第14話 狼の倒し方
黒い狼の群れを前にして怯える白髪の女。枯草色の着物から伸びた手足は痩せ細り、ぶるぶると震えていた。
夢路は草原に身を隠す獣に目を凝らし、信じられないといった表情を浮かべる。
「何だあれ、野犬……いや、狼……?」
「ニホンオオカミって絶滅したんじゃないの!?」
「ここは遠野……死人と出会うくらいですから、死に絶えたはずの獣と出会うこともあるのかもしれません」
「何でもありって訳ね……」
眼鏡をかけ直し、冷静に目の前の怪異を受け入れる総司郎。アリスも不承不承頷いた。
騒ぎ立てる彼らに気が付いたのか、狼達は彼らの方に向き直って唸りを上げる。新たな獲物を見つけ犬歯を剥き出しにして向けられた殺気に、琴子は半泣きになった。
「ひええ、こっち睨んでるよう」
「早く逃げましょう、でないと俺達も……」
退路を探す晴臣。玉切れの猟師に丸腰の大学生五人。流石に銃撃戦の時のような幸運はそうそう期待できなさそうだった。
しかし彼を咎めるように、夢路は叫ぶ。
「あの人放っとけないだろ! 何とかするぞ!」
「嘘だろ……」
彼女の梃子でも動かなさそうな宣言にげんなりする晴臣。河童の時もそうだったが、この黒髪の少女は一度言ったら聞かない。絶対に聞かない。
そこへ、ぷんと腐臭を漂わせて赤半纏の好々爺が現れた。
「ほほ、勇ましい娘っこよの」
「乙爺!? いつの間に」
鼻を摘んで振り返る一行。心なしか、風下の狼の群れも臭いに怯んだように見えた。相変わらず足音がしなかった。
日向ぼっこでもしているかのように朗らかに笑う老人は、
「面白そうで見物に来たのじゃよ……ほら、儂は良いから。来よったぞ」
そう言って狼を指差した。黒い獣達は威勢よく吠え、夢路達に向かって一目散に駆けてくる。彼らは堪らず散り散りになって逃げ出した。
「ぎゃあああああああああああああああ!!」
「結局! 逃げるんじゃない! 無策にも程があるわよ夢路!!」
「うるせーアリス! 文句あんなら食われてこい!」
「だから! 先輩に対する敬意が足りないのよあんたにはあああ!!」
彼女らは罵り合いながら全速力で草原を逃げ惑う。足を止めたらあの強健な顎に食い散らかされる。命の危機に晒されたその走りは、短距離走者も顔負けのトップスピードだった。
しかし狼はしなやかな筋肉を躍動させて確実に距離を縮めてくる。
「……アリスさん、ゆめ!」
二人を心配する晴臣は、太い枝を拾って応戦していた。唸り涎を垂らして幹を咥えた狼に押し倒され、鼻先で肉薄している。とても助けに向かえる状況ではなかった。
総司郎は集まってきた狼を、持っていたライターの火で威嚇している。琴子はその背にちゃっかり隠れているが、じりじりと
狼の視線から外れた岩に腰掛けた乙爺は、高みの見物を決め込んでいた。
「さて、どうするのかの。このままじゃ皆食われるぞい」
「分かってるなら助けろジジイ!」
あの悪臭には狼も進んで近付こうとはしないようだった。それなりに距離を置いている。
ふと
「嘉兵衛の奴、何を……?」
銃を抱えて何かぶつぶつと唱えると、縄は淡い光を帯びた。そこへ息巻いて駆け付けた狼が飛び掛かるも、見えない壁に弾かれてその場に崩れ落ちた。
何が起きたか分からない、というように影の獣はその場で身震いした。
「サンヅ縄の結界……!? 凄い、遠野物語で読んだ通りだ」
その光景を見て声を上げる総司郎。百年以上昔のマタギに伝わる
それどころではない夢路は汗だくになって走り回りながら悪態を吐く。
「あの野郎! ひとりだけ安全地帯に引きこもりやがって!」
「うるさいわい! こちとら弾切れなんじゃ! 命あっての物種じゃろうが!」
「とっくに死んでるやつが何言ってんだ!」
嘉兵衛はどうあっても縄の中から出る気はないようだった。卑怯者が、と夢路は舌打ちをする。もうほんの数十センチ後ろに狼の気配を感じる。これ以上逃げ切るのは難しそうだった。
「くっそ、どうすれば……」
不意に視界の端に乙爺の姿が映り――彼女は起死回生の一手を思いついた。自分でもどうかしているとしか思えないような賭けだったが、如何ともしようがない。迷っている暇はなさそうだった。
真っ直ぐに赤半纏の爺に駆け寄るなり、急いでその上羽織を剥ぎ取った。
「乙爺! 貸せ!」
「ああん、そんなご無体な……」
乙女のような悲鳴を聞きながら、夢路は激臭漂う上着を腕に巻きつけ、
「うらあああああああああああああ!!」
叫びと共に、背中に迫っていた狼の口蓋に手首ごと突き入れた。すえた臭いと思いもよらない衝撃に、獰猛な獣も目を白黒させる。
奇しくも同じ戦い方をした男が遠野物語にいた。力自慢の鉄という男は村を襲う狼を倒すため、身に付けていた羽織を脱いで腕に巻き、雌狼の口に突っ込んだのだ。男の太い腕は狼の胃の腑まで届き、その結果――死に間際に噛み砕かれ、ひとりと一匹が相打ちになる話だ。
狼の
夢路の細腕が、ミシリと軋んだ。
「うぎぎぎぎぎぎ」
「なんと捨て身な……! ええい」
その様子を見て、居ても立ってもいられなくなった嘉兵衛が羽織を探る。慌てる指が、上着の奥に取っておいた隠し弾を探り当てた。それは猟師がいつも肌身離さず持ち歩くことで霊力を得るという、魔除けの弾だった。
少女の勇気に免じ、とっておきの金弾を愛銃に込める。
「ここぞとばかりの一発、食らうがいい!」
三重の縄の中から放たれた弾丸は音より速く飛び、夢路の腕に食らいつく狼の腹を貫いた。退魔の一撃により、血潮が迸る代わりに銃創から影が漏れ出、煤のように空気に溶けて消えていく。
と同時に淡い光が草原一帯に散り、掻き消されるように狼達は消えていった。
「消えた……?」
「助かったあ……」
はらはらと様子を見守っていた実行委員達は、安堵と疲労にその場に膝を折った。涎塗れの赤半纏を投げ捨てた夢路は、大金星を挙げた猟師に詰め寄って怒りをぶつける。
「そういうのあるなら最初から使え馬鹿野郎!」
「いだだだ! 貴様、命の恩人に対する態度かそれは!」
「ゆめ、今回は許す。もっとやれ」
頬を抓られる嘉兵衛を横目に見ながら、晴臣はやれやれと溜息を吐いた。今回も本当に危なかった。夢路の提案に乗って生きた心地がした試しがない。
草原の真ん中でぎゃあぎゃあと喚く人だかりに近寄る姿があった。
白い髪を無造作に括った枯草色の着物の女は、疲労と困惑を滲ませつつもどこか緊張したような面持ちで一行の前に立った。伏せられた瞳とその頬には涙の跡が残っていた。
その顔を初めて真正面から見て、嘉兵衛は驚いたように呟く。
「おぬし……トヨでは、ないな」
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