そのほかをばうちすてて
「最初の一行は、南無釈迦牟尼仏、とありますね。それにしても考えたものです。紙に文字で記したものは水濡れに弱いですし紙自体も朽ちて紛失してしまいがちです。こうして縫いとることで糸が切れるまで長く残ります。糸も異素材を縒り合わせることで強化する工夫がされています」
「最初の一行がお経なのですか」
左貫端万子がたずねた。
「はい。ボロボロの皆さまは仏徒の集まりですから、お経はつきものです。真面目な集まりでしたら当然何かにつけ経文を唱えていたでしょう。つまり、日常です」
「日常ですか。では、手仕事で経文を刺繍するのも自然なことになるのですね」
「そうですね、鎌倉時代に入ってきた禅宗のくくりでボロボロさんを考えますと、後に流れものというあまりよろしくない集まりになったとしましても、経文は身についていたと考えられます」
「特別なことではなかったと」
「はい。前置きなようなものです」
真乎の簡潔な物言いは頭にすっと入ってくる。
「お経はお盆や御葬儀などでしか御縁のない現代の私たちには、いきなりお経で始まるということに違和感があるやもしれません。けれど、当時のその集まりの方にとっては自然なことであったというのを心に留めておいてくださいませ」
そう釘を刺すように言うと、真乎は続ける。
「前置きでお釈迦様への御挨拶を述べてます。そして、続けて、般若波羅蜜多心経、いわゆる般若心経が綴られています。一針一針丁寧に刺しながら記憶していったのかもしれません」
「一針ごとに思いをこめて、ということかしら。手作り好きですと、それが当たり前なのですけれど、そういうのを嫌がる方もいらっしゃるのですよね」
「贅沢な方もいらっしゃるものです」
「いえ、思いをかけられ過ぎるのもストレスになるのだと思いますよ」
左貫端万子の言葉に真乎は肯定も否定も示さずにいる。
「さて、こちらをご覧ください」
真乎が最後の一行を示した。
「昔の言葉ですよね、私には読めません」
「ひらがなですから、声に出してみてください」
左貫端万子は真乎に促され読み上げた。
「そのほかをばうちすてて、だいじをいそぐべきなり」
読み上げて彼女はひと息ついた。
「これは、大事なことを成し遂げるのに関係のないことはほうっておきなさい、という意味でしょうか」
「はい。その通りです」
「縫った方の気持ちでしょうか」
「出典は『徒然草』です」
「『徒然草』、高校の古典で習いました。日記や風刺、教訓めいた話が印象的でした。確か、日本三大随筆だったかと思いますが。『徒然草』、『方丈記』、『枕草子』でしたよね、三大随筆」
「私も覚えてます。つれづれなるままに、暗唱しました」
三輪野るりが口をはさんできた。
顔色がもどり落ち着いているようだった。
「この一節は第百八十八段です」
「ずいぶん話数があるのですね」
「はい。こちらのものでは第二百四十三段です」
真乎は手にした本を見せて言った。
「兼好さんは、一事を成し遂げるのにあれこれ手を出して器用貧乏になってはいけない、優先順位を決めて一時に邁進せよ、と述べてらっしゃるのです」
「現代でも通じる話ですね」
左貫端万子がうなずきながら言った。
「はい。具体例をあげてわかりやすく書いてくださってるのですよ、兼好さん」
「具体例、ですか」
「具体例はこちらになります。親御さんのすすめでお坊さんになろうとしたお子さまが、本業のお経の勉強を脇に置いておきまして、およばれされた時に落馬しないようにと馬の乗り方を練習したり、およばれ先のお酒の席で一芸をお披露目するための「早歌」を習ったりなどにばかり熱心で、社交の業を習得した頃には年がいってしまって、お坊さまにはなり損なってしまいましたとさ」
「あるあるですね」
三輪野るりがうなずきながら言った。
「本当に今でもあることですね」
左貫端万子も同意した。
「囲碁の例えでは先の先を見越しましょうとおっしゃってまして、それから、出かけた方が利を得られるのを、お天気がよくなってからとか夜が明けてからなどと待っているのは愚かなことだと、雨が降ってる間も夜暗い間も時は刻々と過ぎていく、つまり、人生は一瞬たりとも無駄にはできないとおっしゃってるのです」
真乎が話している間、二人ともうなずき合いながら聞いていた。
話がひと段落ちたところで、左貫端万子が真乎にたずねた。
「ところで、この教訓が遺言なのでしょうか」
「そのボロボロトンっていう古裂のキルトカバーと関わった人が遺言を守れば、先生に起こった奇妙なことはもうおさまるんですか」
左貫端万子と三輪野るりは口々に言った。
今の話は現代にも通じる教訓ではあるが、それをわざわざいわくありげな古裂に刺繍する意味が今一つわからなかった。
「はい。では、今少しご説明いたしましょう」
真乎は二人の後ろに回りこむと、そこから両手でぽんっと猫ちぐらをたたいた。
二人が驚いて振り向くと、真乎は笑みを浮かべた顔から真顔になってうなずいた。
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