第15話 帰れない娘の帰る場所

 黄昏たそがれに女や子供の家の外に出ている者はよく神隠かみかくしにあうことはよその国々と同じ。松崎村の寒戸さむとというところの民家にて、若き娘梨のの下に草履ぞうりを脱ぎ置きたるまま行方ゆくえを知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、或る日親類知音の人々その家に集まりてありしところへ、きわめて老いさらぼいてその女帰り来たれり。いかにして帰って来たかと問えば人々に逢いたかりし故帰りしなり。さらばまた行かんとて、再びあととどめず行き失せたり。その日は風のはげしく吹く日なりき。されば遠野郷の人は、今でも風の騒がしき日には、きょうはサムトのばばが帰って来そうな日なりという。

         

                           ――遠野物語8



「おらは……サダという」

 枯草色の着物の女は俯きがちでそう名乗った。やわらかい風が草木を、彼女の荒れた白髪を揺らして通り過ぎていく。

「サダ……? トヨさんじゃなくて?」

「誰だよ」

 首を傾げるアリスと夢路。当初探し求めていた座敷童子でもなければ嘉兵衛が追っていた山女でもなく、全くノーマークなその名に何の見当もついていなかった。

 サダは鼻をひとつ啜り、絞り出すように言う。

「おらはただ、帰りたかっただけだ……おらの村に……」

「帰るって、どこに」

 話が見えて来ず、眉根を寄せる夢路。サダは目の端に滲む涙を袖で拭う。

「山降りて向こうの松崎村の、寒戸さむとてとこだ。おらの村、生まれ育った村……だども、だんれもおらのこと信じてくんね。化け物みたいな目で見んだ……」

 話を聞いた総司郎は、ようやく分かったと言うように声を上げる。

「……寒戸のばあか」

 顔に疑問符を浮かべる実行委員の面々に、そばにいた乙爺が語り出す。

「その昔、ある若い娘が草履ひとつ残して神隠しにあってしまった。村の者が探したがついに見つからなかった。……それから三十年ほど過ぎた頃、風の強い日に突然白髪の老女が家を訪ねてきたのだという。今でも儂らは風の強い日には寒戸の婆が帰ってくる、などと言うのじゃよ」

「それが……サダさんだって言うの?」

 目の前の女は憔悴したように項垂うなだれる。

「おらの家、おらの家族……おらにとってはほんのちょっと瞬きした間に、みんな歳食っちまって……おらも、こんな姿に」

「浦島太郎みたいな話ってことか……」

「怖ぐなっておら、また家を飛び出したら……今度は村に入れなぐなってたんだ……ううう」

「……神隠しから帰ってきた女を怪異だとして、村に入れぬよう結界を張ったと聞く。今でも松崎村の跡地には結界を成していたという石塔が残っている。恐らくそれのせいで、サダさんは未だに帰れずにいるのだろう」

 総司郎の語るむごい後日譚に、サダは耐えられなくなったのかぼろぼろと涙を零した。

 己の意図せぬ神隠しに遭い、果ては化け物扱いされ家の敷居を跨ぐことを許されなかった女の慟哭に、誰もがかける言葉を失くした。

 泣きじゃくる女の声がただ葦原を撫でる風に流されていく。

 しばらく黙っていた夢路は、大きく溜息をひとつ吐き口を開いた。

「いつまでも泣いてんじゃねえよ、辛気臭え」

「ゆめ」

 手厳しい言葉をたしなめる晴臣。しかし彼女は意に介さないように続ける。

「あ? お前を亡き者にしようとする村の奴らなんて忘れちまえよ。自由になれたと思って第二の人生楽しんだ方が得だぜ」

「第二の……人生……?」

 思いもよらない提案にきょとんとするサダ。赤く泣き腫らした目が初めて見開かれた。澄み切った瞳が、失われた青春の輝きを内包しているように瞬く。

 琴子も指を折り思案する。

「神隠しにあったのが十代の娘の頃としてー、そこから三十年……四十代半ばくらいかなあ? 全然いけるよねえ」

「現代じゃあね、それくらいの年齢は女盛りの一番楽しい時期なのよ。ほら、顔上げなさいよ」

 そう言ってアリスはサダの頬に手を添える。見上げた面差しは、素朴ながら素材の良さを感じさせた。

「涙拭いて。超絶可愛くしてあげるわ」

「めっちゃ盛れるつけまあるよー!」

「髪もインナーカラー入れようぜ。あたし蛍光色のエクステいくつか持ってるからよ」

「嫌よ、そんな品が無いの。サダ、あんたも嫌な時は嫌って言いなさいよ」

「おら……は、好き……かも」

「ほら見ろー」

 女性陣は各々の化粧道具メイクポーチを開き、やいのやいの言いながらサダに化粧を施し始めた。一度も白粉を塗ったことの無さそうな肌は、しかし手入れもないのによく引き締まり、絹を撫でるように化粧下地を受け入れた。

 あれよあれよという間に変わっていくその顔を、晴臣と総司郎はただ感心しながら見守る。

 小一時間ほどして、アリスは会心の出来と言わんばかりに鼻を鳴らした。

「ふむ、こんなものかしらね」

「わあ、いいねえいいねえ」

「ほれ、鏡」

 夢路が差し出した手鏡に映る己を見るや、サダは驚いて息を呑んだ。

「これが……おら……」

 彼女は見違えるほどに見目麗しい姿へと変貌を遂げた。

 シミやくすみはコンシーラーとファンデーションでカバーし、ハイライトを効果的に使用することでメリハリのある顔立ちを表現。涙の痕が目立っていた頬にはほんのりと健康的なチークが乗せられ、血色の良さを伺わせる。付け睫毛まつげで強調された目元はチークの色味と合わせた優しいアイシャドウが彩り、意志の強い瞳を印象づけていた。

 ヘアオイルでつややかに整えられた白髪は先端に行くほどエクステの鮮やかな赤が映え、まるで雪原に彼岸花が咲いたような幽玄さを孕んでいる。

 そこにいたのは百余年もの間、山で彷徨っていた老女ではなく……羽化したての蝶のように儚げな輝きを纏った美女だった。

 晴臣と総司郎は心の底から歓声を上げる。

「すげえ……可愛いは作れる……もはや化粧メイクというより工事……」

「なるほど、先輩方の仕上がりも、日々の研鑽の賜物――」

「男共、それ以上言ったら山に埋めて帰るわよ」

「ごめんなさい……」

 アリスの剣幕に、彼らは慌てて口を閉ざした。その様子に乙爺は赤半纏の背を揺らしてほっほっと笑う。

 誰より驚いていたのは総髪の猟師だった。あまりの彼女の変貌ぶりに、開いた口が塞がらなかった。

「な、んと……まあ……玉の如く美しき女よ……」

「やんだあ、あんまりじっくり見ないでけろ……」

 まじまじと見るその視線を、恥ずかしそうに受け取るサダ。その恥じらう姿すら、見る者が身悶えするような愛らしさを感じさせた。

 嘉兵衛はその場にひざまずき、彼女の手を取る。

「女、いや……サダよ。おれは栃内村とちないむらで鹿撃ちをしておる嘉兵衛という。おぬしさえ良ければ……おれと暮らさんか」

「え」

 突然の求婚に、当人のサダはおろかその場にいた誰もが沸き立った。

「ええええええ!?」

「こ、これは熱烈なプロポー――むぐ」

「いい所じゃないの、余計な口挟まず黙ってなさい」

 アリスは身を乗り出す一年生二人の口を塞いで諌めた。そう言う彼女も口の端は笑っていた。

 一同は固唾を飲みその場面を見守る。

「こ、こんな……おら、一度は嫁に行った身で」

「構わん。最後におれと添い遂げてくれるのならそれで良い」

 嘉兵衛の熱を帯びた言葉に、琴子はうっとりして夢路に振り向いた。

「ふわあ、聞いた? ゆめちゃん。私も一回言われてみたいわあ」

「琴子先輩は一回人員整理するのが先じゃないすか?」

 サダは受け取った言葉をゆっくりと噛み締め――彼の温かい手を握り返した。

「ふ、不束者ふつつかものだども……こんなおらで良ければ……お願い……します」

「うおおおおおおおお!!」

 一同は歓喜に沸いた。



「さて、無事に写真も撮れた撮れた!」

 カメラロールに笑顔の男女を収め、夢路は満足気に頷いた。こだわり抜いた角度で撮影した猟師と女は、映画から抜け出して来たような魅力を放っている。

 撮り上がりを確認するや己の美貌に惚れ惚れしていた嘉兵衛は、スマホを見て感心した。

「この薄い板で写し絵とな、便利な世よの」

「本当に良かったんだべ? おら、こんな綺麗にしてもらって、何もお返しも出来てねえんだども……」

 そう言い着物の袂を握るサダ。夢路は頭を振って笑う。

「良いって良いって! 早池峰祭はやちねさい本番が近づいたらまた呼びに来るからよ」

「何だべ……?」

 ステージ上に引き摺り出される契約がいつの間にか成立した事を告げない彼女に、これは後から断らせないやつだ、ヤクザと同じやり口だ、と晴臣はぞっとした。

「なあ娘っこよ、儂もおるぞ? 儂はええのか?」

 乙爺も写真に混ざろうとぴょんぴょん跳ねているが、一同に華麗に無視された。

「さて、お邪魔虫は帰りましょ」

「そうですね、もうそろそろ日が暮れます」

「私お腹すいたなあ」

「なあ、儂も儂も」

 踵を返す学生達に、身を寄せ合った二人は惜別の意を告げる。

「あ、ありがとうな、おら、幸せになるから」

「世話になったのう」

「今度こそ幸せにね、サダ」

「嘉兵衛、次にあたしらを撃ったら承知しねえからな」

 手を振る彼らに見送られ、五人は森の来た道を戻り始めた。

 昼下がりの木漏れ日は柔らかく獣道を照らし、時折吹く春の風に木々はそよいだ。心地よい疲労感に包まれた彼らの足取りは軽やかだった。

「あー、あたしも彼氏欲しいー」

「ゆめちゃん、誰か紹介しよっかー?」

「琴子先輩経由はノーサンキューっす」

 笑い混じりに帰路に着く一行の中で、アリスは何気なしに遠い木々の向こうに目を遣った。

 そこにはただ深い森が広がっているだけに思われたが、遥か遠い緑の中に微かに揺れるある物に目を奪われた。

 それは彼女がよく知る赤い着物の裾だった。

 一瞬だけ見えた小さなおかっぱ頭に、表情が強ばる。

「……きく?」

 足を止め、呆然と立ち尽くすアリス。

 彼女の呼びかけに応えることなく、着物姿は原生林に隠れ、紛れ、消え入った。



 Entry number.2 伝説の猟師と時を超える娘【了】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る