第5話 不思議の森
教わった目印である水車の脇を抜け、二人は静かな森に辿り着いた。濃緑の道なき道の向こうからは微かに水が流れる音がしていた。吹き抜ける森の香りに、夢路は一息吐く。
「ここが
「そこらの藪の向こうに川が流れてんだろ。ただこの先は獣道だから人が通れるようなとこじゃ」
「うっし行くぞ」
「聞いちゃいねえ」
膝ほどの草丈をものともせず、夢路は生足で藪に分け入っていった。慌てて晴臣も背中を追う。
「ゆめ、足元見えねえから気を付けろよ」
「分かってるって」
単純に足を踏み外すだけでなく、蛇がいても気付かず踏んでしまいそうだった。気にしていなそうな隊長の代わりに、彼は草むらによく目を凝らして進む。
しかし大股で思うままにざかざかと歩く夢路との距離は次第に広がり、離れた二人は薄暗い森の奥へ吸い込まれていく。
彼女は空気の匂いを嗅ぎ、沢のありそうな方角の見当をつける。
「水の匂いがする気がする。こっちか」
「何そのランボーみたいなスキル……」
「は? 田舎民舐めんなよ。雨降る前の空気の匂いだって嗅ぎ分けられるぜ」
そう言ってより緑の深い方へ入っていく夢路。腰の辺りまで雑草に囲まれ、細い白樺の木に飛びつくように移動していく。二メートルほど下に、岩間をゆるゆると流れる清流が見え隠れしていた。
傾斜を足で探り、彼女が腰を落として土手へ降りようとしたその時。
「こっちが近道っぽい――わっ」
「ゆめ!」
ぬかるんだ地面に足を取られたのか、その背丈が暗い草むらの中に消えた。急いで晴臣が駆け寄ったが、藪の中にも眼下の土手にも夢路を見つけることはできなかった。
「は……? あいつ、どこに……」
その姿はおろか、長い黒髪ごと白樺の森に呑まれたかの如く忽然と消え去ってしまった。
草木を滑り降りるような感触がして、夢路は湿った腐葉土に尻もちをひとつついた。
「いってえ」
尻を押さえてよろよろと立ち上がる。そこは先程の白樺の森と同じように見えたが、振り向いても森の入口は見えず、三百六十度平坦で
清流の音と匂いは消え、代わりに異様なほど静まり返った無の音だけが痛いほど耳に押し寄せてくる。
「……どこだここ」
バランスを崩した際、咄嗟に目を瞑ったせいで自分がどこにどう着地したのか分からなかった。心音がやたらとうるさく鳴っている。
周りを見渡し、後ろにいたはずの晴臣の姿がないことにも気づく。
「ハル」
呼びかけは森の空気に溶けて消えた。彼の気配や息遣いすら感じなかった。
遮られた陽の光は時間の感覚を失わせる。取り出したスマホは分かりやすく圏外。自分はどこに足を踏み入れたのだろう。胸の内の焦りを誤魔化すように、溜息をひとつ吐く。
否、夢路には分かっていた。ここは遠野だ。現代にひっそりと息づく魔境。不可思議な物語と隣り合わせの地。説明のつかない事態に巻き込まれるのはむしろ歓迎すべきことだった。
事態を飲み込み、たったひとりで不敵に笑う。
「臨むところじゃねえか……」
見知らぬ森に一歩踏み出し、まずは相棒を探し歩くことにした。自分の足音だけは確かに鳴るのに何故か安心しながら、真新しい落ち葉を踏む。
不安を掻き消すようにわざとらしく踏み荒らす音の合間に、子供のような呼び声が響いた。
「そこの、そこの人……」
「ハルー? いねえのか」
「そこの、お姉さん……」
「ったく、どこ行ったんだよあいつ……隊員の風上にも置けないぜ」
「そこの、黒髪の麗しいお姉さま! どうか無視しないで!」
「しゃーねえ、探しに行くか……」
「ねえってば! 普通さ! 褒めたら振り向くじゃん!」
声を半分無視して通り過ぎようかと思っていた夢路は、突如目の前に現れた少年の姿に心底驚いた。
「わ、びっくりした」
「え、本当に聞こえてなかったんだ」
それは七つか八つくらいの少年だった。白シャツとサスペンダーで吊った短パン、坊ちゃん刈りの頭が、いかにも戦後の裕福な家庭の子を彷彿とさせる。
相手が何であろうと舐められたくない彼女は、平静を装い睨みつける。
「何だよお前、こんなとこで何してんだガキ」
「柄悪いなあ……ヤンキーかよ……」
少年の言葉に舌打ちし、早々に立ち去ろうとする夢路。
「嘘です! うそうそ! ごめんなさいってば! ……お姉ちゃん、迷ったんでしょう?」
「……迷ってねーし。ちょっとダチとはぐれただけだし」
強がってはぐらかす。ようやく誰かに会えた安心感などなく、この静かな空間の一体どこから彼が現れたのか分からない気味の悪さが勝っていた。
「お姉さんにお願いがあるんだけど」
少年は上目遣いでそう言い、傍の白樺の根元に転がった岩を指差した。
「これ退かしてくれない? 僕の力じゃとても……」
「は? 知らねーよ失せろ」
関わって碌なことがなさそうな申し出に、彼女はやはり去ろうとする。慌てて少年はその脚に取り縋った。
「待って! 行かないで! ……帰り道教えるから!」
帰り道、にピアスの耳が反応する。何でお前が知ってるんだ、というもっともな疑問も湧いたが背に腹は代えられず、渋々といった様子で振り向いた。
「……これ退かしゃいいの?」
「そうそう」
気は乗らないが、これ以外に帰る手立てもない。少年の指示の通り白樺の根元の岩に足をかける。一抱えの子供ほどの大きさの丸い黒岩は、夢路が少し体重を乗せるとあっけなく転がった。
「よ、いしょっと……ほい、これでいいの?」
「わあ、助かった! ありがとうお姉さん!」
諸手を打って飛び跳ねる少年。岩を転がすだけで何をそんなに喜ぶ必要があるのか、と彼女は怪訝に思ったが、途端に森の奥へ駆け出していく姿にそんな思考も吹き飛んだ。
「またね」
「あ、ちょっと待て――」
坊ちゃん刈りの頭は木々に紛れてすぐに分からなくなった。白樺に吸い込まれていったようだった。
辺りを見回すと、先程まで感じていた張りつめた空気は不思議と取り払われたような気がした。音や匂いすらしなかった小川は、すぐそこでゆるやかな弧を描いて流れている。
「どういうこと――」
今の今まで見ていた世界は何だったのか。いくつか瞬きをして川の流れを見つめていると、
「……ゆめ! ここにいたのか!」
晴臣が息を切らして駆けつけてきた。湿地の草むらを掻き分けて探していたのか、髪や服のそこここは落ち葉や泥で汚れている。
「探したぞ……お前、いつの間にこんなとこに」
「……さあ?」
彼を見上げて首を傾げる夢路。頬をつねったが、しっかり痛かった。
まるで夢から覚めた後のように、彼女の頭からは静謐な森の記憶がすっぽり抜け落ち、足を滑らせた後のことは何も思い出せなくなっていた。
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