第6話 相沢の滝
「本当に頭打ったわけじゃないんだな?」
「だからほんとだって。痛くねーもん」
心配する晴臣に何度目か健康をアピールする夢路。足を滑らせた場所からは五十メートルほど離れた川のほとりに、彼女はひとり立っていた。到底そこに至る記憶がないなどということはないはずなのだが、本人が覚えていないのだからそれ以上の言及のしようはなかった。
納得がいかなそうな彼をよそに、夢路は傍で流れる清流に目を遣る。
「ここが
常堅寺の脇を流れていたカッパ淵もそれなりに澄んでいたが、ここはまた別格だった。深い森の木々に囲まれた、人間に忘れられたかの如き緩やかな流れは見る者を癒した。
夢路は伝え聞いた遠野物語に思いを馳せる。
「ここで河童が馬を引き摺り込もうとして、逆に
「村人に見つかって殺されかける」
「そうそう、蛮族エンドな……あれ、助かった後は?」
「……」
「おい」
歯切れ悪く黙り込んでしまった晴臣を小突く。都合の悪い時、彼は決まって濁す癖があると今日一日で学んだ夢路は、自分の鞄に入れていた『口語訳 遠野物語』を開く。ぱらぱらと捲って当該のページを数秒読み込んだ彼女は、勢いよく本を閉じて晴臣に噛みついた。
「……改めて読んだら、淵を離れて相沢の滝に棲むようになったって書いてあるじゃんか! どこだよ相沢の滝!」
「バレたか……」
晴臣はとうとう白状した。河童捜索隊の隊長は黒髪を振り乱して怒りを露わにする。
「もうここまで来たら教えろよ全部! 案内しろ滝まで!」
「ここらの川は滝だらけでどこか分かんねえんだよ! 流石にこれは本当だ! 信じてくれ!」
「今まで散々はぐらかそうとしてたくせに今更信じられるか!」
文庫本を雑に鞄に仕舞うや否や、夢路は川の流れと逆方向に歩いていく。
「こうなったら川を遡って上流に行くぞ。そしたら滝くらいあるだろ」
「ええ……まだ行くのかよ」
「今日のお前に拒否権はねーからな!」
行くところまで行く気の隊長に、隊員は成すすべなく従うしかなかった。
せせらぎを横目に見ながら、二人は山地を踏みしめていく。人の手の及んでいない森は、湿潤な空気に包まれ緑に覆われていた。涼しいとはいえ、傾斜のついた苔むす岩道を登る額には汗が浮いていた。張り付く髪の毛が不快指数を上昇させ、夢路は振り払うように長い黒髪を翻す。
「あー、髪邪魔くせーな」
鞄を漁り、適当なヘアゴムを取り出す。手慣れた様子で後頭部にまとめ上げると、黒いポニーテールが出来上がった。うなじに清涼な風が通り、彼女は満足げに頷く。
「これでいいや」
彼女の背中を追っていた晴臣は、前方で揺れる髪束を見るや否や吹き出した。
「……おっふ」
「は? 何その反応……普通にキモいわ……」
「いやお前、唐突なポニテは反則だろ……」
振り向いて
「ハルがそんなポニテ女に魂売ってるとは知らなかったわ……何ならちょっと引く」
夢路は寒気を感じながら先を急ぐ。連休明けに先輩達に報告してやろうと思った。
「ポニテなら何でも良い訳じゃ……黒髪でポニテはズルい」
「あーはい、分かったから……」
途端にポンコツになった相棒を捨て置くつもりで大岩を乗り越えると、ちょっとした露天風呂ほどの広さの水溜まりに静かな音を立てて落ちる細い小滝が目の前に現れた。二メートルほどの立岩を流れる白い落水を見上げ、夢路は歓声を上げる。
「おー! あったな、滝」
ぐるりと岩に囲まれた淵は深い水を湛えているようで、水面の落ち葉がゆったりと流れていった。
それまで歩いてきた苔むした道程は一旦滝で遮られ、この先に行くには大きく迂回するしかなさそうだった。河童が棲むならここかも、と縁石に立った彼女は期待に胸を膨らませる。
「気を付けろよ。落ちたら」
「わ、やめ」
注意を呼び掛けた晴臣に仰け反り、苔で足を滑らせた夢路はバランスを崩した。
咄嗟に伸ばした彼の指が肩を掠め――彼女の耳を覆う金銀のピアスに触れる。すると突如、大きな静電気が起きたような音がして晴臣の腕が弾かれた。
派手な音を立てて、支えをなくした夢路は大きな水しぶきと共に淵にダイブする。
「何だ、今の……?」
己の掌に残る衝撃に、何が起こったか分からないと驚く晴臣。鐘楼が鳴り響いた後のように空気が震え、森の緑が澄み渡るような気配がしていた。
はたと気が付き、荒れた水面を見遣る。深みに落ちたらしい夢路がぎゃあぎゃあ言いながら藻掻いていた。
「あああもう下着までずぶ濡れんなったじゃねーか! お前も引き摺り込んでやるわ! 来い!」
通常運転の彼女の物言いに、特に先程の謎現象の影響はなかったらしいと分かる。
「引き摺り込むのは勘弁しろ……ほら、そっち深そうだから溺れるぞ」
ひとまず引き上げてやろうと彼は手を伸ばしたが、
「え、あれ? なにこれ――」
夢路は水中に視線を落として焦るような声を上げ、次の瞬間――深い水底に引き込まれた。
「ゆめ!!」
晴臣の叫びに、大きな水泡だけが水面に浮かび上がり、無情にも弾けて消えた。
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