第10話 濃霧の森
腐葉土の床をすり抜けるような感触がして、夢路はふかふかの落ち葉の上に尻もちをついた。上から落ちてきたような感覚がしたのに、見上げた空は抜けるように青かった。
つい今しがたまで言い争っていたアリスはおらず、何なら他の実行委員のメンバーも姿を消している。朝靄のような霧が色濃く残る辺りは、どこを見回しても嘘のように静まり返っていた。
息苦しくなるような張りつめた空気を、彼女は知っている。
「ここは……」
「久しぶり、お姉さん」
背後にかけられた場違いなほど軽やかな声に、夢路は振り向き様に飛び退く。そこには坊ちゃん刈りにサスペンダーの少年が後ろ手を組んで立っていた。
「てめーは……河童探しの時のクソガキ!」
「相変わらず口悪いなあ」
落ち葉を握りしめ、少年を睨みつける。
なぜこんな印象的な出来事を今の今まで忘れていたのか、夢路には不思議で仕方がなく、また気味の悪さに拍車をかけていた。
飄々とした様子の少年は、楽しそうな様子で彼女を見下ろしている。
「もしかしてあたしの記憶消したのか!? 妙な事しやがって! 一発殴らせろ!」
「そう言われて素直に殴られると思う? やなこったー」
飛び掛かろうと地面を蹴った夢路を、彼はひらりと躱して避けた。そのまま落ち葉の海をちょこまかと駆けていく。
「ほーらこっちこっち」
「うぎぎぎぎ」
その小さな背中を、黒髪を振り乱して野猿のように追い回す。霧を抜けて木々の陰を走り、距離が開けばわざと近付く。完全に挑発している。
全速力で追ってくる夢路をギリギリまで引き付けた少年は、突如煙のようにその場から姿を消した。
「うおっ!?」
急には止まれない夢路は、少年が立っていた場所に埋まっていた黒岩に盛大に躓き――小さな岩
「いってえ……」
両膝を擦り剥いた彼女の目の前に、再び少年は現れた。散った煙が寄って集まったかのように、何もない空間から湧いて出てきた彼に思わず寒気がする。
「あははは、引っかかった! 今回も退かしてくれてありがとうね!」
「『今回も』……? これ何なんだよ! 一体あたしに何をさせてんだ!」
自分は何か嵌められている。少年の小さな掌の上で踊らされているかのような気持ち悪さに、意図が分からない夢路は激高し、その襟元に掴みかかった。彼は子供には似つかわしくない怪しげな笑みを浮かべ、人差し指を口に立てる。
「ふふ、まだ内緒かな。それじゃお姉さん、またのご協力をお待ちしてるよ」
「こら待て――」
言うが早いか、坊ちゃん刈りの頭はぐにゃりとひしゃげ、空間に溶けて消えた。同時に辺りの霧が急に濃くなり、夢路の視界を奪う。白濁する意識の向こうで、最後に何か言っているのが聞こえた。
「前回はあっちに戻す時間と場所設定を間違えちゃったからなあ。今回は直後に戻してあげる。怪しまれないようにね……」
「あれ……!?」
何もないところで躓いた気がして、夢路は落ち葉の上でたたらを踏んで立ち止まる。後ろを追って来ていた晴臣が異変に気づき、声をかけた。
「ゆめ、どうした?」
「……分かんねえ。分かんねえけど……何か今一瞬、クラっときたような……」
確かに自分はアリスの背を追おうとした。しかし一瞬視界が白く瞬き、気付いたら転びそうになっていた。なぜかさっき駆け出したとは思えないほど身体は疲労している。ふと足元に目を落とすと、両膝には覚えもないのに血が滲んでいた。
「何だこれ……」
「ゆめちゃん、膝擦り剥いてるよ? 絆創膏あるからちょっと待ってねえ」
のんびりと駆け寄った琴子が、鞄を漁る。そもそもどうしてこんな傷を負っているのか分からない。転んだ覚えなどない。大きな絆創膏を両膝に貼られながら、夢路は折れるほど首を傾げた。
「何でだ……また何か、忘れてるような気がする」
どうやって思い出そうとしても、夢を見た後のように頭に霞がかかって思い出せなかった。訝しむ様子の彼女に、晴臣は眉根を寄せる。
すると総司郎が周囲を見回し声を上げた。
「ん、
そう言われ、他もキョロキョロと林に目を凝らす。どこにいても目立つはずの赤髪は、森の奥に吸い込まれたか如く見えなくなっていた。
この先は原生林が広がる遠野の魔境。女子大生の身ひとつで入って無事でいられる保証はない。晴臣は焦りを隠さず懸念を口にする。
「アリスさん、気付かず先に行ったんじゃ……」
「あいつ、張り切って走っていきやがったな」
溜息混じりの夢路。元はと言えば彼女が躓いたせいでもあるのだが、とやかく言わないことにした。
キャラクター柄の絆創膏の膝を叩き、探しに行こうと夢路が前を見据えた時。
山奥で、乾いた銃声が響き渡った。
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