろに迫っていた。

「二、三匹かなあ? まだ追ってくるよう!」

「地の利が向こうにありすぎます!」

 ロケット花火の威嚇射撃に怒り心頭の猿達は執拗に二人を追い回す。走るというよりほとんど滑り降りるように山を駆け下るが、その差は確実に縮んでいた。

 総司郎は舌打ちをする。

「どこかに隠れてやり過ごすことができれば……」

 篭城したとして猿が諦める保証はないが、このまま走って追い付かれるよりはマシだった。彼は心の底から、そんな都合のいい場所があったらと苦し紛れに夢想する。

 すると朽ち果て斜めに倒れた杉木の下を二人が潜ったその時、突如として数歩前に黒い立派な門構えの屋敷が現れた。

「え、これって――」

 驚き言葉を失い、足を止める琴子。二人の真正面にその門を構える家は、屋根は黒々と美しい瓦が吹かれており、重厚な根太と柱がそれを支えている。不思議なことに、その屋敷はまるでそれまでもずっとそこに佇んでいたかのような威容を放っていた。

 一体どこから湧いて出た、と総司郎も息を呑んだが、しかし逡巡している暇はない。

言川ことかわ先輩、入りましょう!」

 彼は棒立ちの琴子の背中を押し、門に向かわせる。

 その反対側の腕に、追いついた一匹の猿が噛み付いた。

「く……!」

「総司くん!!」

 容赦のない野生の牙が食らいつき、総司郎は顔を顰めた。琴子は早く屋敷の中へ、と思い切り彼を門の中へ引き寄せる。

 すると総司郎の身体が黒い門を潜った瞬間、電気柵に何かが触れたような音がして猿は見えない壁に弾き飛ばされた。少し離れた落ち葉の上に落下した猿を他の猿は驚愕の表情で見つめている。

 門の中にいる二人からは、睨む猿達と森の風景が歪んで見えた。

 無傷の総司郎は信じられないような顔で黒檀の門構えと己とを交互に見遣る。

「何なんだ、この屋敷は……」

「い、今のうちに入ろう!」

 立て続けに起こる謎の現象に悩む暇はなかった。琴子は彼の手を引いて戸口に走った。後ろからは猿達の負け惜しみのような鳴き声がしている。

 飴色の引き戸をがらりと引き、二人は見知らぬ邸宅へ飛び込んだ。



(前略)この妻ある日門かどの前まえを流るる小さき川に沿いてふきりに入りしに、よき物少なければ次第に谷奥深く登りたり。さてふと見れば立派なる黒き門の家あり。いぶかしけれど門の中に入りて見るに、大なる庭にて紅白の花一面に咲き鶏多く遊べり。その庭を裏の方へ廻れば、牛小屋ありて牛多くおり、馬舎うまやありて馬多くおれども、一向に人はおらず。ついに玄関よりあがりたるに、その次の間には朱と黒との膳椀ぜんわんをあまた取り出したり。奥の座敷には火鉢ありて鉄瓶てつびんの湯のたぎれるを見たり。(後略)

         

                           ――遠野物語63



「ここは……?」

 後ろ手で戸を閉めると、外の喧騒が嘘のように鳴り止んだ。外観の荘厳さもさることながら、内装も塵一つなく格式高い日本家屋の佇まいをしていた。戸の脇にある土間の竈門かまどには火が起こされ、今しがた誰かが夕餉の支度をしていたかのようにふつふつと鍋が沸き立っていた。

「誰かいるのかな……?ごめんくださーい!」

 琴子は声を張り上げて板張りの床の奥へ声を掛ける。が、返事はおろか人の気配すらしなかった。

 誰もいないはずはない。鍋からは出来たての味噌汁の良い香りが漂っている。しかし総司郎の中では、例え隅々まで探してもここには誰もいないだろうと確信めいたものが生まれていた。

「マヨイガ……か」

 聞いた事のない響きに、琴子は小首を傾げる。

「なにそれ?」

「迷い家、と書いてマヨイガといいます。遠野物語に出てくるのですが、突如人の前に現れる謎の屋敷です。その屋敷には人が住んでいるような形跡があるのに誰もいない。今の今まで煮炊きをしていたようにも、床を拭き上げたばかりのようにも見える。けれどやはり誰もいないのです」

「ホラーハウスじゃん!どうしたらいい?このままいると家に食べられちゃう?」

 慌てふためく彼女を落ち着かせるように、総司郎は落ち着き払って説明を続ける。

「そのような事は……むしろマヨイガは吉兆なんです。入った人間に害を及ぼす事はありません。屋敷が客を選び、迎え入れられた人間はそこから土産として何かを持ち帰ると富に恵まれるといいます」

「良かったあ……」

 ひとまずは害がないことを悟り、琴子は上がりかまちにへなへなと腰を下ろした。

 総司郎は眼鏡をかけ直そうとしたが、コンタクトだったため空振りした。本日二度目だった。

「ただマヨイガを一度出ると二度と姿を現さないそうで――言川先輩、あちこちお怪我を」

 自ら話の腰を折り、琴子を見る総司郎。水着のまま猿に攫われた彼女は、露出した白い腕脚にいくつも擦り傷を負っていた。

 指摘されて初めて気が付いた琴子は驚いて己の肌を抱く。

「あらま、気付かなかったな……ていうか総司くんだってさっき、猿に思いっきり噛まれてたよね!?腕見せて、大丈夫なの?」

「ああ、それなら」

 涼しい顔で服の袖を捲る総司郎。露わになったのは傷一つないゴムスーツだった。

「服の下に分厚いウェットスーツを着ておりましたので無事でした。猿の牙と言えど、硬質ゴムの壁は歯が立たなかったようですね」

 備えあれば憂いなし、と自信満々に呟く彼に、琴子は何だか力が抜けて笑ってしまった。どんな非常時でも総司郎は通常運転だったが、今はそれが一番彼女を安心させていた。

「猿の経立が諦めてどこかへ行くまで、ここでやり過ごしましょう。何かないか探してきます」

「あ、いいよ。私も――」

 靴を脱いで廊下へ上がろうとする総司郎に、琴子は着いていこうとしたが、

「あはは……気が緩んで足が竦んじゃったみたい」

 思い出したように小さく震える膝に力が入らず、またへたりと座り込んだ。

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