第18話 傘と少女と馬

 乗車から一時間ほどして、列車は明かりのない山中を抜けて終点の花巻駅に辿り着いた。

「ほらゆめ、着いたぞ。終点」

「んー」

 むにゃむにゃ言う夢路を連れて駅舎を出ると、これまでの田舎の風景が嘘のような街灯りが二人を出迎えた。繁華街の方へと、先を行くアリスは迷いなく進んでいく。ここまで来たらもう最後まで追うしかないと、二人もその背に続いた。

 駅から十分ほど歩き――アリスが足を止めたのは、一軒のラーメン屋だった。入口の傘立てに傘を差し入れ、「お疲れ様です」の挨拶と共に暖簾を潜った。

「まーたバイトかよ!? どんだけバイトしてんだあいつは!!」

「授業終わりに、さすがに働きすぎじゃ……」

 もう立って待つのが苦だった彼らは、やむなく向かいのファミレスに入り窓際の席に陣取った。ドリンクバーをフル活用して空腹を紛らわせ、アリスのバイト終わりを待つことにしたのだ。

「人様が真面目に働いてるときに、俺らは何やってんだろうな……」

「いやマジで、誰だよ尾行しようって言ったやつ」

「一から十までお前だよ!」

 ぎゃあぎゃあ言いながら二人は窓の外を見つめ続け、気付けば十時を回っていた。

 暇を持て余しドリンクバーのコーヒーの産地当て勝負をしていた二人は、ようやくラーメン屋から出て来た赤髪の後ろ姿を見失うところだった。

「見ろ! 出て来た!」

「待てゆめ、会計――」

 伝票を投げ捨てて店を飛び出す夢路の代わりに、晴臣は泣く泣く会計を済ませる。ビニール傘を二本抱え慌てて彼女を追うと、そこにはアリスを見失ったらしく道端に立ち尽くす夢路の姿があった。

「あああー! 肝心なとこで見失っちまった!! くそ!! キリマンジャロかブルーマウンテンかで悩んでる場合じゃなかった!」

「いや本当、それな……」

 赤髪の後ろ姿は忽然と消えていた。時間が遅いため恐らくこの近くに住んでいるのだろうが、二人がそれを知る術はなかった。

「どうすんだ、これから……ん?」

 途方に暮れかけた夢路が見つけたのは、ラーメン屋の傘立てに残された赤い傘だった。



「傘を張ってたら取りに戻って来るかも」

「待ち伏せ延長戦か……もうどうにでもなれ」

 ファミレスの看板の陰で傘立てを見守る二人。時刻は十時半に迫ろうとしている。終電の早い釜石線、既に改札は営業を終了している頃だ。どうやって帰るかなど夢路の頭にはないようだった。

「ゆめ、お前この後どうすんだよ」

「うん? ハルが家に泊めてくれるって信じてる」

「絶ッッッッ対嫌だ。人の善意を百パー当てにして生きるのやめろ」

「ケチ」

 夢路がそう吐き捨てた時、ラーメン屋の前に人影が現れた。黒髪を几帳面に一本の三つ編みに結んだ黒縁眼鏡の少女は、迷わず傘立ての赤い傘を抜き取り来た道を引き返していく。

「何だあれ、傘泥棒か!?」

 看板の陰から飛び出し、夢路は少女の後ろ姿を追った。晴臣もその後ろに続く。

「おい、その傘――」

 夢路の呼びかけに振り向いた少女の顔を見て、晴臣は思わず声を上げた。

「アリスさん……?」

 彼がそう呼ぶのも仕方ないほど、その娘はアリスによく似ていた。勝ち気そうな目元は本人と瓜二つだった。違いと言えば髪色と頬のそばかすくらいだ。

 彼女はその名を聞き、驚いたように目を見開いた。

「お姉ちゃんの……お知合いですか?」

「お姉ちゃん……?」

 首を傾げる二人に、少女は縁の大きな眼鏡をかけ直して背を正す。

「あ、えと、わたし飛鳥原あすかばらアイリって言います。アリスはお姉ちゃんで。お姉ちゃん、バイト先に傘忘れて来ちゃったから、代わりに取りに来たんです」

「アリスのやつ、妹いたのか……」

 夢路は感心してそう呟いた。家族構成など特に語るべくもないことだからだった。

 しかしアイリは二人の反応もさておき、何か安心したように笑う。

「ふふ、よかったあ。お姉ちゃん、お友達出来てたみたいで」

「厳密に言うと友達じゃ――」

 否定しかけた夢路の言葉を、晴臣が爪先で小突いて遮った。その目は空気を読めと言っている。一瞬で色々悟った夢路は笑顔で言い直す。

「うん、友達友達。めっちゃマブ」

 実際は友達であるどころか学年も違う上に委員会では主従関係にすらあるが、と晴臣は喉まで出かかったが何とか押し留めた。

 姉と違い純朴なのか、妹はその言葉の額面を全力で受け入れる。

「お世話になってます。……お姉ちゃん、いっつも自分のことは後回しで働き詰めだから、大学生活楽しんでるのか心配で」

「……確かにお姉さん、めちゃくちゃ働いてるね」

 晴臣はアイリの言葉に頷く。今日見てきただけでも二件のアルバイトに勤しんでいた。無論、見てきたことは内緒だが。

「うち……四人きょうだいで、わたしの下にあと二人弟がいるんですけど……お父さんが死んじゃってから生活が厳しくって。お姉ちゃん、奨学金で大学に通いながらアルバイトをして生活費を入れてくれてるんです」

 唐突に始まった身の上話に、二人はそっと目配せした。聞いてはいけないことを聞いている気がしたからだった。

 目の前の彼らを早々に信用に足る人物だと確信したのか、それとも単に口が軽いのかは定かでないが、アイリの語りは続く。

「お姉ちゃん、ちょっと他所の人にキツく当たる所があるでしょう? だからなかなか友達が出来にくくて……でも良かったあ。何だか安心しました。呼び捨てしてくれる友達が出来ただなんて。道理でちょっと楽しそうだなあって思ってたんですよ」

 自分の事のように喜ぶ彼女に、夢路は毒気を抜かれたように黙り込む。突っ込むのも無粋なほど、性根の真っ直ぐな良い子だった。

「あ、うちそこなので……寄って行きますか? お茶でも……」

「大丈夫大丈夫! 遅いし……あとあたし達がここにいたことも内緒な。多分びっくりするから」

 びっくりどころか、追ってきたと知ったらキレ散らかすだろうな、と晴臣は寒気がした。何かの間違いでアリスが家から出てくる前に、早くここを立ち去りたかった。

「ふふ、分かりました……お話しできて良かったです。送っていただいてありがとうございました」

 深々と頭を下げる眼鏡の少女に見送られ、二人は踵を返した。しばらく歩いて角を曲がるまで、アイリはにこにこと笑顔を向けていた。

 駅方面へ歩を進め、夢路はバツが悪そうに零す。

「……聞いちゃったな、色々」

「うん……本人も絶対に明かしたくないだろうな。ゆめ、絶対喋るなよ」

「分かってるよ」

 流石に冗談にして良い話題でないことは分かっていたので、夢路はそれ以上何も言わず黒髪をガシガシとかき上げた。

 追いかけて彼氏でもいたら茶化してやろうと踏んでいたのが、うっかりセンシティブな秘密を知ってしまったのだ。見なかった振りをして忘れるしかなかった。

 尾行がほぼ徒労に終わり、疲労が押し寄せる。十字路に差し掛かり晴臣は手を挙げて別れを告げた。

「俺帰るから。じゃあな」

「ええーマジで帰んのかよ」

「当たり前だろ……今何時だと思ってんだ」

「アイリちゃんは送ってった癖にー」

「お前は女子にカウントしないことにした」

「クソが」

「身から出た錆だと思え。――ん? 何だあれ」

「うん?」

 不意に夢路の背後を指した晴臣。彼女も振り向いて確認する。が、何も無かった。何事かともう一度晴臣に向き直ると、彼の姿は忽然と消えていた。

「あいつ! 超古典的な方法で撒きやがった!」

 騙されたことに地団駄を踏む夢路。その超古典的な方法に乗ってしまった自分も悔しい。

 それにしても晴臣の逃げ足の速さたるや、と下を巻いた。

「足速すぎだろ……ハルの奴」

 舌打ちしたが、こうしていても仕方がなかった。次会ったら蹴りのひとつでも入れてやろうと心に決めた。

 近くのネカフェにでも行くか、とスマホを取り出したその時。

 背後から低い声がした。

「おお……金銀の耳飾り……黒玉ぬばたまの髪の乙女……ようやく見つけたぞ」

「……え?」

 突然の呼びかけに驚き、暗闇を振り向くと……そこに浮かび上がっていたのは、黒い馬だった。

 否。黒馬の頭と、全裸の男だった。雄々しい馬頭の下は一糸纏わぬ白い肌で、申し訳程度に局部を葉っぱで隠していた。今すぐボディビル大会に出場できそうな鍛え上げられた筋肉が、見る者に腹立たしさと異様さを感じさせる。

 馬頭の部分は美しい黒々とした毛並みが月光を照り返し、長い睫毛に覆われた黒檀の瞳は真っ直ぐに夢路を見つめている。鼻息を荒くしているところを見ると、走ってきたのだろうか。

 どこから? どう見ても変態ではないか? 捕まらずにここまでどうやって? ――いや、今はそんなことを考えている余裕は無かった。

「黒髪の乙女よ、我と共にどうか――」

 何故なら……馬頭はその白い両手を広げて夢路に覆い被さろうと飛びかかってきたからだった。

「いやああああああああああああああああ!!」

 夢路は力の限り悲鳴を上げ、一目散に逃げ出した。馬頭の変態。そう言えば学生課のお知らせにあった奴だ。夕方に半笑いで写真に収めた注意喚起を思い出した。

 馬男は夢路の必死の逃亡に食らいつこうと全速力で追いかける。

「待て、何故逃げるのだ!」

「来るな! 喋んな変態!! いやあああああああああ助けてハル!! 助けてポリスメン!!」

 捕まったら何されるのか分かったものではない恐怖感から、とにかく夢路は走った。走って叫んで走って――大きな通りに出た。

 通り沿いに運良くネットカフェの看板を見つけ、力いっぱい走って滑り込む。

「いらっしゃーせー……」

 やる気のなさそうな店員の声にすら、彼女は安心した。馬男は夢路を見失ったのか、建物に入って来れなかったのか、それ以上追ってくることはなかった。


 結局、夢路は朝まで眠れず個室の椅子の上で震える他なかった。

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