第7話 赤い河童
森が映った水面が遠ざかっていく。夢路は脚にまとわりつく何かを振り払おうと身を
もしかして、と彼女は背筋に冷水を差し込まれたような気持ちがした。この水中に引き込む腕の主こそ、追い求めてきた遠野の河童なのだろうと確信した。
と同時に危機でもあった。このまま水底に引き摺り込まれれば、人間の自分は遠からず息が切れて死ぬ。
悪戯の域を超えた所業に……夢路は段々腹が立ってきた。
「……ふぐっ!」
渾身の力を込めて、背後に迫るそれに肘鉄を食らわせた。水中で思うように威力が出なかったが、驚いて腕の力を弛めたようだった。すかさず彼女は赤銅色の身体を蹴って離れる。
振り向いて確認すると、『遠野の赤河童』の名の通り赤い顔を両手で覆い、水中に漂っていた。頭には白い皿のようなものも見える。
夢路はもう少しよく確認しようとして、しかし息が続かない。視界が瞬きかけたその時、大きな水しぶきを上げて晴臣が飛び込んでくるのが見えた。彼女の身体を抱え、急いで水面へ浮上する。
「ぶはっっ!!」
「……大丈夫か!?」
縁岩に取り付き、二人は大きく息を吐いた。ぜえぜえと肩で息をしながら、夢路は今しがた見てきたものを口にする。
「ハル……河童だ、河童がいた」
「ああそうだな……まさか見つかると思ってなかったよ」
彼女を抱えて泳ぐ最中、晴臣もその姿を目の当たりにしていた。赤銅色の鱗を持つ人型の水生生物。あれは確かに遠野の河童だった。
夢路の瞳はリベンジに燃えている。
「地上でもう一発食らわさねえと気が済まねえ……引き摺り出すから手伝え」
「やめとけよ……水利は完全に向こうにあるんだから自分から上がって来る訳」
止める間もなく、彼女は大きく息を吸って水中に消えた。
猛然と水を掻き、五・六メートルはあるかという深さを素潜りで潜る。その鬼のような形相に河童は慄き、素早く岩陰に隠れようとした……が、一瞬早く夢路が河童の腕を掴んだ。水利の有無などものともしないスピードだった。
手早くヘッドロックをかけてそのまま急浮上し、浅瀬に引き摺り出す。
「はい確保おおおおおおお!!」
「うおお……本当に捕まえてきやがった」
肩で息をして勝どきを上げる彼女に、晴臣は若干引いた。暴れる河童を取り押さえるその姿は、探検隊の隊長というより未開の地を行く
甲高い声を上げ、河童は命乞いをした。
「わ、わ、おやめ下さいー! 命だけは! 命だけは助けて!」
「どの口が言ってんだこの野郎が!」
皿から溢れた肌と同じ赤い髪が顔を隠し、その表情は伺い知れなかった。濡れた髪の毛を晴臣が払ってやると、彼は驚いたように声を上げた。
「おいゆめ……見ろ」
「え……こ、これは」
覗き込んだ夢路も、あまりの事実に驚愕の表情を浮かべる。
赤みの差した頬、大きな濡れた瞳、整った鼻筋、あどけない顔立ち、皿の隙間から零れる癖毛……それはアイドルグループにいても遜色ないような美少女だった。
「か……かわいい……」
思わず、といった様子で二人はどちらともなく声を漏らした。気づいてか気づかずか、河童の少女は水掻きのある指で目の端の涙を拭って必死に弁明する。
「ご、ごめんなさいっ! ひ、人が来ると思ってなくってっ、人襲わないってっ、昔ちゃんと約束したのに私っ、つ、ついびっくりしちゃってっ」
「うんうん、そーかそーか。そりゃびっくりするよな。無罪!」
「可愛いものに対して激甘じゃない? 何なの?」
晴臣の下す判決に不満気味の夢路。手首がねじ切れそうな見事な掌返しだった。
「も、もう悪戯しないからっどうか許してくださいいいい」
「おう分かった。隊長、こう言ってますけど」
「何か腹立つな……まあいいや。条件として写真撮らせろ。別に観光協会に引き渡したりしないから」
「ほ、ほんとですかっ!?」
彼女の提示する条件に、河童は命が助かるのならとありがたそうに承諾する。
早速夢路はスマホを取り出し、無遠慮に写真を撮りまくった。
「ったく、防水仕様で良かったぜ……」
カメラロールはあっという間に赤肌の美少女で埋まっていく。連写音に目を丸くする表情はどこか初々しさがあり、街角から連れて来たばかりのアイドルの原石のような可能性すら感じさせた。
会心の一枚が撮り上がり、夢路監督はこんなもんか、と端末を仕舞った。
河童の少女はその様子を見て頭の皿をそっと手に取り、二人に差し出した。皿があった場所はうねりのある癖毛が渦巻いている。
「私は静かに暮らしたいだけなので……助かります。あの、これ……持ってて下さい。これがないと淵から出られませんが……淵から出ないという意思表示になるかなって」
「皿って着脱可能なんだな……」
どういう仕組みなんだろう、と思いつつも晴臣はそれを受け取り、ハンカチで包んで鞄に仕舞う。割るわけにはいかない代物だったので、慎重に持ち帰ろうと心に決めた。
「そんな大事なもん、俺らなんかに渡して良いのか?」
「は、はい! お二人は親切そうな方々なので……きっと大切に保管してくださるだろうと」
「初対面の人に全幅の信頼を寄せすぎなんだよ……そんなだから村人に殺されかけるんだよ……」
晴臣の言葉にきょとんとする少女。その仕草すら可愛かったので、彼はそれ以上何も言わなかった。
彼女は皿の無くなった頭を丁重に下げる。
「では、この度は淵に引き摺り込んでしまい、大変失礼いたしました……」
「いえいえこちらこそ、静かな生活を脅かしてすみませんでした……ほらゆめ」
「おう、二度とやんなよ! じゃあな!」
目的を完遂した二人は、赤い河童に見送られながら森の来た道を去っていった。
下り道の原生林は簡単に彼らの姿を隠し、すぐに見えなくなった。
後ろ姿に手を振っていた河童はふと首を傾げ、ひとり呟く。
「でもおかしいなあ……人間に会わないように結界の中にいたはずなのに」
姥子淵を後にし、のどかな農道を歩く二人。辺りはすっかり夕暮れ時に差し掛かり、カラスの群れがこぞって森に帰っていった。
夢路は嬉しそうに伸びをする。濡れたポニーテールが雫を垂らして揺れ、露わになった両耳に金銀鮮やかなピアスが輝いていた。
「すげえ……ほんとにいたな! 河童! あたし達で見つけたんだぞ!」
「……そうだな。本当に見つかると思ってなかったよ」
滝で出会った赤い少女の、怯えた表情を思い出しながら晴臣は呟いた。百年余りの時を超え、再び人前に現れた妖怪。息を潜めて生きてきたはずのおとぎ話の住人。こんな顛末になるとは彼も予想出来なかった。
河童に出会う直前に感じた、森が冴え渡るような感覚。あれは何だったのだろうと晴臣は首を捻る。が、答えは出なかった。
隣の彼女は腕を組み満足気に頷く。
「ひとり可愛い子がいたらミスコンの投票も盛り上がんだろ」
「まさか河童も客寄せパンダにされるとは思わんだろうな……」
どうやら夢路は河童を見つけ、探検欲を満たしたようだった。まだ見ぬ怪異を探しに山へ分け入るのはもう懲り懲りだった彼は、そっと胸を撫で下ろす。これでもう彼女に連れ回される事もないだろう。
ふと思い出したように、問いかける。
「それにしても良かったのか? 写真だけで」
「あ? 学園祭本番になったらどんな手を使ってでも引き摺り出して連れてくるぜ。皿はこっちにあるしな」
「鬼かよ……」
隊長の恐ろしい腹積もりに唖然とする晴臣。しかし夕陽を受けて煌めく彼女の瞳は
こいつだけは敵に回したくない、と彼は心に決め、二人仲良く太陽の沈む方へと歩いて行った。
Entry number.1 遠野の赤河童【了】
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