第13話 赤毛布の乙爺

 土淵村山口に新田乙蔵にったおとぞうという老人あり。村の人は乙爺おとじいという。今は九十に近くみてまさに死なんとす。年頃としごろ遠野郷の昔の話をよく知りて、誰かに話して聞かせ置きたしと口癖くちぐせのようにいえど、あまりくさければ立ち寄りて聞かんとする人なし。処々ところどころたてぬしの伝記、家々いえいえの盛衰、昔よりこのごうおこなわれし歌の数々を始めとして、深山の伝説またはその奥に住める人々の物語など、この老人最もよく知れり。

         

                           ――遠野物語12



「何なんだお前! いつの間に――」

 夢路は振り被り、その場に落ちていた枝を投げる。彼女らを見下ろす爺はそれを赤頭巾を傾げるように易々と躱した。

「ほほほ、威勢のいい娘やの」

 カラカラと笑いながら。シワに埋もれた目元で、優しく語りかける。

「儂は村の若いのに乙爺おとじいと呼ばれておるよ」

 そう言うや否や、ひょいと枝から飛び降りる。落ち葉の上に難なく着地したその赤半纏姿に、総司郎は耳を疑うように問い返した。

「乙爺……赤毛布あかげっとの乙爺ですか!?」

「……もしかしてこのお爺さんも、遠野物語に出てくるとでも言うの?」

 訝しむアリスに、彼は頷いて眼鏡をかけ直す。

新田乙蔵にったおとぞう……この方も明治時代に生きた人物です。遠野の伝説や物語、歌謡に至るまで多くを後世に伝える話者で、彼が語る話の数は遠野一だとも言われていました。彼が柳田国男に語ったお陰で遠野物語が出来たと言っても過言ではない。いつも赤い頭巾と赤半纏を身に付けていたので、赤毛布の乙爺と呼ばれていました」

 総司郎の紹介に、好々爺こうこうやは小さな背を揺らしてほっほっと笑った。

「にしても……臭え……」

 夢路ははばからずに鼻を摘む。乙爺から一メートルも近付いていないはずなのに、風に吹かれた凄まじい悪臭が一行の鼻をついた。生臭さと汗臭さを煮詰めたような濃い臭いだった。

 総司郎も堪らず眉をひそめる。

「……遠野物語にも風呂に入らなくて臭かったがために、村の者は誰も話を聞いてくれなかったとあるが、これ程とは……」

「せっかく沢山のお話を知ってたのに……でもある意味自業自得なのかなあ」

 もったいないなあ、と琴子もハンカチで口鼻を押さえる。その反応すら楽しんでいるのか、乙爺はほっほっと笑ってわざと半纏の裾を扇いで見せた。

 夢路は顔をしかめたまま脇道に逸れた話を戻す。

「それより……さっき言ってた現世うつしよとか幽世かくりよって何なんだよ」

「そのまんまの意味じゃよ。儂らのような悠久の時の中で魂を抱え歩く者と、その身に未だ魂を宿した者。死者と生者、どちらも交わることが出来る世界が――ここ、遠野じゃ」

「いつから遠野はそんな魔境になったのよ……」

 アリスは呆れるが、小さな爺は今度は笑わなかった。明治の世を生きたという彼らが死してなおこの場にいるという言い分は俄かには信じられなかったが、足音ひとつ立てずに五人の前に姿を現した老人のその瞳は、何か冗談を言っている風には感じられなかった。

 ふと、乙爺は目を丸く見開いて夢路をまじまじと見た。

「そういえば、黒髪の娘っこよ。ぬしら、面白い取り合わせじゃの。おぬし、なぜと連れ立っておるのじゃ」

「あれ? 何の事だ?」

 赤頭巾の老人は彼女を頭のてっぺんから爪先まで何度も凝視し、やがてその耳に光るピアスを見つけた。皺の奥の丸い瞳が、すっと細められる。

「これは……なんとまあ、そういう事かの。はいはい」

 何やらひとり得心がいったようにうんうんと頷く。

「な、何だよ」

「うん……儂が口を出すことではないな。……おや」

 夢路の疑問に答えることなく傍の猟師を見遣った乙爺だったが、その姿は忽然と消えていた。後ろ手に縛り上げていた縄だけが枯葉の上に落ちている。アリスが取り上げてその辺に放っていた猟銃もなかった。

「逃げやがったあいつ!」

 慌てて見回すと、五十メートルほど向こうに愛銃を担いで走り去る嘉兵衛の背中があった。軽快な走りだったが乙爺と同じく足音がせず、逃げたことに気付くのが遅れたようだった。

「追うぞ!」

「こら、待ちなさいよ!」

 ほほほ、と笑う好々爺をそっちのけに夢路とアリスは駆け出し、他三人も続いた。乙爺は袖手をしてその背を見つめ、ぽつりと呟く。

「未だ答えを持たぬが故、その輝きに引き寄せられる者もあろう。儂らだけでなく……のう、嘉兵衛」



「待ちやがれこのクソ野郎!」

「嫌じゃ! 待てと言われて待つ馬鹿がおろうか!」

 道無き斜面を駆け下り、嘉兵衛は脱兎の如く木々を掻い潜る。流石に山に慣れた歴戦の猟師は逃げ足も速かった。

 その一本に縛った後ろ髪を、夢路達も息を切らして必死に追う。

「ううーん、なかなか山の中だと分が悪いねえ。投げ縄とかない?それか罠。毒矢とかでも良いよお」

「徐々に生死を問わなくなってません? 暗殺者にでも育てられたんですか?」

 晴臣はぞっとするが、しかし琴子の提案ももっともだった。猟銃を抱えた背中は少しずつ離れていく。

 薮を抜けると森の終わりに差し掛かり、一同は開けた草原に出た。久方ぶりの白い陽が、高い位置から五人を見下ろしている。

「どうやら……森を抜けたようだけど、ここは……?」

 額に汗したアリスが赤髪を翻し、辺りを見渡した。膝丈の草が広がるそこには朽ちた柱が何本か斜めに生えており、何か住居跡であったことが伺える。

「村の跡地、でしょうか。この辺りは地図には載っていないはずです」

「あ、嘉兵衛!」

 立ち尽くした猟師にようやく追いついた夢路はその肩を掴んだが、

「てめーやっと捕まえたぞ――」

 良いかけて、彼の向こうの光景を目にし立ち止まった。

「え、あれ……狼!?」

 視線の先では影から生まれたかのような黒い狼の群れが、今まさに白髪頭の女に食らいつこうとたかり、獰猛な唸りを上げていた。

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