<21・閉塞>

 高い天井には、ハシゴでも使わない限り手が届きそうにない。ツルハシをうーんと伸ばしてみてもそれは同じだ。

 そしてほぼ正方形とおぼしき八畳間ほどの部屋は、床、天井、壁全て灰色の打ちっぱなしのコンクリートである。窓もなく、ドアもない。天井から落ちてきたはずなのに、こうして見上げている限りでは天井のどこらへんに切れ目があったのかもよくわからなかった。なんせ中央に、小さな電球のような頼りない灯りが一つあるだけなのだ。詳しい観察などできる状況ではない。あれさえ消えてしまったら、この真四角の部屋は完全に闇へと閉ざされてしまうだろう。

 よく見ると、天井と壁の間には細く隙間が空いているようだった。恐らく、そこから空気を送り込んでいるのだと思われる。そうでなければこんな狭い部屋、とっくに酸欠になっていてもおかしくはないからだ。つまり、自分達をこの罠に落とした奴らは、自分達を即座に殺すつもりはないのだろう。――いくら空気だけ送り込んで来られても、自分達は仙人ではない。酸素を食べて生きていけるはずもなく、いずれ飢えて死ぬことは明白であったが。


「やっぱり……全然むりっ!」


 ここに落とされて何分?あるいは何時間が過ぎたか。懸命に壁にツルハシを打ちつけていたマリナが諦めたように尻もちをついた。


「ツルハシじゃ全然穴なんて空けられない……!どうするのよ、ねえどうするのよケンイチ!」

「うるせえ、俺に訊くな!」

「俺に訊くなって何!?このままじゃ私達二人とも死んじゃうでしょ!何とかしてよ、せめて何か考えてよ!私のこと守ってくるんじゃなかったの!!」


 何で、こんな状況でさえそんなことを言うのだろう。もう、マリナが理想とする自分を演じる気力もなかった。考えれば考えるほど、今の状況がどれほど絶望的かも思い知ろうというものだ。


「そんな約束してないだろ!」


 思わず声を張り上げていた。


「何だよ、いつも守って守ってって!俺だってただの中学生のガキなんだよ、何でもできるヒーローじゃないんだよ!そりゃ女の子だし助けてやりたい気持ちもあるけど、こういう時に都合よく奇跡なんか起こせないんだ……!見知らぬ異世界に来て、ぶっちゃけいっぱいいっぱいだったのにいつもいつもいつもプレッシャーかけさせやがって。お前は、お前を守って俺が死んでもいいのかよ。俺だってなあ……俺だって本当は、自分のことだけでいっぱいっぱいだったってのに!」


 絶対言ってはいけない。そう思っていた言葉が、ぽろぽろと口から零れ落ちた。自分はここで死ぬ。きっとそうなる。どうしようもない。そんな絶望が、がりがりと音を立てて理性を引っ掻き壊していくのを感じるのである。


「け、ケンイチ……?」


 そして、いつもなら言いかえして来るであろうマリナは。呆然と自分の名前を呼んで、黙り込んでしまった。


「ご、ごめん、でも……でも私、私はケンイチなら守ってくれると思って、ただそれだけで、でも、でも……っ」


 俯いてたどたどしく喋るマリナにいつもの覇気はない。


「でも、わかってるけど、でも……こんなところで死にたくない。どうすればいいの……どうすれば、どうすれば……」


 最後の方はケンイチにあてた言葉というより、自問自答だろう。それに答えて、優しく慰めてやれる余裕が既にケンイチにもなくなっていた。それほどまでにこの、出口何もない灰色の部屋、は絶望的な空間であったのだ。

 確かに、自分達の基本戦術は決まっていたと言っていい。二人で時間停止をしながら基地に侵入し、マリナの力で敵兵に洗脳をかけて脱出する。だから、それに対して何かの策を講じてくることは充分に考えられたのだった。でも。

 それでも、なんとかなると信じたかった。ナコが、これで行けると言ったから。そして自分と、マリナの能力は無敵だと思いたかったから。――それ以上の悪い可能性を、考えることを放棄していた。それができるだけの余裕が、ケンイチには一切なかったから。

 夢のような異世界で無双したいと願ったのは確かに自分だ。でも、いざ実際に異世界転生してみると、その夢のような世界にも残酷な現実はいくらでも横たわっているのだ。現代日本にはいないような肉食のモンスターにうじゃうじゃしているし、現代日本よりも遥かに治安が悪い町が多いから油断するとスリやら強盗やらにも遭う。

 そして、勇者だなんだと祭り上げられて魔王軍との戦争に駆り出されれば、目の前で人間兵たちの手足が千切れ飛ぶ様も、ハチの巣になって脳みそを溢れださせる様も間近で見なければいけない。実際、自分自身も指を吹き飛ばされるなんて大怪我をする羽目になった。あの痛みと恐怖は、けして忘れられるものではない。

 とっくに気づいている。異世界の現実は、思い描いていたほど良いものではないし、優しい物ではないのだと。チートスキルを持っていたら何も怖くなくなるなんて、そんな都合の良いことは何もなかったのだと。

 それでも、あの疲れるばかりの退屈な世界に二度と戻りたくないのなら、この世界で立派に勇者を務め上げるしかないのだ。だから、本当は不安で仕方なくてもいつも通りの自分を演じた。それが、マリナに期待された己の役目だと分かっていたがゆえに。


――でも、もう……限界だ……!


 アテナ基地の地下であるのか、それとも異空間であるのか。どうやら奴らは的確に、自分達が通るであろうルートを予測していたということらしい。ナコがガセネタを掴まされて誘導されたのか、あるいは彼女が取るであろう作戦を先読みされていたのかはわからない。が、この落とし穴と地下室ほど、ケンイチとマリナの能力を的確に封じるものはないというのは間違いないことだった。

 ケンイチの能力は、時間停止はできても攻撃力は上がらない。こんなコンクリートの部屋では、ツルハシごときで、いくら中学生程度の腕力で叩いたところで、かすり傷をつけるだけが精々だろう。時間停止を使えばいくらでも時間は使えるだろうが、それもケンイチの体力が尽きるまでという制約がかかる。大体、それより前にツルハシの方がイカレてしまうのが目に見えている。なんせ、ただの鉄製の農具でしかないのだ。あくまで窓枠を壊すのに必要だから持ち込んだだけで、これで戦闘をすることさえ考慮していたわけではないのである。

 そしてナコの能力は、近くに奴隷にできる男性がいなければ発動しない。呪文を聴かせること目を合わせることが操る条件である以上、傍にケンイチしかいない今寵愛をかけられる相手もケンイチしかいないのだ。この状況を打破しうる武器になるはずもなかった。


「や、やっぱり……」


 マリナがついに、嗚咽を漏らし始める。


「やっぱり、攻撃系の能力をどっちか取るべきだったのよ。何で、あんた絶対停止なんか取ってるのよ。た、戦える能力の方が絶対いいに決まってるのに……!」


 まだ、人のせいにする余裕があるらしい。いい加減にしろ、と言いかけてケンイチは、マリナの顔色が悪いことに気づいていた。明らかにそわそわしているし、焦っている。ひょっとして。


「もしかして、トイレ我慢してる?」

「う、ううう……そ、そういうことはっきり言わないでよお……!」


 顔を真っ赤にして呻く少女。よほど限界が近いらしい。明らかに冷や汗をかいて、足を擦り合わせている。エロゲーでありそうなシチュエーションではあったが、正直なところまったく笑い話ではなかった。このままいけば同じ問題がケンイチにも確実に降りかかってくるのだから。ここには水も食料もなく、そしてトイレも風呂も何もないのだ。生理現象だけは、どう足掻いても我慢しきれるものではない。


「……俺、向こう見てるから。部屋のすみっこで、しちまえよ」

「ばっ……そんなの!」

「悪いけど、俺も冷静じゃねえし。今すぐここから脱出する方法なんか思いつかないし。……我慢しすぎたら、病気になっちまうだろ」

「――――っ!」


 羞恥心があるのは当然だ。何より、こんな狭い部屋の隅っこなんて。たとえするのが“小”の方であっても臭うのは避けられないし、不衛生なのも事実だろう。水はけがいいとも思えない。ティッシュの類もないから汚れた股間を拭くこともできない。ケンイチがいて見られるかどうかという問題を抜きにしても、本来なら絶対避けたい行為であるはずだった。これが年頃の美少女なら尚更だ。

 しかし、マリナも既に限界の限界だったのだろう。顔を真っ赤にさせると、見ないで!と言って部屋の隅の前に立ち、しゃがみこんだ。そしてスカートをまくり上げる。可愛らしい薄ピンクの下着に包まれたお尻が見えた。彼女が下着を下げる直前に、慌ててケンイチは反対側を向く。ほどなくして、しゃああああ、という流水音が聞こえてきた。水音は長く続き、なかなか止まる気配がない。よほど我慢に我慢を重ねていたということらしい。ミッションの直前に、トイレを済ませて来なかったのだろうか。あるいは緊張して、普段よりも催してしまったということなのか。

 長い水音がやっと終わったところで、ぐす、ぐす、と鼻を啜る音が聞こえてきた。段々と彼女も、このどうにもならない状況を受け入れ始めたということらしい。自分達は罠にかかった。魔王軍に捕まった。ひょっとしたらこの部屋にはもう、その敵の魔王軍の兵士さえ誰も来ないまま、カラカラに干からびて飢え死にするまで放置されるのではないか、と。


「な、なんで……なんでこんなことになっちゃったの……」


 後ろからマリナの、耐え切れなくなったのであろう嗚咽が響く。


「わ、私……ただ、この世界で……夢みたいな世界で、勇者になって。最高の能力を貰って……現実の世界とは違って楽しくて、刺激的な場所で、笑って過ごしたかっただけ……。ゆ、夢を、叶えたかっただけなのに。そのために、一生懸命やってた、だけ、なのに。何がいけなかったの。こんな目に遭うほど、酷いことなんかしてないじゃない。何が悪かったっていうの、ねえ。……わ、私達を連れてきたくせに、なんでメガミサマは助けてくれないのよ……」


 ケンイチは、唇を噛み締める。その言葉はまさに、ケンイチの心の代弁も同然で。


「助けてよ……お願いだから誰か、誰か助けてよお……!死にたくない……こんなところで、死ぬ、なんて」


 干からびて死ぬのが嫌なら、ツルハシが壊れる前にそれで自害するくらいしか選択肢がない。そんな馬鹿げた話が何故あるのだろう。

 悔しさと絶望で、声さえも失った時。どこからともなく、ぶつっ、とノイズが跳ねるような妙な音がした。

 そう、どこかでマイクの音声が入ったような。


『ケンイチ、マリナ。……二人とも、聞こえる?』

「え……!?」


 ケンイチは眼を見開き、顔を上げる。やや籠っていたが、聞き間違えるはずのないその声は。


「……ユキト?」


 自分達がつい先日、追放したばかりの元仲間のそれであったのだ。

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