ぼろぼろ

「沙綺羅さん、こちらをご覧になって」


 真乎は本棚から分厚い単行本を取り出して沙綺羅に渡した。


「『徒然草』、だいぶ年期が入ってますね」

「愛読書なんです」

「そうだったんですか、意外です」

「意外でしたか」

「古典は古典でも、てりふりで扱っている商品と関連のありそうな江戸時代の文学作品を読むのがお好きかと思ってました」


 真乎は書棚を指さすと


「もちろんお江戸ものもありますよ。馬琴さんの『椿説弓張月』などは壮大なスケールのヒロイックファンタジーなのです」

「お江戸ものなのに剣と魔法の物語なのですか」

「ええっと、弓矢と妖術の物語でしょうか、和風ヒロイックファンタジーでしょう」

「魔法ではなく妖術ですか、それなら想像できます。剣は刀ではなく弓矢なのですね」

「刀も出てきますが、主人公のお得意な武器が弓矢なのです」

「面白そうですね」

「はい。よろしかったらご一読を」


 真乎が書棚から本を取り出そうとすると


「今はいいです。現代語訳でないと頭痛がしそうなので」

「私は、現代語訳でしばしば頭痛がしてきます」

「そうなんですか」

「現代の言葉で頭がぎゅうぎゅう詰めになってしまった時は、古典を読んでほぐすんです」

「そんなことできるんですか」

「はい、できるんです」


 沙綺羅は疑い深そうに首をひねりながら目次を開いた。


「目からも耳からも言葉の情報が多すぎますでしょう。古文のリズムでからまり合った情報のリズムを崩すんです」

「情報が多すぎるっていうのはわかります」

「では、第115段を開いてください」


 教師風に真乎が言った。

 沙綺羅はそれに答えるように生徒風に返事をする。


「はい、115段ですね、あ、ここに出てますね、ぼろぼろ、って。でも、ぼろぼろとんとは書いてませんよ」

「その点については改めて説明いたしますので、一文ずつ声に出して読んでください。訳もしてみてください。わからないところは私が補足します」

「古典の授業みたいですね」

「声に出すことで、脳にしっかり刻み込まれます。対象のイメージを把握するために重要な行為なのです」

「試験勉強みたいですね」

「はい、では、どうぞ」


 真乎に促されて沙綺羅は音読を始めた。


「『徒然草』第一一五段。

 宿河原しゅくがはらといふ所にて、ぼろぼろ多く集まりて、九品くほんの念仏を申しけるに、ほかより入り来たるぼろぼろの、『もし、この御中に、いろをし房と申すぼろやおはします』と尋ねければ、その中より、『いろをし、ここに候。かくのたまふはそ』と答ふれば、『しら梵字と申す者なり。おのれが師、なにがしと申しし人、東国にて、いろをしと申すぼろに殺されけりと承りしかば、その人に逢ひ奉りて、恨み申さばやと思ひて、尋ね申すなり』と言ふ」


 最初の区切りまで一気に読み上げると沙綺羅は、言葉を探しながら訳を試みた。


「宿河原とは固有の地名ですか」

「そうですね、地名として捉えても、宿駅の近場にある河原とも捉えられると思います。河原は風来、無頼の方々が集い宿る場所ですね」

「集まっているぼろぼろというのは、風来坊、無頼漢、ということですか」

「そういう傾向はあるのでしょうけれど、九品の御念仏を唱えてるところから、仏徒でしょうね」

「お坊さんですか、修行で旅をしてるのですか。弟子を連れてあちこち回って辻説法のようなことしてたんですか」

「そのような方たちもいらっしゃったでしょう、そのようでない方たちもいらっしゃったでしょう」

「そのようでないとは」

「食い詰めものの破戒僧のような人たちもいらっしゃったようです」

「破戒僧ですか。ぎらぎらしてそうですね。錫杖をふりかざして威嚇したり、喝を入れたり」

「アクションもののキャラクターのようですね」

「僧侶キャラもいますよね、ゲームとか」

「沙綺羅さん、ゲームされるのですか」

「ええ、まあ、昔のことです」


 沙綺羅は少し照れくさそうだった。


「ぼろぼろさんの中には、美女を連れて、ちょっとした教祖さまのような方もいらしたようですよ」

「個人で教祖を名乗るって、怪しい感じがします」

「現代からするとそうしたイメージはなかなか払拭できませんが、当時は、そうした集まりも娯楽で行脚に回るのは行楽だったのでしょう」

「なんとなく想像がつきます」


 沙綺羅はそう言うと、続きに目を通した。


「いろをし、というのは人名みたいですね。このいろをしさんというぼろを訪ねてどなたかが宿河原に来たと、ここではぼろぼろではなくぼろと略してますね」

「はい、そのようです」

「いろをしさん、自分はここにいると返事してます。訪ねてきたのはしら梵字さん。梵字という名前からも仏徒を想起させます」


 真乎はカップを手にしてココアをこくりと飲んだ。


「しろ梵字さんは、自分の師匠の仇討ちにきたと言っています。同じ仏徒同士、何があったんでしょう」

「穏やかではありませんね」

「確かに。宗教戦争は歴史では珍しくないので、何か行き違いがあったのでしょうか」

「案外、俗なことかもしれません」

「俗なこと」

「縄張り、色恋、などなど」

「などなど、ですか」


 沙綺羅は真乎の言葉を引き取ると、


「それにしても、仇討ちを申し込むというのは殺人予告ですよね。すごいシステムですよね」


 と言った。


「当時は必要とされていたのでしょう」


 真乎はさらっと答えた。


「時代の要請だったというわけですか。でも、なんだかな」

「釈然としませんか」

「なんと言いますか、理由があっての殺人予告が必要とされていて、場合によっては見物人もいて、一種の娯楽みたいなわけですよね」

「非日常の行為ですから」

「娯楽の娯楽たるゆえんですよね、非日常感」

「生死のやりとりにそれぞれの正義が絡まり合ってのスペクタクル」

「映画のポスターにありそうな言葉ですね」

「スペクタクルですから」

「まあいいです」

「何がよろしいんですか」

「仇討ちシステムについてです」

「沙綺羅さんがよろしいのでしたら、続けましょう」


 真乎に言われ、「では、続けます」と沙綺羅はページをくった。




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