<10・遁走>

 今が夢なのか現実なのか、それさえユキトには分からなかった。疑われてしまった悲しみよりも、殺されるかもしれないという恐怖が勝っていたがゆえに。


――死にたくない、死にたくない死にたくない死にたくない!何で、何で僕が!僕は何も、何も悪いことなんかしてないはずなのに!!


 どうして自分は走っているのだろう。冷たい人々の眼から逃げるように、体力もないのに息を切らして。何処にも行く宛てなどない。石を投げられそうな気配に怯えて森に駆け込んだはいいが、だからといって安全が保障されるはずもなかった。昨晩降った雨のせいで、地面はぬかるんでいる。何度も転びながら逃げ、痛みに呻き、そのたびこの世界の不条理を嘆いた。

 苦しい、悔しい、怖い、悲しい。

 確かに自分は、ケンイチやマリナやナコと比べると頭脳でも運動神経でも劣るかもしれない。そして、貰ったチートスキルも回復オンリーで、派手で目立つものではないのかもしれなかった。でも、そもそも回復スキルを取れと自分に命じてきたのはケンイチではないか。自分だって、もっと派手に敵を攻撃したり、無双できる能力があった方が嬉しかったというのに。

 彼の言う通りのスキルを選んで、ずっと彼に言われるままパシリのような扱いも耐えてきた。それなのに、そうやって我慢を続けた結果がこのありさまというのは、あまりにも理不尽が過ぎて笑えてきそうなほどである。これが、何かのフィクションだったならどれほどいいだろう。ライトノベルやアニメならば、お前なんか本当の仲間ではないと追放された少年は下剋上を約束された主人公に違いない。そしてきっと、本当の仲間に巡り合うことができ、本物の才能を開花させて元の勇者パーティを見返すに違いないのだ。元の仲間達は“すまなかった、帰って来てくれ”と頼むも、当然裏切られた主人公が許すはずもなく。みっともない仲間達を鼻で笑い、ざまあみろと捨てて、読者も主人公もスッキリして終わるというのがテンプレートな展開だろう。

 そう、これが物語ならば。ユキトにはきっと、そんな素敵なざまぁ展開のヒーローになる運命が巡ってくるはずなのだ。

 だが、これは現実。都合の良いお伽噺でもなく、マンガやアニメの世界でもない。追放された勇者を偶然見つけてくれる美少女もいなければ、そんな自分を憐れんで匿ってくれる村人もきっと現れない。

 右も左もわからない異世界で。

 元の世界の仲間達からも見捨てられた自分が、一体どこに行ってどう生きろというのか。持っているのは、回復スキルだけ。他の魔法も使えなければ、剣術も何もない、そもそも武器の一つも持ってない。当然、子供の自分を雇ってくれるような会社や組織があるのかどうか。――いやそれ以前に、今自分がいる場所がもう何処なのかもわからない。町はどこか。そうだ、自分が裏切り者だなんて噂がまだ流れていない町は、一体どこに。

 誰も自分を疑わない、自分を傷つけない、そんな場所に行かなければまた同じことを繰り返す。ケンイチとマリナが追いかけてこなくても、魔王軍のスパイと疑われた異世界人、元勇者の裏切り者を救ってくれる奇特な奴がどこにいるだろう。


――ああ、もう、僕は。元の世界には……帰れない、のかな。


 女神には、元の世界に帰してくれと頼もうとしていた。でも、正確にはその願いはナコのそれとは異なる。

 “元の世界でも生きていけるくらい、強いニンゲンにしてくれ”。それが、他ならぬユキトの願いだった。もう散々だったからだ、強いニンゲンを見つけて阿り、その機嫌を取っていじめられないように怯えながら暮らすのは。

 誰にも負けない喧嘩の腕や、あるいはナコのような頭脳があれば。きっと自分は、いじめられることなく一人でだって生きていける。誰かに馬鹿にされることもなく、楽しい学園生活を送ることだってできるはずなのに――。


「ひっ!」


 泥だらけになりながら逃げる、鬱蒼とした森。

 ユキトの前に現れたのは救世主ではなく、自分の身長をゆうに超えるほどの巨大な大蛇だった。


「へ、へ、へびっ……!」


 そうだ、と今更ながら思い出す。シトロン基地と隣接する町、その町を囲むようにして位置するシトロンの森には、蛇系のモンスターが数多く生息しているから気を付けるようにと現地住民から言われていたのである。特に紫色の肌の大蛇は危険だから、見かけたら目を合わさないように気を付けてすぐに逃げろと。あの蛇は木の上まで追いかけてくる上、移動速度が人間の走る速さを上回る。その巨大な体で締め上げられれば全身の骨を砕かれるのは想像に難くなく、さらにその牙は容易く人の皮膚を突き破り内臓さえも啜り上げるのだと。

 何より最悪なのは、その牙から注ぎ込まれる猛毒。

 生きたまま人の皮膚を、肉を、内臓を、骨を腐らせてしまう恐ろしい毒だという。噛みつかれたという人の写真を一度見させて貰ったことがあったが、人間がまるでゾンビにでもなったかのような酷い有様と化していた。その激痛たるや、大の男が七転八倒して苦しむほどのものであるという。


「シュウウウウウウウ……!」


 そして、目の前にいる蛇はまさに、その紫色の肌の持ち主だった。

 パープル・モグ・スネーク。

 モグ、とはこの世界の言葉で“猛毒”という意味であるらしい。本来ならば目を合わせることもなく逃げなければいけなかったそのモンスターは、既に真っ直ぐその赤い双眸でユキトを見つめて、ちろちろと舌を出していた。大きく体を立ち上がらせ、威嚇のポーズを取りながらゆるゆるとこちらに近づいてくる。


――に、逃げなきゃ、逃げなきゃ!


 まだ距離があるうちに、一気に走って逃げるしかない。僅かばかりの生存の望みがあるとしたらそれだけだった。しかし、ユキトはここまでがむしゃらに走ってきたせいで、既に体力が尽きかけている状態。長く全力疾走をするのは困難極まるところである。

 ついでに現在、完全に蛇に睨まれた蛙の状態だった。足はがくがくと震え、まったく言うことをきいてくれないのである。怖い、なんてものではない。頭が真っ白になりそうなほどの恐怖の中、僅かばかりの後ずさりさえままならない状況だった。こんな有様で、一体どうやって逃げろというのだろう。


――回復スキルはある。でもあれは、僕が完全に死んじゃったら効果がない……!


 そもそも。回復した先から傷つけられるのでは、永遠に生き地獄が続くばかりではないか。こんなことならもう少しちゃんと戦闘訓練をしておくべきだった、なんて後悔をしても完全に後の祭りである。

 世界は、自分に優しくなどない。

 自分を追放した仲間をざまぁするなんて機会などあるはずもなく、自分を認めてくれる本物の仲間とやらに出逢うこともできず、ただただこんな森の中で誰にも知られず死んでいくのが自分の運命だというのか。残酷にもほどがある。こんな死に方をしなければならないほど、自分は悪いことをしたとでもいうのか。

 びくびくと怯え、何が正義かなど考える余裕さえなく、ケンイチ達に付き従ってきたのが罪だったとでも?


――酷いよ……こんなのってないよ……!


 蛇が鎌首をゆらゆらと動かしながら近づいてくる。巨大な口ががばりと開き、紫色の毒と唾液に塗れた牙が、ぬらぬらと濡れ光っているのが見えた。

 噛みつかれて、一瞬で首を落とされて。それで即死できることを願うしかないのだろうか、自分は。


――やだ……やっぱりやだ!死にたくない、死にたくない、僕はまだ……死にたくなんかないよおおお!


 ぎゅっと目を瞑って、心の中で泣き叫んだ――瞬間。


「“ブラック・レイ”!」


 高らかな声と共に、黒い閃光。そして突風。


「――っ!?」


 わけもわからず吹っ飛ばされ、ユキトは意識を失ったのだった。





 ***





「うわあああああああああああああああああああああっ!?」


 がばり、と勢いよく上半身を起こした。勢いが良すぎて、上にのっていた掛布団が派手に吹っ飛んだことに気づく。同時に、自分が横になって眠っていたようだという事実にも。


「はぁ、はぁ、はぁ……!」


 大蛇に喰われて、自分は死ぬと思っていた。きっと苦しんで苦しんでゆっくりと喰われて殺されるのだと。その直後に何か、予想外のことが起きたような気がするがよく思い出せない。ユキトはぜえぜえと息を吐きながら、暫く混乱した頭を宥めることに終始した。少しだけ落ち着いたところでやっと思い至ったのは、随分明るい場所にいるな、ということである。

 そこは、どこかの屋敷の寝室であるようだった。

 吹っ飛ばしてしまったからかけ布団はよくわからないが、横になっていたベッドはふかふかの柔らかいものである。枕も、シトロン基地で自分に割り当てられていた部屋のそれよりずっとふわふわで高級なものであるようだ。自分は眠っていたのだろうか。勇者の仲間達に追放されるという、悪い夢を見ていただけなのか。だが、それならば見覚えのないこの部屋はどういうことなのか。

 左脇の窓には薄緑色のカーテンが敷かれているせいで、外の様子を窺い知ることができない。一体ここはどこだろう、そう思いながらもカーテンに触れようとした、その時である。


「窓を開けるのはやめた方がいい」

「!?」


 声をかけられてようやく、室内にいる人間が自分だけではないと気づいた。ぎょっとして右側を振り返ったユキトは、今度こそ驚愕でベッドから転げ落ちそうになる。

 白い肌、金色の長い髪、赤い目の美丈夫。そして頭の両脇ににょっきりと生えたいかつい角。紅蓮のマントともくればもう、見間違えるはずもない。


「ま、ま、ま、魔王!?」


 ベッド脇の椅子に座り、自分の様子を伺っていたその男は。誰がどう見ても、魔王アダムバードその人であった。女神から画像も見せられたし、人間達の間で写真も出回っている。さすがに見間違えるはずがない。


――な、なんで僕、魔王の目の前で暢気に寝てたんだ!?ま、まさかこの部屋って……!


「なるほど、お前は状況把握が得意な方ではないようだ。ならば簡潔に、我が説明してやろう」


 魔王の声は、思ったほど低くはなかった。というか、想像していたよりも若い声だ。魔族の年齢はわからないが、実は人間でいうところの未成年だったりするのだろうか。


「貴様は、シトロンの森でパープル・モグ・スネークに襲われていたところを、我が部下であるヘレンに救われてこの魔王城まで担ぎ込まれたのだ」

「え……」

「つまり我に命を救われたということだな、元勇者よ。感謝するがいい」

「え、えええええええ!?」


 そして、魔王が告げてきた事実を前に。素っ頓狂な声を上げる羽目になるのである。

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