第20話 遠野の「裏側」

「あれ……?」

 後ろに置いてきたはずの喧騒が嘘のように、静謐さを纏う夕暮れの森。

 振り向いたが、馬男も実行委員達も姿を消している。音も臭いも何もかもが先程いた場所とは別の空間であると感じさせている。張り詰めた空気に息が詰まりそうになった。

「まーたここかよ! おい出てこいクソガキ!」

 一度目は姥子淵おばこぶちの河童探しの時。二度目は飯豊いいでの山奥の座敷童子探しの時。もう三度目にもなる不思議空間への隔離に、夢路は一瞬で状況を理解して首謀者であろう少年を探した。

 毎度の事ながらこの空間にいる間だけは、失われた記憶が戻るようだった。静かな森に迷い込まされ、坊ちゃん刈りの少年が現れて謎の石碑を転がすよう仕向けられる。少年が何者なのか、一体あの石は何なのか、転がすことが何を意味するのか、何故その記憶を消されなければならないのか、夢路には見当すらつかなかった。

 それがひたすら不快かつ不気味さを伴っている。

「どうせ今回もよく分かんねえ石を転がそうとしてんだろ! 毎回その手は――」

 舌打ち交じりにそう吐き捨てて静かな藪を抜けると、

「アリス……?」

 白樺の幹の向こうに良く知った赤髪の少女がこちらに背を向けてうずくまっているのが見えた。時折その肩は震え、啜り泣く声がしている。

「きく……きく……どうしていなくなっちゃったの……」

 そう虚空に呟く彼女の声は弱々しく、いつもの威勢の良さなど微塵も感じられなかった。悲しみに打ちひしがれるその背中に、流石の夢路もかける言葉を見失う。アリスは背後の夢路に気が付かないのか、泣きじゃくりながら呟いた。

「私の……たったひとりの友達……」

 不意に夢路は、アリスが妹に残してきたというメモのことを思い出した。『探し物をしに、山へ』の文言。

 もしかしたらアリスの指す探し物とは、そのきくという誰かの事ではないか。事情は分からないが、それを探しに山に分け入り、この空間に迷い込んだのではないか。

 そう納得した夢路は気まずさを感じつつも、アリスを連れ帰るためその背に近付いた。

「おい、どうしたんだよ、何が――」

 涙に震える肩に触れ、そう声をかけたその時。

 

「な……」

 夢路は己の目を疑った。赤髪の少女の背に見えていた姿がみるみるうちに煙のように空気に溶けて消える。代わりに現れたのは、草むらに無残に転がされた一抱えほどの石碑だった。

 騙された。そう脳が自覚するのとほぼ同時に、白樺の森の奥から高らかに笑う少年の声が響いた。

「あはは! うまく引っかかってくれたね、お姉ちゃん」

「てめえ!!」

 声に振り向くと、すぐ後ろに小憎らしい顔の少年が立っていた。坊ちゃん刈りにサスペンダーの格好はいつもの出で立ちだ。いつからそこに、と背筋が寒くなる思いがしたが、夢路は怖気を振り払うようにその胸倉を掴み、激高する。

「汚い手を使いやがって! アリスはどこだ! そしてあたしに何させてんだ!」

「僕は赤髪のお姉ちゃんには何もしてないよ。ただ心象風景を借りただけで――」

 向けられた怒りに少年はどこ吹く風といった様子で目を細め、そううそぶいた。その余裕が余計に恐ろしく、また真意が分からず、夢路は言葉に詰まった。首筋を嫌な汗が伝う。

 少年は少し考えるような芝居がかった仕草をして、ひとつ頷いた。

「うん、もう言っても良いかな。ここは遠野の裏側……ありがとう、お姉ちゃん。お陰で外と完全に繋がったみたい」

「だから何だよそれ――」

「この先、どうやったって百鬼夜行は止められない。そうしたのはぜーんぶお姉ちゃんのせい。時が満ちたら……また会おうね」

 三日月のように細められたその双眸に、思わず夢路は少年から手を放して飛び退いた。木陰に紛れるように、彼の輪郭が薄れ、空気に馴染んで消えていく。

 それと同時に、張りつめていた空気も徐々に綻び始めた。まずい、と夢路は感覚的にそう思った。

 このままでは、また忘れてしまう。

 咄嗟に鞄から油性ペンを取り出した夢路は、蓋を乱暴に取ってまっさらな左腕に『少年』『石』『裏』と書き殴る。

「ああクソ……忘れるな、忘れるなよ……!」

 乱雑な文字を見つめながら脳にも刻み込む。ここを指して言った『遠野の裏側』という言葉。『外と完全に繋がった』とは、一体どういうことなのか、繋がったことでどうなるのか。そして止められないという『百鬼夜行』とは何なのか――。

 何をさせられているのか分からない。少年が何者なのかも。しかしそれが取り返しのつかないことのようにも、絶対に忘れてはいけないことのようにも感じていた。あの去り際の不気味な笑顔は、一体何を企んでいるのか。

「忘れるな、忘れるな忘れるな忘れるな――」

 ペンを取り落とし、両手で頭を抱えて蹲る。

 しかし彼女の意志も虚しく、夢から覚醒する瞬間のように記憶が綻んで夕陽に溶けて、徐々に五感に森の感触が戻ってくる。むせるような初夏の緑の匂いと、杉の木を抜けて頬を撫でる風と……そして森に似つかわしくない喧騒が帰ってきた。

「――ゆめ! おい、どうした!」

「……え」

 頭を抱えてその場にしゃがみ込んでいた夢路は、駆け付けた晴臣の言葉で現実に引き戻された。

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