抱き合っている

甘木 銭

抱き合っている

 僕は彼女と抱き合っている。


 初めて彼女と抱き合っている。


 擦りガラスのはまった扉の前で。

 薄暗い部屋の中で。

 ビルの五階で。


 この外界との繋がりがなお強い密室を、本来的ではないが、ある種一般的な使い方をして。


 ドリンクバーのすぐ横の部屋で。

 防音の弱い薄い壁の横で。

 騒音の中で。


 僕は彼女の細い体を、ゆっくりと、力強く抱きしめる。

 段々と腕に力が篭もる。


 ぽっかりと空いた穴を埋めようとするように。

 体の表面から融合して彼女を取り込んでやろうとでもするように。


 僕に対して小柄な彼女を、押し潰してしまわないかと頭の端で思いながら。

 やがて頭の奥がぼんやりとして、そんな配慮も掻き消える。


 放っておいた機械が、どうにも興味の湧かない映像と音をモニターに流し、時々流れる歌はそれでも僕たちの抱擁を遮れない。


 ソファとテーブルで狭い部屋の、扉の前の2人がようやく手を繋げるぐらいの小さなスペースの中で。


 僕は彼女と抱き合っている。

 3ヶ月ぶりに会った彼女と。


 付き合ってから初めて。

 別れてから初めて。


 彼女との出会いは大学で。

 確か何かのきっかけで意気投合して。


 2人とも同じ本が好きで、同じアニメが好きで、同じ音楽が好きで。


 演劇が好きで、映画が好きで、旅行が好きで。


 僕は彼女の勧める小説が好きで。

 彼女が好きな物のことを話しているのが好きで。

 プレイリストの曲数が2倍になる頃に、僕は彼女に告白した。


 承諾があり。

 1ヶ月ほどの期間があり。

 話し合いがあり。


 2人は友人に戻り。


 原因が何かは、ぼんやりと不明瞭で。

 ただ不向きだったというか。


 とにかく僕と彼女は、その後も良い友人のままで。


 でも僕だけは、どうにも気持ちが消せなくて。


 僕は友人として彼女を裏切った。

 どうしようもなく切ない気持ちになってつい体が動いた。


 僕は利己的な人間だから。

 彼女を利用しているのだ。


 告白をしたあの日から。


 僕には誇れるものなど何もない。

 僕など生きていても仕方がないという、鬱々とした気持ちを常に抱いている。


 愛し愛されているその瞬間だけは、その空虚さを忘れ、自分が何か特別なものにでもなったかのような気分に浸れるので、そんな相手を探している。


 彼女でなくても良かった、とは表立っては言えないが。


 てっきりそれを見透かされているのかと思っていたけれど。

 友達としてこうして会って、こうして抱き寄せているのに拒まれる様子は無い。


 そうしていると、段々と満たされた気持ちになってくる。

 息が早くなり、鼓動も早くなっているが、それとは裏腹に頭は冷や水を被せられたように冷静。

 体の奥から何かがじんわりと湧いてきて、体重が半分ほどに軽くなったような感覚。


 いや、実際に軽くなっているのか。


 抱きしめた彼女はどうだろうか、息づかいは、鼓動は。

 僕には何も分からない。

 ただ、この時間を堪能する。


 思わず目を瞑る。

 伝わる熱は、僕のものか彼女のものか。


 僕は彼女と抱き合っている。

 いつの間にか移動していた見知らぬ部屋の中で。


 シャワールームの横で。

 ふかふかのベッドの前で。


 彼女の細い体をゆっくりと抱きしめ、段々と力強く。


 そしてベッドの中に倒れ込んでいく。


 僕は抱き合っている。


 僕は彼女と抱き合っている。


 大きなベッドの中で。


 放ち終えた熱に包まれて、やがて微睡む。

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抱き合っている 甘木 銭 @chicken_rabbit

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