第22話 ヤマハハ

 昔々あるところにトトとガガとあり。娘を一人持てり。娘を置きて町へ行くとて、誰がきても戸を明けるなと戒しめ、鍵を掛けて出でたり。娘は恐ろしければ一人炉にあたりすくみていたりしに、真昼間に戸を叩きてここを開けと呼ぶ者あり。開かずば蹴破けやぶるぞとおどゆえに、是非なく戸を明けたれば入りきたるはヤマハハなり。(後略)

         

                           ――遠野物語116



 一行はひとまず前回の捜索で狼に遭遇した草原辺りを目指して歩くことにした。が、辺りは既に薄暗くなりつつある。あまりのんびりしていられないことも事実だった。夢路は先程のヤマハハの話を思い出しつつ、総司郎に話を振る。

「具体的にヤマハハに会ったらどうすんすか」

「聞くだに恐ろしい山姥だ、一筋縄には行かないだろうな」

 彼は腕を組み、頭を捻った。特に妙案があるというわけでもなさそうだった。

「うーん……そこらの石で殴るとか……崖から突き落とすとかかなあ?」

「いざとなれば、我の音速タックルで……」

「戦い方が蛮族!」

 琴子や馬男の物騒な物言いに寒気がする晴臣。人食いの山姥とはいえ、出方も分からない見ず知らずの老女にそこまでの蛮行が許されるのかも疑問だ。

「原作ではどうなってんすか?」

「主人公が逃げ込んだ小屋に先に捕らえられていた女がいたのだが、二人で協力して熱湯攻めにしたという」

「BPO審議入りだねえ」

「何に配慮してるんですか?」

 薮を分け入りそう言う彼らはどうにも緊張感という物が薄くなっていた。現実味のない怪異話に巻き込まれることは無いだろうと高を括っていたのかもしれない。

 山の端にオレンジ色の陽が吸い込まれ、最後の光の一筋が細く名残惜しく消えていく。

「あ、日が暮れる――」

 誰かがそう口にし、完全に森が闇に覆われたその刹那。

 ぬるい空気を引き裂くように、夢路の脇を一陣の風が吹き抜けた。

「ヲ……ヲヲ……」

 木のウロに吹きだまる風のような啼き声を上げて、は一行の目の前に現れた。

「ム、スメ……ワカイ……チ」

 金属を無理やり引き千切ったような、耳触りの悪い声音で何かを呟く。

 一見それは薄汚れたぼろきれの塊のようだった。よく目を凝らすと、全身を覆っていたのは荒れ果てた萱を思わせる白髪だった。

 地面にうずくまるそれが老女だと分かったのは、ゆっくりと上げた面に白い双眸がぬらりと光ったからだった。浅黒い肌に浮かぶ般若はんにゃの形相に、見る者は皆息を呑む。

「こいつが――!?」

 指差す夢路の言葉に誰も答えはしなかったが、恐らくそうだということは目の前の存在そのものが放つ威容で明らかだった。

 慄きながらも、馬男は声を振り絞る。

「ヤマハハよ! 遠野の山のの覇者よ! 我が妻カヨを何処へ――」

 が、すべてを言い終えるより先にその筋骨隆々とした身体は後方へ吹き飛ばされた。

 誰も彼も、一瞬何が起こったか分からなかった。二・三メートルは離れて屈んでいたはずのヤマハハが目にもとまらぬ速さで馬男目掛けて突進し、衝突の勢いのみで杉林に突き飛ばしたのだ。そう気付いた時には、全員がヤマハハの間合いに入っていた。

「おい、馬!!」

 振り向き叫ぶ夢路を、

「余所見してる場合か!」

 晴臣は突き飛ばす。黒シャツの背をヤマハハの爪が間髪入れず掠った。

「うお……」

「ハル!!」

 落ち葉の上に押し倒された夢路は慌てて起き上がるが、晴臣は軽傷のようだった。それよりも、掠っただけのシャツが鋭利な刃物で裂かれたようにその切り口を揺らしており、二人はぞっとした。

「きゃあああああああ!!」

 琴子の悲鳴を皮切りに、四人は散り散りに木々に紛れるように逃げ出した。白髪の怪異は金切声を上げ、落ち葉を蹴り猛然と追ってくる。

 ヤマハハの駆け抜ける道筋にある物は、大木だろうと岩だろうとその突きで粉々に割り転がされる。それは走る災厄だった。

 肩口の金髪を振り乱し、琴子は叫ぶ。

「こんなの即BPO審議入りじゃん!」

「言ってる場合ですか!」

 四方に散っているはずの彼らの背を、しかしヤマハハは手あたり次第追い回した。その膂力・脚力は留まるところを知らない。

 ついに夢路の前に躍り出たヤマハハは、彼女に正面から飛び掛かる。

「ひっ!」

 組み付かれ押し倒される夢路。長い爪が両肩に食い込み、鮮烈な痛みと共に眼前にヤマハハの恐ろしい顔が迫っていた。彼女は必死にその枯れた腕を握り返すが、地面に根を生やす大木のようにその身体は動かなかった。

「アナ、ウラメシ……イケル、ワカキ、ムスメノ……チ……チガ……ホシイイイイイイ」

「ぐ……」

 甲高い恨み言が鼻先に迫り、その牙が夢路に届こうとした、その時。

 鈍い音がして、突然老女が崩れ落ちた。後頭部を殴られたようで、頭を押さえてよろよろとたたらを踏んでいる。

 驚きを持ってその一部始終を見守っていた夢路は、

「何呆けてんのよ夢路!」

 ヤマハハの背から現れた少女の声ではっとした。

「アリス……!」

 それはずっと探していた、赤髪を靡かせた学祭実行委員長の姿だった。



 アリスは両手に抱えていた岩を放り、夢路の手を引いて駆け出した。

「お前どこ行ってたんだよ! 探したぞ!」

「今はそんなの後よ! 走るわよ!」

 二人は同じ方向に走り出した。アリスに容赦なく後頭部を殴られたヤマハハは、彼女を怨敵と捉えたように低く唸り、少しよろめいてからその背を追いかけた。

 ひ、と小さく悲鳴を上げて、アリスは叫ぶ。

「今度は何なのよあれは! 今までの友好的な妖怪と訳が違うじゃない!」

「ヤマハハっていう怪力クソババアだ! あたしも会ったばっかで何が何だか分からねえ!」

「捕まったら碌なことにならなさそうね!」

 アリスが言うより早く、ヤマハハは傍に生えていた杉の大木を抱えて引き抜き、槍投げでもするかのように渾身の力で放る。杉の枝先は二人の行く手に轟音を立てて突き刺さった。

「うっそだろおおおお!?」

 慌てて踏みとどまる二人。凄まじい怪力のなせる業に、背中に冷や汗が伝う。方向転換し、右に折れて斜面を駆け下りた。

「逃げてばっかじゃ埒が明かないわ! ここにはあの猟師もいないし……どうしたら」

 唇を噛むアリス。地の利もない、戦う術もない、前回その猟銃で窮地を救った嘉兵衛もいない。彼女の言う通り、このまま逃げ続けていてもいずれ捕まるのは明白だった。

 夢路もこの状況を何とかしようと頭をフル回転させていたその時。

「黒髪の!! こちらへ!」

「……馬!」

 遠い杉の木の陰から、馬男が黒い鼻面をこちらに向けて夢路を呼んだ。ヤマハハに出会って早々吹き飛ばされた彼だったが、大手を振って叫ぶ様子に怪我の影響は感じさせなかった。

「何よあいつ!」

「一応味方だから! 行くぞ!」

 目を疑い慄くアリスを連れ、呼ばれた方へ全速力で走る。木陰からは他の三人も顔を出していた。打つ手のない今、何か策があるらしい彼らを信じる他ない。

「早く! こっちです!」

「二人とも! そこの幹と幹の間まで走って!」

 総司郎と晴臣が叫び、二メートルほどの間隔で生えた二本の樫の木を指している。藁にも縋る思いで、夢路とアリスは木々に向かってひた走る。ヤマハハの伸ばす手は、もう二人の背の一メートル後ろまで迫っていた。

 樫の木と木の間を、夢路とアリスが同時に駆け抜け――目の前に突如広がる急斜面に目を見開き――彼女らは左右で控えていた晴臣と馬男にそれぞれ抱えられ、草むらに着地した。

 すかさず総司郎と琴子が木に括りつけていた縄を引く。

「ガ……!」

 追いかけて来ていたヤマハハの足は荒縄に引っかかり、勢いよく急斜面を転がり落ちていった。琴子は縄を放って諸手を打って喜ぶ。

「やった! 崖から落とす作戦せいこーう!」

「今のうちに逃げましょう!」

 遥か崖下へ落ち、切り株で跳ねて見えなくなったヤマハハの身体に踵を返し、一行は猛ダッシュで反対側の獣道へ逃げて行った。

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